藤井 裕久(ふじい ひろひさ、1932年〈昭和7年〉6月24日 - 2022年7月10日)は、日本の政治家、元大蔵官僚。
参議院議員(2期)、衆議院議員(7期)。大蔵大臣(第98・99代)、財務大臣(第12代)、内閣官房副長官、内閣総理大臣補佐官、自由党幹事長兼政策調査会長、民主党幹事長、民主党代表代行、民主党最高顧問を歴任。位階は正三位。勲等は旭日大綬章。
東京府東京市本郷区生まれ。父は広島県深安郡千田村出身で東京大学医学部卒業の内科医。藤井は次男。
戦時中は本郷弓町に在住しておりドーリットル空襲を「目撃」している。
東京女子高等師範学校附属国民学校(現:お茶の水女子大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校・高等学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、東京大学法学部公法学科を卒業。東京高師附属中・高時代は野球部に所属。チームは戦後すぐの1946年(昭和21年)に東京都大会を勝ち上がり全国中等学校野球大会(甲子園大会)に出場し、準決勝で敗退した際に土を持ち帰ったことがその後の伝統の嚆矢となったが、当時旧制中学3年で特別科学学級に在籍していた藤井はベンチ入りできなかった。
東京大学卒業後、大蔵省(現財務省)に入省。振り出しは大臣官房文書課。入省同期に、平澤貞昭、行天豊雄、水野勝、吉居時哉、佐藤光夫などがいる。田中角栄政権で内閣官房長官を務めた田中側近の二階堂進と田中派の中堅として頭角を表し始めていた竹下登両長官の秘書官を務める。この田中角栄の側近中の側近と、田中派の中堅として頭角を表し始めていた二人の知遇を得たことが政治家に転身する一つの契機となった。1976年(昭和51年)6月18日、大蔵省主計局主計官を最終役職として退官。
1977年(昭和52年)の参院選で全国区から自由民主党公認で立候補し当選。1983年(昭和58年)の参院選では比例区で再選を果たすが、2期目の任期半ばの1986年(昭和61年)に衆院選への鞍替え出馬のため辞職。ところが旧神奈川3区から自由民主党公認で出馬したこの衆院選では前職元職の厚い支持層を切り崩せず次点に泣く。3年半の浪人生活ののち挑んだ次の1990年(平成2年)の衆院選で雪辱を果たし、衆議院議員に転じる。
1993年(平成5年)自由民主党を離党して新生党結成に参加。細川内閣で大蔵大臣に就任。続く羽田孜内閣でも再任された。蔵相として景気悪化による税収減により赤字国債を1989年(平成元年)以来4年ぶりに発行した。その後新進党を経て自由党で幹事長に就任。この時代は「うちの党首(小沢)もそう申しております」が口癖で、NHK『日曜討論』などで自党の主義主張を繰り広げた。
自由党が民主党と合流(民由合併)した後は、岡田克也代表の下で幹事長を務めた。この時代には、選挙区調整などで自由党出身者を優遇しない藤井の手法に対して、山岡賢次ら他の小沢側近と激論を交わす場面もあった。後に代表代行を務めた。
2005年(平成17年)の衆院選では神奈川14区で自由民主党の新人に破れ、重複立候補していた比例南関東ブロックでも民主党の次々点で落選した。このときすでに73歳になっていた藤井は高齢を理由に政界引退を表明。その報告をするため小沢事務所を訪ねた際、小沢に「もう一緒に歩むことはできなくなりました」と述べると、小沢は涙ぐんだという。しかしその後、民主党南関東ブロック選出の永田寿康と長浜博行がそれぞれ不祥事の引責と参院選への鞍替え出馬で次々に辞職・失職した結果、次々点だった藤井が繰り上げ当選となり思いがけず国政に復帰した。
2007年(平成19年)8月、党最高顧問に就任。9月から党税制調査会長も兼務。民主党政権誕生への最後の奉公として講演や地方行脚など、選挙応援のために積極的に活動した。
早くから次の総選挙への不出馬を表明、2009年(平成21年)の衆院選では元秘書で神奈川県議会議員の本村賢太郎に神奈川14区の地盤を譲るが、鳩山由紀夫代表から「一緒に政治を変えてください」と頼み込まれ、公示直前に引退を撤回し南関東ブロックから単独立候補した。民主党の名簿35位という通常ならばまず当選圏外だったが、民主党がこの選挙で地滑り的圧勝をしたためまたもや当選してしまった。
同年11月、衆議院議員在職25年を迎え、衆議院より院議をもって表彰された。
2009年(平成21年)9月16日、鳩山由紀夫内閣の財務大臣に就任した。なお大蔵大臣、財務大臣をいずれも務めたのは、省庁再編の際の大蔵大臣であり初代財務大臣である宮澤喜一を除けば、歴代の大臣では藤井のみである。しかし、同年12月28日、予算編成などによる疲労で検査入院。同月30日の臨時閣議には出席したが、同日午前と夜に開かれた日本航空の再建を巡る関係閣僚会議を欠席するなどの体調不良を理由に、2010年(平成22年)1月6日に辞任。後任の財務大臣は、菅直人副総理が兼務することとなった。
藤井は大臣辞職後、しばらくは休養に専念した後に政治活動を再開した。
2011年(平成23年)1月14日、菅直人に「役人を良くご存知なのはあなただから」と請われる形で、菅直人第2次改造内閣で内閣官房副長官に就任した。しかし3月17日には官房副長官を退任し、内閣総理大臣補佐官(社会保障・税一体改革及び省庁間調整担当)に就任した。同年9月の野田佳彦内閣の発足に伴い内閣総理大臣補佐官を退任。民主党最高顧問と新設した民主党税制調査会長に就任した。
次の総選挙には出馬せず2012年(平成24年)12月をもって政界から引退した。引退の理由として80歳の高齢であることを挙げた。
民主党が民進党に改まっても引き続き党近現代史調査会の座長を務めた。
民進党の分裂後の2018年(平成30年)2月には、民進党出身者などによる超党派の市民会議「自由民権会議@神奈川(民権かながわ)」を江田憲司らとともに設立し、会長に就任した。
2022年7月10日、東京都内の自宅で死去した。90歳没。日本政府は藤井の多年に亘る業績を多として没後に正三位に叙した。
自由党幹事長時代、自由党と民主党の合併3日前の2003年(平成15年)9月23日に、自由党の政治団体「改革国民会議」に対して5億6096万円を寄付したことは、政党助成金の返還義務を逃れるためではないか、また大和銀行から自由党への10億円の借入を返済した事実が政治資金収支報告書に記載されていないという2点を、自由民主党の松岡利勝から指摘された。しかし、政党助成金はその使途について規制されておらず、また後者についても事実であれば実質的な寄付であり政治資金規正法違反の疑いは残るが、総務省は実質的な調査権を有さないことから、いずれもそれ以上の追及はなされなかった。
自由党時代の1999年(平成11年)から2003年(平成15年)にかけて、「組織対策費(議員名の領収書があれば使途の説明を求められない支出)」として31億円が藤井宛に支出されていたことが判明した。名義借りの疑いが浮上している。
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