二代目 中村吉右衛門(なかむら きちえもん、1944年〈昭和19年〉5月22日 - 2021年〈令和3年〉11月28日)は、歌舞伎役者。屋号は播磨屋、定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。位階は正四位。旭日重光章受章(没後追贈)。公称身長178 → 176cm・体重79kg・血液型B型。ふたご座。俳名:秀山。ペンネーム:松貫四。
東京都千代田区出身。暁星小学校、暁星中学校・高等学校卒業。早稲田大学第一文学部仏文学科中退。
3歳から松本流松本幸子、六代目藤間勘十郎に日舞、 小学4年より和田喜太郎に和泉流狂言、杵屋栄二に長唄、藤舎呂船に鳴物、 中学からは竹本小仙に義太夫、大学時には作曲家の半間厳一に声楽を習う。
堂々たる体躯、陰影に富む演技をもって歌舞伎立役の第一人者として活躍。 義太夫狂言、時代物、世話物から新歌舞伎、喜劇にいたるまで全てのジャンルで高い評価を得ている。
「吉右衛門のあとを継ぐ人に、この人が生れて来たのは、まことに天の配剤の妙だ」(浜村米蔵)と評され、「芝居のうまさは現代の歌舞伎役者中では一、二を争う実力」(渡辺保)と買われ、「押しも押されもせぬ見事な座頭役者」(福田恒存)と激賞された。
当たり役も数多く、なかでも、『勧進帳』や『義経千本桜』などでの武蔵坊弁慶役が十八番で、1986年のNHK新大型時代劇『武蔵坊弁慶』でも、主人公・弁慶役を演じた。
また、テレビドラマ『鬼平犯科帳』で演じた主役・鬼平こと長谷川平蔵役の成功によって、お茶の間でもお馴染みの顔となった。
子供の頃から絵画やスケッチを描くのが好きで、高校生の時に文人画をやろうと画家に弟子入りしたこともあった。 後年画集を出版したほか、画廊で個展も開き、美術館では展覧会のイヤホンガイドや講演なども行った。好きな画家はモネやセザンヌ。 彼らの絵を見る際には予備知識が必要ないから好きだと話している。ルオーも好きで、NHKの旅番組で本人のアトリエを訪問した。
歌舞伎作者・画家としての筆名は、松 貫四(まつ かんし)。これは祖先にあたる人形浄瑠璃作者・松 貫四(初代)の名跡を踏襲したものである。 2003年頃には、「これからは松貫四としての活動にも力を入れたい」と話し、絵や芝居の制作をそれまで以上に行うようになった。
歌舞伎界では珍しく、クイズが得意であり、クイズ番組(世界ふしぎ発見、わくわく動物ランド、迷宮美術館ほか)に出演する事もあり、しばしばトップ賞を取って博学ぶりを披露した。
初代吉右衛門や実の両親は俳句に凝っており、俳句の稽古も母の勧めでやったが全く駄目だったという。 「欲張りですから、これも詠みたい、あれも詠みたい、いろいろなものを詠みたくなっちゃったからダメなんです。」 「落としたり削ったりする作業はどうやら私には向かないと、早々に俳句は諦めた」
小学二年に詠んでまあまあ実母に認められた句は 「桜散る学校へ行く子ら楽し」。 芭蕉や一茶を読むように言われたが、蕪村の方が好きだった。芭蕉、一茶は作品よりも、彼らの生涯が芝居になりそうで興味があった。
自動車好き。16歳の誕生日に鮫洲で運転免許を取った。レーサーに憧れてサーキットライセンスを取ろうとしたこともある。 最初の愛車は中古のダットサン。トヨペット、コロナ、パブリカ、コンセルと乗り換え、大学入学の年にはMGB。 96年頃はダイムラーのダブルシックス、99年頃はメルセデス・ベンツに乗っていた。ジェームス・ディーンに憧れて、いつかはポルシェと思っていたが果たせず。マニュアル車が好み。
色はブルーが大好きで、少年時代の思い出の色について、ばあやの故郷、千葉県の千倉の海のイメージがあるのか、夏の強い日差しのようなブルーが大変印象に残っていると語った。青年期はブルーの椅子を買ったり、ミッドナイトブルーの服ばかり着ていた。いまは頭が白くなってきたので(※1994年2月の対談)ブルー系は難しくなってきたと話した。
結婚前は出不精だったが、知佐夫人の影響でオペラ鑑賞もはじめ、95年頃は休みが取れるとイタリアへ行ってオペラを観ていた。「オペラを観るとほっとするんです」。
読書は「積ん読派」だが、乱読で何でも読み、岩波文庫はほとんど揃えている。買うときはバサッと全集を買ったりする。小学校は「吾輩は猫である」中学ではスタンダール「赤と黒」「星の王子さま」、20代ではイアン・フレミング「007シリーズ」、カミュ「異邦人」など。70代では「紫陽花舎随筆」(鏑木清方)。
好きな洋画は「エデンの東」で観ると泣いていたという。「アポロ13」も観ながら号泣し妻に「マジ?」と呆れられた。「お熱いのはお好き」も忘れ難いとのこと。 好きな女優はマリリン・モンロー。高校生の頃、モダンジャズに傾倒した時期がある。映画「死刑台のエレベーター」を母と観てマイルス・デイビスの音楽が好きになった。
漫画が大好きで、21歳頃はガロの作品にハマっており、楽屋の鏡台前に白土三平の「カムイ伝」が山積みになっていた。綺麗でかっきりしている絵柄が好き。小さい頃は馬場のぼる、手塚治虫、山根一二三、小島功の画く女の人も好き。面白いのは加藤芳郎と語った。毎月買っていたのは少年サンデー。
好きなアニメは『昆虫物語みなしごハッチ』『トム&ジェリー』。「みなしごハッチとかトムとジェリーとか見てる時は、何も考えずにいられる。ハッチを観ながら、”ああ今日も(母に)会えなかった”とボロボロ泣いたり」とリラックス法を問われ語った(人生レシピより)。
駄じゃれ好きだが家族からの評判は悪く、家では娘たちの攻撃の的だったという。「B'zにWANDSにトリオ・こいさんず、エッヘッヘ」などと言おうものなら食卓は真っ白になり、親類の中村勘九郎(18代中村勘三郎)にも「お願いだから駄じゃれだけはやめてもらいたい」と言われる始末であった。自作の駄じゃれでよく挙げるのは小学生の頃に思いついた「お兄ちゃまはダブルで僕はおフル」。
東京ディズニーランドには開園当初より通っており、クマのプーさんが一押し。 「ほのぼのしていて好き」と、孫と一緒に「プーさんのハニーハント」に並んだ。 またクマのプーさんが好きな理由を聞かれ「見ただけてホッとする。ほんわかする。安らぎを感じますね」とコメントした。 また、孫の丑之助を日清食品のチキンラーメンのシンボルキャラクター「ひよこちゃん」の巨大ぬいぐるみを抱いて迎えたこともある。
好きな食べ物を聞かれると50代くらいまでは「特にない。なんでも食べます」としばしば答えていたが、2001年11月、旅行先の由布院で「フグ刺し」をお腹いっぱい食べる、という30年来の夢がかなったと喜ぶコラムを書いている。
70代ではプーさん好きの理由で「自分と同じように蜂蜜が好きだから」と応えたことがある。ホイップクリームの乗ったハワイアンパンケーキを美味しそうに食べるシーンも残っている(にじいろジーンにて)。 また、味覚障害を患った際に「うなぎ、蕎麦、てんぷらがいつ食べられるか。好物のうなぎを食べてまずかったら生きる希望がなくなっちゃう」というコメントもしている。
2022年(令和4年)9月に開催された秀山祭にて、歌舞伎座の1階お土産処「木挽町」では”中村吉右衛門丈のお好み品”として、守半海苔店の「佐賀有明やきのり缶」、銀座やまうの「江戸名産 本べったら漬」と「鳥取砂丘 らっきょう 甘酢」が販売された。
今日では春の恒例行事となっている、四国こんぴら大歌舞伎復活に深い関わりをもつ。 ( 旧金比羅大芝居 公演 の項目を参照)
第一回公演に際して、 「国の重要文化財で上演するのだから、既成の演目ではいけない。金丸座のために作った作品を上演するべきだ」という金丸座側の要望に応え、吉右衛門は初めて松貫四のペンネームを名乗り、劇作に挑んだ。 以前、古書店で買ってあった本で見つけた『遇曽我中村』を脚色し、「空井戸」など、金丸座ならではの機構を活かしつつ、初めての作品「再桜遇清水」を書きあげ、演出も担当した。 (1985年6月に大阪中座の本興行で初演、千秋楽の翌々日には金丸座乗り込むという、過密スケジュールであった)
またスポンサーを募り、劇場のある琴平町に、役者名・劇場名の入った幟を立てるよう要請。500本を目標としたが、結果的に、1,000本もの幟が立った) 成功祈願のお練りや船乗り込みなどのイベントにも参加し、町そのものにも江戸の雰囲気を演出した。
大道具に金井大道具三代目社長で、「再桜遇清水」の他、のちに「日向嶋景清」の美術も担当する金井俊一郎、 照明に日本照明家協会会長の相馬清恒と、スタッフ陣にも大ベテランの重鎮を揃え、吉右衛門の「当時に近い自然光での公演実現」という要求に応えた。 一方で、琴平町の商工会青年部の男性メンバーが急遽セリや回り盆の操作、高窓の窓閉めなど、普通であれば危険なため素人が触れないような舞台機構部分を担当することとなる一幕もあった。(当人たちはもともと、駐車場誘導を担当する予定であった)
青年部メンバーは、深夜に及ぶ必死の稽古などで当日に備えたが、素人仕事で、どうしても段取りは悪くなる。 演者側には、彼ら素人が機構の操作をしていることが知らされておらず、舞台進行の失敗を案じるプロたちから大声で叱責が飛び、後に、担当していたのが青年部のボランティアと知った吉右衛門は青年部へ謝りに行った。
これらの様子はNHK特集『再現!こんぴら大芝居』として1985年7月19日に放送された(2006年2月4日及び2021年8月24日にNHKアーカイブスとして再放送)。
関西学院大学客員教授を務め、日本芸術院会員にも推薦され、就任した。
2011年(平成23年)、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。(認定の官報告示は同年9月5日付け) 2017年(平成29年)文化功労者となり、 没後の2021年(令和3年)12月24日付けで旭日重光章を授与され、正四位に叙された。
1944年(昭和19年)5月22日(月曜日)、五代目市川染五郎(後の初代松本白鸚)の次男に生まれる。出生名は「藤間久信」。
1945年(昭和20年)3月、初代夫婦と母・兄、乳母の村杉たけらと共に空襲を避け、日光へ疎開。市電の事故に遭うも、乳母のおかげで無事であった。 牛込区(現在の新宿区)若宮町にあった生家は空襲で焼けてしまい、終戦後の10月、東京の久我山に転居。 5歳の兄が近所の子供にいじめられて帰ってくると、庭ぼうきをひきずり、仇を討ちに殴り込みをかけに行くようなやんちゃな子供であった。
1946年(昭和21年)、渋谷区渋谷に転居。
1948年(昭和23年)、中村萬之助を名乗って4歳で初舞台。吉右衛門の祖先・萬屋(よろずや)吉右衛門の「萬」にちなんでつけられた。 翌年、『山姥』の怪童丸の演技で毎日演劇賞演技特別賞を受賞。天才俳優として注目された。
この頃より、市川團子(のちの市川猿翁 (2代目))、兄の市川染五郎と並んで、「十代歌舞伎」として人気を博する。
1949年(昭和24年)、実父八世松本幸四郎の襲名披露公演に出演。
1951年(昭和26年)、渋谷区立常盤松小学校入学。その後千代田区麹町へ転居。1952年(昭和27年)、暁星小学校第2学年へ編入。
1954年(昭和29年)、初代吉右衛門が死去。播磨屋後継としての思いを強くし、人生の転機となる。
1961年(昭和36年)、実父(八代目松本幸四郎)と兄(六代目市川染五郎)と共に、松竹から東宝に移籍。
1966年(昭和41年)5月、東宝は芸術座で萬之助主演の「赤と黒」を上演。 同年10月、新装なった帝国劇場のこけら落とし公演で、二代目中村吉右衛門を22歳で襲名。 その際、本名も祖父と同じ「波野辰次郎」に改名した。
1970年(昭和45年)、兄染五郎の舞台「ラ・マンチャの男」を、ブロードウェイにて観劇。
幼い頃から胃腸が弱く、長じてからもしばしば胃けいれんに悩まされていたが、69年初頭から2年半、休みが1日もないスケジュールをこなしており、疲労が蓄積していく。 さらに71年4月30日には、市川寿海の葬儀参列のために両親と名神高速を走っていたところ、追突事故に遭う。翌日の歌舞伎座で松王丸を熱演したが、むち打ち症に怯えつつの舞台であったため、精神的に参ってしまったという。
帝劇公演「風林火山」は、帝劇初の"マイクを使わない芝居"として開催されたが、16回も着物を着替える芝居を昼夜2回、しかも40日間ぶっとおしで公演したため、興行の後半ではおにぎり1個を食べるのが精一杯で、肉体的・精神的疲労は限界に達し、公演中にも2回倒れていた。
1971年(昭和46年)7月、過労による慢性気管支炎、小気管支肺炎、遊走腎でついにドクターストップがかかり、絶対安静を命じられ舞台「ボーイング・ボーイング」(日生劇場)を降板。 安静は2ヶ月と報じられたが、結局半年間の療養を余儀なくされた。
1974年(昭和49年)、「吉右衛門を継いだ者として、もっと古典を勉強したい」という思いから父 白鸚と兄 幸四郎を残して、松竹に復帰する。
1975年(昭和50年)東京のホテルオークラにて、幼馴染である知佐と結婚。 プロポーズは軽井沢で、当時吸っていたケントの銀紙で、即席の婚約指輪を作って贈ったという。
1976年(昭和51年)7月ごろ、福岡県飯塚市ての巡業の際、嘉穂劇場の思い出を実父から聞いて、見学に行く。(当日、嘉穂劇場は経営難で、取り壊して駐車場にすることが決まっていた。) 花道を歩き、実際に発声して、芝居小屋としての完成度に感激する。
1982年(昭和57年)1月、実父初代松本白鸚が死去。 この頃から3年ほど、「歌舞伎役者を辞めたい」とまで苦悩し、「ガス管をくわえ」るほどに思い詰める。
同年10月30日、早稲田大学創立百年記念行事として兄の弁慶と富樫役で『勧進帳』を上演。 大隈講堂で、初の歌舞伎公演となる。。
1984年(昭和59年)7月、TBSのトーク番組「すばらしき仲間」に、澤村藤十郎、中村勘九郎と共に出演。 撮影は、金丸座」にて行われ、3人はこの芝居小屋に惚れ込み、のちのこんぴら歌舞伎」復活のきっかけとなる。
1993年(平成5年)、演劇鑑賞団体、都民劇場発表の93年度演劇・歌舞伎ベスト3の内「ごひいき役者ベスト10」で2年連続の1位を獲得。
1994年(平成6年)11月、国立劇場にて「博多小女郎浪枕」の通し狂言を24年ぶりに上演。
2011年(平成23年)、胆管結石手術のための入院中に、人間国宝認定の報を聞く。
2013年(平成25年)7月、巡業中に内臓の異変を感じ、8月には喉のヘルペスを発症。どちらも完治したものの、後遺症で味覚障害になった。 食事が摂れなくなり、点滴や冷やししるこ、蜂蜜と牛乳をかけたオートミールなどで栄養補給をするうち、体重が10キロ減。
一時期は自分の唾が苦くて呑み込めず、 「こんな苦しい思いをするならこのまま逝かせてくれと思った」とまで苦しむが、その後回復し、好物のうなぎも食べられるようになったという。
2013年(平成25年)2月、末の娘(四女)が五代目尾上菊之助の妻となって、同年11月に第1子となる男児を出産。 2019年(令和元年)5月、七代目尾上丑之助として初舞台を踏み、孫との共演を果たす。
2016年(平成28年)正月、銀座百点の対談にて、山川静夫から、 「最近はときどき大向こうから『大播磨!』という声がかかるようになりました。」と振られ、 「なんとも、うれしい気持ちがいたしますね。」と答えた。
2020年(令和2年)3月、新型コロナウイルスの影響により、歌舞伎座三月公演は初日延期を重ねた上に公演中止が決定。無観客配信として「新薄雪物語」に出演。 4月、コロナ対策のため自宅に籠もり、絵を描く一方、孫のために書き抜きの整理や清書を始める。 9月の盛綱陣屋の小四郎の書き抜きは、菊之助によると途中で止まっていたという。
7月、「温泉に行って英気を養いたい。体力は無理でもせめて気力だけでも、後十年は生きたい。生きたいと思ったのは初めての事」と自宅のカレンダーに書く。 8月、観世能楽堂にて自作脚本、自演による「須磨浦」を無観客で撮影、8月29日に配信開始。この月から歌舞伎座公演が復活し、吉右衛門自身も、9月の秀山祭に出演。 「秀山祭頑張れ。人々の心を揺さぶる事に専念せよ。後は何も考えるな、まわりがやってくれると思え」とカレンダーの余白に書いた。
10月、前立腺がん手術を受け、放射線治療が体に合わず、体力を失った。「影響が思ったより体に響いてしまい、大声を出すと息が上がり、立ち上がるのに苦労している」と小学館のWEBマガジンのコラム「吉右衛門四方山日記」で明かした。
2020年12月、NHKのラジオ深夜便にて「来年の秀山祭では孫と盛綱陣屋がやりたい」と語り、意欲を見せた。
2021年(令和3年)1月17日より、『壽(ことぶき)初春大歌舞伎』を体調不良で1週間休演し、楽日前の3日間のみ復帰。
同年3月4日より、『三月大歌舞伎』第三部「楼門五三桐」に出演。千穐楽の前日まで勤め上げたが、体調不良により千穐楽を休演した。
2021年3月28日、体調不良を訴え、病院に救急搬送され、当面の間、療養に専念することが発表された。
5月6日、「七月大歌舞伎」(7月4日 - 29日)に出演することが発表されたが、6月1日、再び休演が発表され、復帰はならず、以降、最期まで舞台に上がることは叶わなかった。。
同年11月28日18時43分、心不全のため東京都内の病院で死去した。77歳没。
訃報は12月1日夕刻に各メディアで伝えられ、法名は「秀藝院釋貫四大居士(しゅうげいいんしゃくかんしだいこじ)」。
義理の息子にあたる五代目尾上菊之助は同月2日に歌舞伎座で報道陣の取材に応じ、涙で岳父を偲んだ。。
2日午後、松野博一内閣官房長官は記者会見で「ご冥福を心からお祈りする。現代を代表する歌舞伎役者として数多くの作品、さまざまな役柄で舞台に立たれテレビドラマでも『武蔵坊弁慶』を演じられるなど幅広い分野で活躍された。わが国の文化芸術の発展に多大な貢献をされてきた中村吉右衛門さんのご逝去に際し、心から哀悼の意を表したい」と述べ、日本国政府は吉右衛門を、死没日をもって正四位に叙し、旭日重光章を追贈した。
親族のみの葬儀では「自分の葬式ではこの曲を流して欲しいと思っている」(夢見鳥124p)と話していた、マーラーの交響曲第5番第4楽章(アダージェット)がBGMとして流された。 また、吉右衛門の衣装製作を請け負っていた、ぎをん齋藤の女将のブログによると、棺には 「7年前に俊寛用にオーダーされ、ぎをん主人の死去で完成を見なかった、衣装にする予定だった布」が掛けられ、また、竹本葵太夫は、通夜の胸元には『須磨浦』の台本が添えられていたと演劇界2022年3月号に寄稿した。
2021年12月18日、兄松本白鸚が、翌年2月の主演ミュージカル「ラ・マンチャの男」製作発表に出席。 「『見果てぬ夢』は今まで、菊田一夫と父初代松本白鸚へのレクイエムとして歌ってきたが、レクイエムを歌う者が1人増えてしまった」と語り、 「別れはいつでも悲しいものです。たったひとりの弟でしたから。でも、いつまでも悲しみに浸ってはいけないと思います。それを乗り越えて。『見果てぬ夢』を歌いたいと思います」と話した。
2022年6月10日、日枝神社(東京都千代田区永田町)の「山王祭」で、同区六番町町会は自治労会館前に設けたお神酒所に、吉右衛門から寄贈された新しい奉納幕を掲げた。 同町会はこれまで、1950年代に贈られた初代吉右衛門の奉納幕を掲げてきたが、二代目が生前に「新調したい」と申し出、新たに奉納されたという。吉右衛門は披露目を楽しみにしていたが、それを目にすることはできなかった。
2022年8月5日、「お別れの会」を一周忌に合わせ11月に開催予定であること、すでに歌舞伎関係者には予定が伝えられていることが報じられた。
8月31日、小学館より『中村吉右衛門 舞台に生きる 芸に命を懸けた名優』が発売され、また二世中村吉右衛門一周忌追善「映像で偲ぶ、中村吉右衛門(はりまや)至高の芸」特集の実施が報じられた。 9月1日から行われる、松竹公式動画配信サービス「歌舞伎オンデマンド」の配信を皮切りに、10月には、CS「衛星劇場」および「BS松竹東急」でのテレビ放送、TBSチャンネル2は日曜劇場「すぎし去年」、そして、東銀座・東劇でのシネマ歌舞伎『熊谷陣屋(くまがいじんや)』の上映、NHKEテレでは古典芸能への招待にて9月の一周忌の秀山祭と思い出の当たり役集の放映が行われた。
2022年11月3日、兄白鸚の文化勲章親授式において、天皇は二代白鸚に、出演した舞台や、昨年亡くなった弟の中村吉右衛門について言葉を交わされたという。
父・兄らとともに東宝劇団に約10年間移籍しており、東宝劇団は歌舞伎をメインにしていたが、当然ながらそれ以外の舞台(ストレートプレイ、ミュージカルなど)の出演機会もあった。当時毎日新聞の演劇記者であった演劇評論家の水落潔は「まだ二十歳代だが実に上手かった。『雪国』の島村はこの時の吉右衛門さんを超えた俳優を見たことがない。」と書いている(演劇界2022年2月号)。萬之助時代の1964年『さぶ』(原作:山本周五郎)では、兄演じる二枚目の主役・栄二に対し、朴訥なさぶを演じ好評を博した(同じく兄弟共演で1968年・1975年にも再演)が、当時水落が当人に『さぶ』の話をしたところ「あれは栄二の芝居です。吉右衛門がさぶで褒められても名誉にはなりません」と途端に不機嫌になったという。一方で、1970年創刊の「季刊同時代演劇」のインタビューで好きな役を聞かれ「さぶ」とも答えている。
二代目吉右衛門となる萬之助の襲名披露は帝国劇場の杮落とし公演でもあり、東宝劇団の最初で最後の豪華な襲名披露公演となった。襲名を控えた若きスターの売り出しに、東宝側も力が入った。現代劇での主演は1966年『赤と黒』(原作:スタンダール)、萬之助の初の「赤毛物」への出演。作家大岡昇平が初めての劇作の筆を執り、菊田一夫演出の話題作であった。萬之助はソレル役に備えて髪を赤く染め、パーマをかけて臨んだ。萬之助らは公演前にスタンダールの生家などを巡る一週間のフランス旅行へ行き、現地の下見も行ったという。「(パリで)靴を買いたいので靴屋に行くと、通訳もしてくれる。ところが、靴を試そうと、右足を脱いだら靴下に穴が開いていて、いけねえと思って左を脱いだら左も開いていた。日本ではあまり歩き回らないのに歩いたせいかも知れません。恥ずかしい思いをしました。」また、公演中におたふくかぜに罹患。「それが皆にうつって。私は39度の熱を出して、本当に雲の上を歩くというのはこういうことかと思いましたね。」
当時の毎日新聞には、劇場の客席のほとんどは若い女性で「萬之助が登場しただけで騒ぎ、芝居などそっちのけ。恋がたきのクロアズノア伯(二代目白鸚)とフェンシングのけいこをする場面で、萬之助と染五郎が互いに入れかわり、それぞれの顔がよくわかるようになると、とたんにキャーッ」と、女性ファンの熱狂ぶりに辟易気味な劇評が掲載されるなど、襲名前から人気が高まっていた。この時期はまた、テレビドラマ、映画にも進出。山田五十鈴、司葉子、岡田茉莉子、若尾文子、岩下志麻、太地喜和子、乙羽信子、杉村春子らとの共演や、新派公演へも度々客演し、初代水谷八重子の相手役(婦系図、金色夜叉ほか)を多く勤めた。吉右衛門襲名後の歌舞伎以外の舞台公演は『太宰治の生涯』、『風林火山』、『蜘蛛巣城』など。『巨人の星』が舞台化された際には星一徹を演じている。
演劇評論家の戸板康二は、吉右衛門の現代劇の演技について、以下のように評している。
「現代劇というのは、どう扮装しても、俳優の生地が露骨に出る。隠しようがない。つまり、照れくさいものである。吉右衛門は、照れくさそうな表情を、無理に遮蔽しようとせず、ごく自然に、働いたり喋ったりした。」「歌舞伎は顔に濃く粉飾して登場する。一種のマスク(面)を冠っているようなものだ。ずっと歌舞伎を演じてきた俳優が、現代劇を演じると、それは急に裸で人中に飛び出したようなとまどいになるはずで、(略)戦後占領軍の命令で、現代劇を強制されたベテランのいく人かが、ひたすら当惑していたのを、ぼくはおぼえている」
「吉右衛門も(略)きまりわるさを痛感したのではないかと思うが、二つの理由で、それをうまく切り抜けた。ひとつは、もってうまれた自分を、飾らずに示そうとしたことであり、もうひとつは、彼の世代の若者の持つ大胆さが役に立ったといえよう。」
「現代劇を演じる技術は、むろん、試行錯誤しながら、その都度に厚くなってゆく。「雪国」では、駒子との愛情が、何回も反復した形で描かれていた。ほかの脚本にくらべて、ソナタのような形式だったが、その中で、主人公の心理が、くどくもならず、なだらかに観客に理解できたのは、吉右衛門があえて構えようとしなかったからである。「可愛い女」の仁科という青年が子供を可愛がるところを見ていると、吉右衛門の善良な感じが、よく出ていた。俳優自身の人のよさという意味でなく、うまく見せようという意識がないのがいいということである。」「このような現代劇で吉右衛門の役づくりの基本になっているのは、歌舞伎の世話物の味なのだと思う。映画俳優やテレビ・タレントには示せない、性格描写が、底にあるのだ。吉右衛門は、結局、終始、歌舞伎俳優として、現代劇を演じてきたのである。」
テレビドラマでは『有間皇子』(1966)、『ながい坂』(1969、山本周五郎作品)、『右門捕物帖』(1969、全26回)などにそれぞれ主演。
佐高信との対談で再放送中の『右門捕物帖』と『鬼平犯科帳』の演技の違いについて問われた際、右門の時代は無我夢中に演じており、「もう一人冷静な自分を客席に置け」と言われたことが、まだ身についていなかったと話した。「本当に、嘘偽りなく申せば、できるようになったのは最近です。」(対談日:2006年11月18日)
1970年代以降も歌舞伎および、テレビなどで活躍。1980年からはテレビで、時代劇『斬り捨て御免!』に主演(1982年まで3シリーズ製作)。単に出演するのみならず、毎回印刷前の台本に目を通してプロデューサーの佐々木氏や監督の皆元氏らに意見を述べていたという。
共演していた実父が死去した後に制作された第3シリーズでは「007みたいなテイストでやれないか?」と自ら提案し、「少し色っぽくしよう」とオープニングに裸体の女性のシルエットの演出や、最終話では「役のイメージとして、どうしてもやりたい」と主人公をハンググライダーで大阪城に乗り込ませるアイディアなどを出した。
1986年にはNHK新大型時代劇『武蔵坊弁慶』(全32回)で主役・弁慶を演じ、前年末の第36回NHK紅白歌合戦に審査員として出演した。
1989年、『鬼平犯科帳』の4度目のテレビドラマ化にあたっては、以前から原作者から直々に長谷川平蔵役の依頼があったものの、長い間固辞し続けていたが、実年齢が平蔵と同じになったこともあり満を持しての出演となった。「人気シリーズにけちをつけてしまうのではと迷いに迷って私が(池波)先生に電話すると、「大丈夫。君の思うとおりにやりなさい」という励ましのお言葉をくださいました。ここまでして頂いてお受けしなかったらそんな奴は豆腐に頭をぶっつけて死んだほうがましと思い、決心したのです」同年から2001年まで毎年、9シリーズと数本のスペシャル版を製作、その後2016年12月の最終版放映まで、全150本の長期人気シリーズとなり、吉右衛門にとって鬼平役が文句なしの当たり役となった(実父である初代白鸚も、初代版鬼平犯科帳で長谷川平蔵を演じた。『鬼平』は若い女性をも取り込む一大ブームとなり、吉右衛門は『物語り』で「「吉右衛門といえば鬼平」とお考えの方も多いようです。(略)こういうチャンスを与えて頂いた僕は、ありがたいと思っています」と話した。その後、人気はさらに過熱。「勧進帳」の弁慶役で幕外で最後の引っ込みを始める瞬間に「オニヘーイ」と声がかかったと吉右衛門は語っている(吉右衛門のパレット)。また、『聞き書き 二代目』の著者である小玉には「亡くなった時、代表作として鬼平が真っ先に上がるのはちょっと・・・・・・」と話したこともあったという。
池波は長谷川平蔵を描くにあたり実父の初代白鸚の風貌をイメージとしたという逸話がある。また、吉右衛門も初代版(第2シリーズ10話「隠居金七百両」、15話「下段の剣」)では平蔵の息子、辰蔵を演じている)。
2003年にはテレビ『忠臣蔵〜決断の時』で、テレビで初めて大石内蔵助を演じ、重厚な演技を見せた。なお、テレビ時代劇の『忠臣蔵』物では、1989年のテレビ東京の12時間超ワイドドラマ『大忠臣蔵』(原作:森村誠一「忠臣蔵」)で徳川綱豊を演じている(大石内蔵助役は実兄の現・二代目白鸚)。
「弁慶」、「鬼平」などのテレビ時代劇での活躍や、歌舞伎での充実した仕事ぶりにより、幅広い分野で活躍する兄・白鸚に劣らぬ存在感を発揮しているが、兄と甥の幸四郎とは違い、襲名後はテレビ時代劇以外の現代劇に出演した事はほとんどなく、父母、兄妹と一家5人で主演した「おーい!わが家」と、背広姿で気鋭の科学評論家・藤瀬史郎役で主演、公害をテーマにした「いま炎のとき」の2本のみと思われる。なお、中村萬之助時代の現代劇として「NHK劇場 約束」のフィルムがNHKアーカイブスに残っており、一部ではあるが、ネットでも演技の視聴が可能。
二代目吉右衛門の当たり役として知られるものは以下のとおり。
松貫四という筆名で各作品の監修、構成、脚本、補綴を担当している。
「翼をください」「虹と雪のバラード」を作曲し、荒井由実(現・松任谷由実)や、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)などをプロデュースした作曲家・村井邦彦は暁星学園の同級生で、中学時代にできた初めての親友。放課後に萬之助(吉右衛門)宅に集まり、村井がピアノ、萬之助がベース、染五郎がドラムで、よくジャズセッションをしており、文化放送でオンエアされたこともある。また、村井は荒井由実をプロデュースする際にデモテープをもう一人の女性歌手と比較して吉右衛門に聴かせ、吉右衛門は荒井の方が良いと思うと言い、村井は「君もそう思うか」と言ったという。ランブリン・マン(ザ・マイクスのデビューシングル、1967年10月発売)の作詞の経緯を吉右衛門は「京都で撮影中の僕に村井から電話が入り、「B面なんだが急がなければならない。何か詞ができないか」。即座に作って電話で伝え、スタジオで録音に立ち会いました」と語っている。
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