田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 2009年8月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。元神奈川県議会議員田川誠治の長男。
新自由クラブ代表(2代)、進歩党代表。リベラル派、進歩主義派の代表的な政治家だった。
神奈川県横須賀市出身。田川家は大地主の家系。横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1941年12月慶應義塾大学法学部政治学科卒業。朝日新聞社に入社したが、翌年に陸軍・近衛歩兵第5連隊補充隊(東部第8連隊)に入営した。復員後は朝日新聞社に復職し、通信部及び政経部記者、同社労組委員長等を務める。退社後、松村謙三衆議院議員(元文部大臣)秘書を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に初当選。以後旧神奈川2区から11回連続当選。
自由民主党時代は「ハト派」議員として活動し、科学技術政務次官などを歴任。後に旧神奈川2区から小泉純一郎が出馬したが、選挙区内の特定郵便局など郵政関係各団体は田川を支援していたため最初の選挙では落選してしまい、その怨嗟が後の郵政民営化への執着につながったと言われる。
1976年、河野洋平(田川の従弟)、山口敏夫らと共に自民党を離党し、新自由クラブの結成に参加。西岡武夫が路線対立で離党した後、その後任として幹事長に就任。1979年、総選挙敗北で新自由クラブ代表を辞任した河野に代わりに第2代代表に就任した。
四十日抗争の後、当時首相であった大平正芳が、首班指名で新自由クラブの協力の見返りとして入閣させようとしたが、自民党内の反発で実現しなかった。1983年、総選挙で過半数割れとなった自民党と連立内閣を組み、第2次中曽根内閣の自治大臣に就任。
1986年、自民党が衆参ダブル選挙に大勝し、新自由クラブとの連立を解消。選挙での退潮に歯止めがかからない新自由クラブで、河野、山口らは党を解散して自民党復党への道を選択した。だが、田川だけは「死んでも自民党には帰らない」と筋を通し、ひとり自民党復党を拒否し、進歩党(1987年)を結成した。
進歩党はクリーンな政治の実現を訴えたが、1989年、参院選比例区の名簿順位決定をめぐる党内問題が表面化し、金銭疑惑を追及する若手党員グループが政治団体「進歩党をまじめに考える会」を結成、機関紙『進歩維新』を発行するなど活発な活動を展開して田川ら党執行部と対立した。東京地方裁判所や横浜地方裁判所での訴訟に発展したことで、結果的に党勢拡大にブレーキがかかり、離党組は進歩自由連合を結党、完全に袂を分かった。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に出馬せず議員引退を表明し、進歩党も解散した。日本新党から出馬した永井英慈を事実上の後継として支援した。
2009年8月7日、老衰のため死去。享年92(満91歳没)。
親中派として知られ、日中国交回復前は松村謙三、古井喜実、川崎秀二らと共に両国のパイプ役を果たした。
国会議員の歳費特権であるJR無料パスの受給を「税金の無駄遣い」と拒否し、交通費は自己負担していた。ただしこれは選挙区が東京から近い神奈川県であった理由が大きい。
漫画家の本宮ひろ志が、自身が主人公のキャラクターとなって、政治家を目指してさまざまな人に出会い、それらの出来事を漫画化した作品『やぶれかぶれ』を描いた。本宮から出された手紙に対して「自分宛の手紙には必ず返事を書く主義」である田川が真っ先に応じた。この信条が漫画で紹介されたために、田川に対して漫画雑誌の『少年ジャンプ』読者からの手紙が殺到し、後に集英社は読者の手紙と田川の返書を書籍として刊行している。
自民党との連立については、「日本に連立政権の文化を根付かせるための行動だった。そして、保守政治家として日本社会党などを連立の相手に加えるわけにはいかなかった」と著書で釈明している。しかし、自民党反対派の新自由クラブ支持者や野党支持者からは裏切りと捉えられた。
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