三上 寛(みかみ かん、1950年3月20日 - )は、日本のフォークシンガー、俳優、詩人。青森県北津軽郡小泊村(現・中泊町)出身。
代々漁師の家系(ただし父親は役場勤務)に生まれる。
小泊村立小泊小学校(現・中泊町立小泊小学校)時代には、後に現代詩の手解きを受けることになる(アレン・ギンズバーグなどの存在も教わる)泉谷明と出会う。
1960年代から活動した日本のフォークシンガーは、音楽を始めたきっかけとして、ボブ・ディランなどを挙げる人が多いが、三上のギターを弾き始めたきっかけは、小林旭の『渡り鳥シリーズ』だという。青森県立五所川原高等学校在学中は、生徒会長を務めたことがあり、バンドを組んでザ・タイガースやジャッキー吉川とブルーコメッツなどをカバーしていた。作詞も高校一年から始め、バンドでは自作のオリジナル曲を演奏したこともあるという。1967年にはガリ版刷り詩集『白い彫刻』を自費出版。同郷の詩人寺山修司の眼にとまり、「寛は詩がうまい」と言われたともいう。
高校卒業後、青森県警に採用され警察学校に入学したが、在学中に盗みを働いたと疑われ退学となり(ただしこれは濡れ衣を着せられた冤罪であり、後に真犯人が逮捕されている。)、1968年秋に詩人になりたい気持ちを秘めながら上京。
初めは片瀬江ノ島駅近くの割烹料亭「角若松」での板前見習いに就くも、岡林信康の「山谷ブルース」を聞いた衝動で退職を決意。1969年1月31日に東京へ出て、翌日から中野区の新聞販売店で住み込み勤務を始め、詩を書き溜めていった。配達先のスナックのマスターの紹介で、田原総一朗(当時は東京12チャンネルのディレクター)と会い、永山則夫を題材にした『ピストル魔の少年』(高卒の三上にとって当時の大学生を中心とした学生運動よりも強い重要性を感じた事象であり、永山事件の芝居化も計画していた)を歌う。1970年11月11日には、田原が制作したドキュメンタリー青春『ドギつく生きよう宣言〜もう一人の永山則夫・三上寛〜』が放送された。
1970年1月から、アナーキストの牧田吉明がオーナーを務める渋谷のライブスペース「ステーション70」に出演するようになり、フォークシンガーの道を歩む。同店の客だった楯の会第一期メンバー阿部勉の紹介で、田中清玄が運営する千葉のコンビナートでの下請けを始める。
1971年3月、ばばこういち(前述の田原総一朗の上司でもあった)のプロデュースによって、シングル「馬鹿ぶし」でデビュー。バーテンダーのアルバイトをしていた新宿ゴールデン街のスナック「唯尼庵」に来店したプロデューサーの誘いがきっかけで、同年8月7日・8日の「第3回全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)」に急遽出演を果たす。自作歌詞による「夢は夜ひらく」のカバーや、よど号ハイジャック事件を題材にした「飛行機ぶんどって」などを歌唱して、男性観衆を中心に大歓声を浴び、知名度も向上した。
一方で、その風貌から1970年代のジョイントコンサートでは、三上がステージに出てくるとガロや吉田拓郎めあてに来ていた女性ファンは、一斉にトイレに逃げ込んでいたといわれる。
1973年の東映映画『ネオンくらげ』は、監督の内藤誠が三上の楽曲の世界観を映画化したもの。
本格的な俳優業は、1975年11月公開の深作欣二監督『新仁義なき戦い 組長の首』からだが、これは1974年に新宿コマ劇場で、田中真理や中山千夏らとオールナイトイベントに出演した際、同じく出演していた深作と倉本聰と知り合ってからで、『新仁義なき戦い 組長の首』の撮影が東映京都撮影所であり、まだピラニア軍団と名乗る前の東映京都の大部屋俳優に親切にしてもらった。三上が渡瀬恒彦と飲んだ時、渡瀬からピラニア軍団のレコード制作のアイデアが出て、三上がベルウッド・レコードの北村孝志に話を持ち掛け、プロデュースをピラニア軍団の面倒を見ていた中島貞夫に頼み、1977年4月にピラニア軍団のアルバム『ピラニア軍団』がリリースされた。ピラニア軍団はレコーディング中ずっと酒を飲み続け、夜中に酒屋をたたき起こして酒を追加したという。途中から『北陸代理戦争』を撮影中の深作欣二と松方弘樹が参加。また当時東映がビデオ撮影を研究中で、スタッフがVTRを回してレコーディングの模様を撮影し、東映太秦映画村で繰り返し上映された。
音楽活動の一方、俳優業でも数多くの作品で活躍しており、1970年代の映画や刑事ドラマでは、個性派の怪優を演じた。
※ すべてEPにて発売。
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