玉造(たまつくり)は、大阪府大阪市中央区と天王寺区の町名。または同市中央区と天王寺区の地域名称。本稿では町名の由来となった、かつての東成郡玉造町(たまつくりちょう)についても述べる。現行行政地名は中央区玉造一丁目および玉造二丁目、天王寺区玉造本町および玉造元町。
現在、玉造と付く町名は中央区玉造、天王寺区玉造元町・玉造本町がある。これらに隣接する中央区森ノ宮中央の南部・法円坂の南東部・上町の東部、天王寺区真田山町の南東部は東成郡玉造町の旧町域を含んでおり、他に玉造駅周辺の天王寺区空堀町・清水谷町・餌差町、東成区中道・東小橋なども地域名称として玉造と呼ばれることがある。
職住混在地域で、上町台地に展開する文教地区の一画を占める。西区の川口と並んで大阪市街におけるキリスト教の布教拠点となった地で、ミッションスクールが多い。
古墳時代に勾玉などを製作する玉作部(玉造部)がこの地に置かれていたことが地名の由来とされている。
昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。前述の玉作部と、高安(現在の八尾市神立地区)の玉造部との間に、玉祖道を通じて交流があったといわれている。
石山合戦では主戦場の一つとなり、豊臣秀吉による大坂城築城に際しては、当初玉造は町人地であったが、町家の郭外移転を伴う慶長初期の三の丸造営によって、大坂城三の丸に組み込まれ、細川・宇喜多・蜂須賀・前田・龍造寺・浅野・片桐などの屋敷が玉造に置かれた。しかし、大坂の陣によって全て灰燼に帰した。
松平忠明による復興により、玉造は武家地・町人地・年貢地が混在する地域となった。北半に玉造口定番の武家屋敷地、中央に町人地(当初は36町。幕末時は26町)、空堀跡以南に東成郡玉造村が置かれた。豊臣末期に一旦町人地でなくなっているため、徳川期の玉造町人地は伏見城下からの移住者を中心に形成された。なお、町人地として再活用されなかった余剰地が点在しており、それらは平野口町の高津屋吉右衛門に肝煎させて西成郡吉右衛門肝煎地となった。
町人地では、1648年(慶安元年)に玉造口定番の与力・同心屋敷地として収公された二本松町、北新町、大津町、東伊勢町、伏見伊勢町、伏見清水町、伏見長屋町、越中町1丁目の8町が堀江へ移転、1702年(元禄15年)に代官支配地(西成郡古屋敷地)として収公された伏見坂町の北組分が千日前へ移転している。
玉造村は高燥地であることから畑作の村で、玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり、「玉造黒門白瓜」とも表記)が栽培されていた。玉造黒門越瓜の「黒門」の名は、現在の中央区玉造1丁目付近にあった豊臣期大坂城の玉造門が黒く塗られていたことに由来する。
猫間川の水運が土砂の堆積によって江戸時代末期から衰微しており、そこへ明治維新後の武家屋敷の破却が重なったことから町人地の経済が衰退してしまい、江戸時代以来の武家地・町人地は1873年(明治6年)に大阪市街から切り離されるに至った。
明治元年の時点で玉造町人地には以下の26町があった。
2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。
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国勢調査による人口の推移。
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2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。
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国勢調査による人口の推移。
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2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。
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