一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川将軍家の一門である御三卿の一つ。単に一橋家とも言う。
江戸幕府8代将軍吉宗の四男宗尹を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷、一橋邸は江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にあった。なお、御三卿はいずれも独立した別個の「家」ではなく、「将軍家(徳川宗家)の家族」、いわば「部屋住み」として認識されていた。したがって、領地は幕府領から名目的に割かれているのみで支配のための藩は持たず、家臣団も少人数の出向者(主に旗本、他に当主生家の家中など)で構成されていた。ただし、幕末の当主である徳川慶喜は、渋沢栄一や渋沢成一郎など他家支配地の豪農出身者を家臣へ新規に取り立てたり、彼らを用いて領地から農兵の徴募を行い直属の兵力を増強するなどしている。
宗尹は、元文2年(1737年)に賄料を現米2万俵に改められ、同5年(1740年)に一橋門内に宅地および賄料1万俵を加増され、一橋家を興した。延享3年(1746年)、新規に賄料領知10万石を武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨・備中7か国のうちに与えられ、高10万石となる。ただし、領分は時期によって異動があり、幕末期には、武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中の8か国22郡に散在していた。
一橋家は御三卿の中で唯一将軍を出しており、第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜が一橋家の出身である。さらに、治済と家斉が数多くの子をなす一方、田安徳川家第2代の治察が早世し、清水徳川家初代の重好が実子を残さなかった結果、18世紀末以降のほとんどの将軍と、御三家の尾張と紀伊家当主、御三卿のすべての当主が一橋家の宗尹の子孫で占められ、外様の大藩、福岡藩黒田家などにも一橋徳川家の血が入ることとなる。
しかし、一橋家当主自身は短命で子を残せない者が多かった。結果、幕末期には数多くの親藩が一橋家の血筋で占められる一方、御三卿で宗尹の子孫は田安家のみとなった。第8代当主の昌丸は尾張徳川家からの養子とはいえ、父は将軍家斉の子であったが、昌丸の夭逝後には一橋家の血筋ではない水戸徳川家から慶喜が養子に入った。上述の通り慶喜が将軍になると、尾張藩の元藩主である茂栄(血筋では水戸家に連なる)が代わって当主に就くという変則的なことが行われた。他方、大政奉還後に徳川宗家を相続した家達は宗尹の男系子孫でありながら田安家出身であり、当の一橋家の当主が他家の血筋で、一橋家の血筋の田安家当主が徳川宗家を継ぐということになった。
明治元年(1868年)、徳川宗家から独立して維新立藩した(一橋藩)。しかし明治2年(1869年)に版籍奉還するも知藩事に任命されずに、廃藩となる。同3年(1870年)閏10月に家禄3805石を支給され、同17年(1884年)7月には華族令により華族に列して伯爵を授けられた。昭和前期に一橋徳川伯爵家の邸宅は東京市小石川区林町にあった。12代当主宗敬は大学卒業後に貴族院の伯爵議員に当選し、戦後最後の貴族院副議長を務め、参議院議員在職時にはサンフランシスコ講和条約調印の際、日本側全権委員に加わった。また、宗敬が後年に茨城県へ寄贈した家伝の資料や文化財など約6,000件は、茨城県立歴史館内の一橋徳川家記念室(1987年(昭和62年)10月開館)にて展示公開されている。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。
凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
上記のほか、明治維新後に鹿児島藩から十勝国河西郡を移管された。
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