文帝(ぶんてい)は、南朝宋の第3代皇帝。皇帝を廃されて殺された少帝(劉義符)の弟にあたる。
即位以前は宜都王の地位にあった。元嘉元年(424年)、兄の劉義符が不行跡を理由に廃されて殺されると、代わって即位することとなった。
即位後は、兄を廃して殺した罪で徐羨之らの重臣を次々と粛清した。その一方で貴族を重用し、学問を奨励して国子学を復興する。このような経緯から、文帝の治世において学問・仏教などの文化が盛んになり、范曄が『後漢書』を完成させたりと、南朝宋は全盛期を迎えることになった。このため、文帝の治世は「元嘉の治」と呼ばれている。
対外政策においては、名将の檀道済を用いて北魏としばしば争ったが、元嘉8年(431年)に和睦を結ぶことで、一時的な平和を迎えることとなった。しかし北魏が華北を平定して国内を固め、文帝が檀道済を讒言により誅殺してしまうと、元嘉27年(450年)に和睦は破棄されて、南朝宋は北魏の侵攻を受けることとなる。一時的に撃退したものの、北魏軍の勢いは凄まじく、遂には長江北岸の瓜歩山(現在の江蘇省南京市六合区)にまで侵攻されてしまう。このため、南朝宋は大いに乱れることとなった。
元嘉30年(453年)、文帝は長男である皇太子の劉劭が巫蠱を行ったため、廃嫡を考えたが実行するのに躊躇した。徐湛之と相談していたが、その内容が漏れて同年2月に決起した劉劭によって殺害された。
義熙9年(413年)から昇明2年(478年)まで倭の五王らは、東晋と南朝宋に朝貢し、朝鮮半島での倭国の軍事行動権や経済的利益の国際的承認を求めた。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou