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高石ともや


高石ともや


高石 ともや(高石 友也、たかいし ともや、1941年〈昭和16年〉12月9日 - )は、日本のフォークシンガー。代表作は「受験生ブルース」。

人物と略歴

1960年代後半の日本のフォークソングの創世期以来、現代に至るまで歌い続けている。また、マラソンランナーとしても活躍。本名は尻石友也。京都市在住。

1960年代後半、全国各地でメッセージ・フォークを歌い、「受験生ブルース」などの話題作も発表。1970年代に入り、ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡などを歌い始める。ザ・ナターシャー・セブンとして活動の他、宵々山コンサートを始める。

使用する楽器は、ギター、フィドル、バンジョー、ハーモニカ、オートハープ、ベース、ドブロ・ギター、マンドリン、トロンボーン、ボーラン(アイリッシュドラム)と多彩。

TVでは1980年代、NHK(中部地方)の番組「北陸東海」において、高石が東海・北陸7県を旅する「高石ともやの味な旅」に出演していた(なお番組出演者は後年、安田文吉(文さんの味な旅)を経て河島英五(英五のろまんちすと紀行)へと引き継がれている)。

ランナーとしても活躍し、国内外のマラソンやトライアスロンの大会にも数多く参加している。ホノルルマラソンには、第5回の1977年(36歳)の初参加以来、毎年連続出場している。

また、日本初のトライアスロン大会(第一回全日本トライアスロン皆生大会)にて優勝を飾っているほか、トランス・アメリカフットレース(アメリカ大陸横断レース)の第二回大会に参加し日本人初の完走者となっている。

1967年結婚。一女、一男あり。

琵琶湖ジョギングコンサートを27年続けている。

2012年7月、これから先20年走るために、狭窄症の手術を受ける。手術は40歳の時の胆石の手術以来で2回目。2回とも北山修の勧めで手術することになった。

活動の記録

1960年代後半 関西フォーク・アングラフォーク

1941年12月9日、北海道空知管内の雨竜郡雨竜町に生まれる。家業は鮮魚店。無類の音楽好きだった兄の影響を受け、小学生のころはジャズファンで、中学では内緒で兄のギターをいじっている内に、ギターの魅力にとりつかれた。北海道滝川高等学校に入学してからはスチール・ギターに熱中、同級生3人でハワイアン・バンドをつくった(マヒナスターズものをやっていたが、歌はダメだった)。二年生のときに吹奏楽部ができた際は真っ先に参加。高校卒業後、キリスト教に興味があったことと経済的な理由で、1960年に立教大学文学部日本文学科に入学(6年目に卒論「落語と落語家-その流れ」を、教授が毛筆で書いたら”優”をやるという理由で、全文毛筆で書き上げた)。学費を稼ぐため、新潟県赤倉スキー場や釜ヶ崎で土木作業員、エレベーターボーイ、氷の配達、屋台のラーメン屋、印刷屋、夜警、スキーのコーチ、家庭教師、清掃員などをやりつつ、ピート・シーガーやボブ・ディランらの歌を訳しフォークソングを歌い始める。1966年7月の大阪YMCAキャンプで初めて人前で歌い、1966年9月19日の大阪労音フォーク・ソング愛好会のコンサートが初ステージ。

1966年10月10日、アート・プロモーション主催のコンサート「第2回フォーク・フォーク・フォーク」に飛び入りで参加し、ここで秦政明に見出される。秦は高石を自宅に居候させ、マネジメントとプロモーションを始めた。

1966年11月頃より「高石友也」の名で活動を開始。各地の労働組合や学校のイベント、労音、反戦集会、などに出演し、社会運動の支援者やシンパを増やしていくかのように、高石とフォークソングを日本各地に広めていった。また、1966年12月20日、シングル「かごの鳥ブルース」でレコードデビュー。1967年4月28日、最初の「高石友也リサイタル」を毎日ホール(大阪)で開催する。同年7月29日、京都・高雄での第1回フォークキャンプに参加。

1967年9月、秦は『高石音楽事務所』(1970年1月に『音楽舎』に社名変更したが、これは事務所が呼び屋として海外から外タレなどの興行を打つとき、高石の名前があることで、商業ベースに走ると思われることを、高石が嫌がったためとされる)を開設。より本格的に高石のマネジメントを行う。また、イベントやコンサートの企画や開催、新たなアーティストの発掘を始めた。この高石事務所には、岡林信康、五つの赤い風船、中川五郎ら、関西フォーク陣の他、東京で活動していた高田渡、遠藤賢司、ジャックスも所属し、その中心人物であった高石は、フォークソング、関西フォーク、アングラ・フォークの元祖、旗手などとも呼ばれるようになる。

ボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」に、中川五郎が受験生を題材にした替え歌をのせて、中川自身のコンサートで歌っていた「受験生ブルース」に、高石が新たな曲を付けて、高石もコンサートで取り上げた。高石の「受験生ブルース」が1968年2月25日にレコード化されると、累計で90万枚の大ヒット。広く名が知られるようになる。

しかし、1969年12月7日 の冬眠コンサート(大阪・フェスティバルホール) を最後に、一旦、音楽活動を停止する。この背景には、過度なイベントやコンサートに追われ、また、反戦活動・学生運動と共にあったメッセージ・フォークを歌う者としての存在への疲弊感があったといわれる。

そして高石事務所も、1970年1月1日に音楽舎と社名を変更する。

1970年代以降 フォークソングの原点へ

高石は、フォークソングの原点を探し始める。1969年12月16日、福井県遠敷郡名田庄村(現在の大飯郡おおい町)に移り住み、年が明けた1月7日、一人アメリカへと渡る。アメリカを旅をする中、自然を基盤とした生活に目覚める。同年5月17日に帰国の後、音楽活動を再開。ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡、あるいは自身の生活を歌い、特に野外でのコンサート活動を中心として全国各地を廻り始める。

1971年1月30日に「バックステップ・カントリーバンド」を結成。同年2月28日に「ザ・ナターシャー・セブン」と改名する。ザ・ナターシャー・セブンとしての活動は1984年頃まで続いた。また、1973年から永六輔らと始めた「宵々山コンサート」は京都の夏の風物詩となった。1977年からはヒューマン ズーに参加。

名田庄村には1982年まで住み、その後は京都市に移る。しかしスタイルは変わらず、今もフォークソングを歌い続けている。

1982年のホテルニュージャパンの火災でザ・ナターシャー・セブンを影で支えた榊原詩朗が死去し、心痛で引退も考えたという。

ディスコグラフィ

※ 高石友也とザ・ナターシャー・セブン名義の作品は、ザ・ナターシャー・セブンを参照。

シングル

アルバム

作品

テレビドラマ主題歌

  • こんな男でよかったら(歌唱:渥美清、1973年 - よみうりテレビ、作曲)

校歌

  • 札幌市立西園小学校
  • 大阪府立八尾北高等学校
  • クラーク記念国際高等学校
  • 名古屋河合塾学園
  • トライデントコンピュータ専門学校大阪
  • 大和郡山市郡山東保育園園歌
  • 宇陀市立菟田野小学校

出演

テレビ

  • バラエティー生活笑百科(2011年8月6日・2013年6月22日、NHK総合)

ラジオ

  • おはようパーソナリティ道上洋三です(朝日放送ラジオ)常連ゲスト
  • 日本列島ズバリリクエスト(京都放送)
  • MBSチャチャヤング(MBSラジオ)
  • ハロー!ナショナルショウルーム(MBSラジオ)
  • 高石ともや 風の季節(文化放送)
  • 高石ともやのジョギング・ジョッキー(文化放送)
  • ポプソン・フリーダム・ストリート〜高石ともやグッドライフグッドフィーリング〜(文化放送)

著書

  • 気分はいつもトライアスロン : 高石ともや・running・book1』〈ランナーズ・ブックス〉、ランナーズ、1986年10月1日。
  • 『高石ともやの挑戦 気分は陽気なウルトラマン 高石ともや・running・book 2』ランナーズ(1989年)
  • 『さあ、陽気にゆこう フォーク・ソング年代記』大月書店(1993年)
  • 『Song of the runner アメリカ横断マラソン64日の物語』紫翠会出版(1994年)
  • 『さあ、陽気にゆこう 2』ナナ・コーポレート・コミュニケーション(2002年)

共著

  • 高石友也、岡林信康、中川五郎『フォークは未来をひらく : 民衆がつくる民衆のうた』〈新報新書〉、社会新報、1969年4月30日。

脚注

注釈

出典

宵々山コンサート関連人物

  • 永六輔
  • 三上寛
  • 諸口あきら 

関連項目

  • 北海道出身の人物一覧
  • ミュージシャン一覧
  • 有森裕子
  • 宵々山コンサート

外部リンク

  • 高石ともやのページ
  • 高石ともやさん応援ページ 小さな箱
  • URC History:1960年代の高石の活動記録が掲載されている
  • 【家族を語る】高石ともやさん(1)今でも、ふわっと奥さんがそばにいるよう(1-4ページ) - MSN産経west - ウェイバックマシン(2012年2月19日アーカイブ分) 

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 高石ともや by Wikipedia (Historical)