トライベッカ(英: Tribeca、綴りは英: TriBeCaと書かれることもある、)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ロウアー・マンハッタンにある地区の名である。この名前は「トライアングル・ビロー・キャナルストリート」(Triangle Below Canal Street, キャナルストリートの下側の三角地帯)の頭字を合成したものであり、「トライアングル」は実際には台形に近く、キャナルストリート、ウェストストリート、ブロードウェイ、ビージーストリートに囲まれた地域である。ソーホーの地価が高騰したため、駆け出しの芸術家達がこの地域に移ってきたが、この地区も高級化してしまい、現在はマンハッタンをも出てブルックリンにまで移りつつある。トライベッカ出身のロバート・デ・ニーロが経営するレストランがあるほか、デ・ニーロらが主催するトライベッカ映画祭が毎年開催されている。
トライベッカという名前は、キャナルストリートの南、ブロードウェイとウェストストリートの間、南にチェンバーズ・ストリートまで伸びる地域に宛てられるようになった。この地域は、植民地時代にニューヨーク市域を出て最初に住宅開発された所であり、住宅地としての開発は18世紀後半に始まっていた。19世紀の半ばまでに商業地に転換され、1850年代から1860年代にはブロードウェイ沿いに数多くの店舗やロフト・ビルディングが建設された。
地域は1918年に運行を開始したIRT地下鉄ブロードウェイ・7番街線の延伸で開発が加速され、さらに地下鉄工事中の1914年に7番街が延伸され、ヴァリック・ストリートが拡張されていた。その結果、車でも公共交通機関を使ってのアクセスでも便利になった。そのほかグリニッジストリートには高架のIRT9番街線もあったが、1940年に廃線になった。
1960年代までにトライベッカの産業基盤はほとんど無くなっていた。1970年代には空室になった多くの商業スペースに安くて広い制作場所を求めるアーティストが集まってくるようになった。1980年代からは、工業地域から住宅地域への大規模な転換が進み、大型の住宅地区に変身している。
1996年、トライベッカ・オープン・アーティスト・スタジオ・ツアーが、非営利、アーティストの運営組織として設立され、トライベッカのアーティストに活力を与える一方で、一般大衆の教育機会を提供することを任務とした。15年間にわたって毎年、トライベッカのアーティスト・スタジオを巡る歩行ツアーによって、トライベッカの創造的才能の生の姿を垣間見させるようになってきた。2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件の後は財政的に苦しんだが、政府の補助金や助成金でかなり速く回復できた。トライベッカ映画祭は9.11以降のロウアー・マンハッタンを長期にわたて回復させることに貢献するよう創設された。その任務は「国際的な映画社会と一般大衆が映画祭の経験を再定義することで、映画の力を経験するのを可能にすること」である。トライベッカはこれまでも多くの映画やテレビ番組の撮影に使われてきた。
今日、トライベッカはアメリカで最もファッション性が高く、憧れられる地区の1つであり、セレブが住んでいることで知られる。2006年の雑誌「フォーブス」は、その郵便番号10013をニューヨーク市で最も金の掛かる場所に挙げた。ただし隣接する低所得者の町チャイナタウンも郵便番号は10013である。2010年時点で、ニューヨーク市警とコンプスタットの統計に拠れば、トライベッカはニューヨーク市内の最も安全な地区になっている。
1970年代初期、ソーホー地区のアーティストが、もともと工業地域だったソーホーでの居住や制作活動の合法性を認められるようになってから数年が経ったころ、その南の当時はワシントン・マーケットあるいは単純にロウアー・ウエスト・サイドと呼ばれた地域のアーティストや住人の組織が、自分たちの地区も同じようなゾーニング上の地位を得たいと考えた。
キャナルストリートの直ぐ南、チャーチストリートとブロードウェイの間、現在は目印となるトライベッカ歴史地区の一部になっている地域、税ブロック番号210に住むリスペナードストリートのアーティストと住民の集団がこの動きに加わった。ソーホー・アーティスト協会のメンバーが、市の都市計画図でそこを「サウス・オブ・ハウストン・ストリート」と記していたことからその地区を頭字語で「ソーホー」と呼んだように(都市計画者も通常「ソーホー」という言葉を使っていた)、リスペナード・ストリートの住人も都市計画図でそのブロックを表現している言葉を選んだ。
リスペナードストリートはキャナルストリートと同様に東西方向にあり、キャナルストリートの南にある最初のブロックを、ウェストブロードウェイからブロードウェイまで2つだけの長さに過ぎない。キャナルストリートとリスペナードストリートが作るブロックはチャーチストリートからブロードウェイまでであり、チャーチストリートでは広いが、ブロードウェイで狭くなる。このために都市計画図では幾らか三角形の様に見え、他の市内のブロックが矩形をしているのとは異なっている。リスペナードストリートの住人はその集団の名前を「トライアングル・ビロー・キャナル・ブロック協会」と決め、ソーホーの活動家が行ったようにその名前を短縮して「トライベッカ・ブロック協会」とした。
新聞「ニューヨーク・タイムズ」の記者が地区割りの話を書いていて、このブロック協会のことを都市計画図に載せる段になって、1ブロックではなく、誤って地区全体のことを指すようにトライベッカを使った。全国紙が一旦ある言葉を使い始めるとそれが通例になるようにトライベッカが地区の名前になった。このことは1970年代にトライベッカ・ゾーニング運動に関わった元住人で委員だったキャスリン・フリードが語っていたことである。
以下は2000年の国勢調査による人口統計データである。
トライベッカには、元は産業用のビルが住宅ビルとロフトに転換されたものが多く、これはソーホーのキャストアイアン歴史地区と似ている。19世紀と20世紀初期にこの地区は繊維、綿糸の交易の中心だった。
この地区で著名なビルとしては、ヘンリー・J・ハーデンバーグが設計し1901年に建設された新ルネサンス様式のテキスタイル・ビルディング、カレール・アンド・ヘイスティングスが設計し1892年に建設されたハドソン通りのパウェル・ビルディングがあり、後者はニューヨーク市ランドマークに指定されている。ワースストリート73には南北戦争終戦の1865年に建設された新ルネサンス様式の白いビルの並びがある。その他の著名なものに、ウェストストリート140にあるニューヨーク電話会社ビルはマヤ文明にヒントを得たアール・デコ調のモチーフが使われている。またハリソンストリート6にあるニューヨーク商品先物取引所ビルもある。
1960年代と1970年代に、放棄され高価ではなかったトライベッカのロフトが、若いアーティストとその家族の住居として人気が出た。ロウアー・マンハッタンの隔絶された世界にあり、空間が広かったからだった。この頃からトライベッカに住んでいるジム・ストラットンは、1977年に『都市内荒野の開拓』というノンフィクションを著し、ロウアー・マンハッタンの倉庫を住居に改修した経験を語っている。
トライベッカ歴史地区はマンハッタン区トライベッカ地区内にある4つの歴史地帯の組み合わせである。1992年と2002年に指定されたトライベッカ・サウス&イクステンション、1992年に指定されたトライベッカ・イースト、1991年に指定されたトライベッカ・ウェスト、1992年に指定されたトライベッカ・ノースの4つである。
ロバート・デ・ニーロとジェイン・ローゼンタールが1993年にテレビ番組『トライベッカ』を共同制作し、2002年にはトライベッカ映画祭を初めて、この地区の宣伝に貢献した。デ・ニーロは「トライベッカ」を含むドメインネームを全て所有しており、映画祭に関するコンテンツに使用している。特にtribeca.netというウェブサイトの所有者と論争してきた。
ディズニー・チャンネルのオリジナルドラマである『ウェイバリー通りのウィザードたち』は架空の学校「トライベッカ・アカデミー」が出て来る。外観はマンハッタンのグラマシー・パーク、1番街と2番街の間、20丁目東で撮影された。
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