ティモシー・レインズ・シニア(Timothy Raines Sr., 1959年9月16日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州セミノール郡出身の元プロ野球選手(外野手)。右投両打。ニックネームは「Rock」。通算808盗塁はMLB歴代5位。2017年にアメリカ野球殿堂入りを果たした。
1977年のMLBドラフトでモントリオール・エクスポズから5巡目(全体106位)で指名を受けて契約。1979年9月11日にメジャーデビュー。当初は二塁手としても起用されていた(1984年までの間に通算53試合で二塁を守る)が、俊足を生かして外野手に転向。
50日間に及ぶストライキでシーズンが中断された1981年には、88試合の出場で71盗塁を決めて初のナショナルリーグ盗塁王を獲得。以後1984年まで4年連続で盗塁王を獲得。ビンス・コールマンがデビューした1985年以後はタイトル再獲得はならなかったが、1986年まで6年連続で70盗塁を記録。1986年には打率.334で首位打者を獲得し、シルバースラッガー賞にも選ばれる。
その年のオフにFAとなったが、当時各球団のオーナーが共謀して高額FAとの契約を避けたため、獲得に名乗りを上げる球団はなく、旧所属球団との交渉期限を過ぎたため、それが再び認められる1987年5月1日にエクスポズと再契約。復帰初戦では延長10回表の決勝満塁本塁打を含む4安打4打点と活躍。この年出場したMLBオールスターゲームでは0-0で迎えた延長13回表に、熱戦に終止符を打つ決勝2点タイムリー三塁打を打ってMVPに選ばれた。
1991年にジェフ・カーター、マリオ・ブリトーとともにシカゴ・ホワイトソックスに移籍。1993年頃から徐々に盗塁数が減り、1996年にニューヨーク・ヤンキースに移籍後は出場機会も減った。1996年と1998年にはワールドシリーズ優勝を経験。1999年にはオークランド・アスレチックスに移籍。
2000年は2月にヤンキースと契約したが翌月に解雇された。その後は独立リーグ・アトランティックリーグのサマセット・ペイトリオッツに入団し7試合に出場した。またシドニー五輪アメリカ代表の選考の際に名前が挙がり注目されたが、選出されなかった。
一度は引退は決意したが、当時ボルチモア・オリオールズ傘下に所属していた息子ティム・レインズ・ジュニア(英語版)とのプレーを目指し翌2001年にエクスポズでMLBに復帰。同年10月1日に息子がオリオールズでメジャーデビューし、ケン・グリフィー・シニア、ケン・グリフィー・ジュニア親子に次ぐ史上2組目の親子同時メジャーリーガーとなった。2日後の10月3日に父レインズがエクスポズからオリオールズに移籍し、シーズン終盤の数試合、親子同時出場が実現した。
翌2002年に故郷フロリダのフロリダ・マーリンズで1年間プレーして現役引退。
現役引退後、2003年はエクスポズ傘下アドバンスドA級のブリバードカウンティの監督に就任。2004年から2006年までホワイトソックスのコーチを務め、2005年には一塁ベースコーチとしてチームのワールドシリーズ優勝に貢献。2007年はナショナルズ傘下のAAA級ハリスバーグの打撃コーチを務めた。2009年から2011年まで、アメリカ独立リーグのアトランティックリーグに加盟するニューアーク・ベアーズの監督を務めた。
2017年終了時点でエクスポズ→ナショナルズの出塁(2440)、得点(947)、単打(1163)、三塁打(82)、四球(793)、盗塁(635)の球団記録保持者。2004年にレインズのエクスポズ在籍時の背番号『30』は永久欠番に指定されたが、翌2005年にエクスポズがワシントンD.C.に移転してワシントン・ナショナルズに球団名が変更されたため欠番はラスティ・スタウブ(「10」)、ゲーリー・カーター(「8」)、アンドレ・ドーソン(「10」)とともに失効となるが、現在は「旧モントリオール・エクスポズ永久欠番」として顕彰されている。
2013年にカナダ野球殿堂入りを果たした。
2017年1月、資格最終年となる10年目でアメリカ野球殿堂入りを果たした。資格最終年での表彰はレッド・ラフィング(1967年)、ジョー・メドウィック(1968年)、ラルフ・カイナー(1975年)、ジム・ライス(2009年)に次ぐ史上5人目であった。7月30日にクーパーズタウンで開催された式典では、一緒に表彰されたジェフ・バグウェル、イバン・ロドリゲスと共にスピーチを行った。
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