ソマリアは、6つの連邦構成国(Federal Member States (FMS)、stateは州とも訳される)と首都地域から成る。ただし1991年から続く内戦によって連邦政府は全国を支配しておらず、概ね北西部のソマリランド、いくつかの自治国が集まった連邦政府、南部のイスラーム武装勢力支配地域の3つに分けられる。内戦前は18の地域(当時は州と呼ばれた)に区分されており、行政機能が喪失した現在でも地域区分として統計などで用いられている(#内戦前の行政区画を参照)。
ソマリアの住民の大半はソマリ族で、大きく5つの氏族に分かれており、それぞれがさらに細かい支族に分かれている。それぞれの氏族はだいたいがまとまって暮らしており、1991年の中央政府消滅後は氏族が事実上の行政単位となっている。ソマリ族は民族よりも氏族・支族を重視する傾向にあることから、内戦の原因となった。
ソマリアは1960年にイギリス領ソマリランド(当時は独立国家ソマリランド国)とイタリア領ソマリランドの合邦によって成立した国家である。ソマリア政府は地方行政制度を整備し全国で地方自治体が成立したが、1969年にモハメド・シアド・バーレ主導の軍事クーデターが発生。政権を奪取したバーレはすべての地方自治体を政府の管轄下に置いた。バーレは独裁色を強めていったが、出身氏族を優遇したため、他の氏族の不満が高まった。1986年にバーレ政権に対して各地で反乱が起こると、中央政府は地方の支配を喪失していった。政権末期には中央政府が治めるのは首都のみとなり、バーレは「モガディシュ市長」と揶揄される状況に陥った。1991年1月に反政府勢力の統一ソマリ会議がモガディシュを制圧しバーレは国外へ追放されるが、統一ソマリ会議は内部抗争を起こし分裂。混乱のさなか5月に旧イギリス領がソマリランド共和国として独立を宣言し、ソマリアは分断された。やがてソマリアは無政府状態の内戦に突入し、地方行政制度は崩壊した。
周辺諸国や国際社会の援助でソマリア暫定国民政府(2000年 - 2004年)が成立したが、中央集権制を志向したため各氏族から支持されず失敗した。国民政府を引き継いだソマリア暫定連邦政府(2004年 - 2012年)は、連邦制を採用し対立していた氏族・勢力と和解していった。2005年には暫定連邦政府のモガディシュ入りを果たしている。2012年8月、国際的に承認された中央政府としてソマリア連邦政府が成立し、これまで連邦政府と協力関係にあったプントランド、ガルムドゥグは構成体として連邦に加入した。また連邦政府は自治政府としてジュバランド、南西ソマリア、ヒーシェベリを南部の空白地帯に成立させ、再統一に向けて連邦制の整備を進めている。しかしソマリランドは依然としてソマリアへの帰属を拒否し続けており、それ以外の構成体も氏族・支族問題や域内で活動するイスラム武装組織といった不安要素を抱えている。また連邦政府と構成体の関係は必ずしも良好ではなく、政治問題で再び分裂に陥る危険性もあることから、連邦は脆弱で不安定な状況にある。
2012年の連邦共和国憲法では、ソマリアの行政区画は連邦政府と連邦の構成体(自治政府、地方政府)の2層と定義されている(第5章48条)。ただし憲法には構成体の数と境界は定められておらず、連邦議会の下院にあたる人民議会に委ねられている(第5章49条)。現在ソマリアには6つの構成国(自治国、自治州)と首都地域がある。なおソマリランドを構成国に含まない場合がある。例えば2021年5月にモハメド・アブドゥライ・モハメド大統領がフォーリン・ポリシーへ投書した記事では、構成国にソマリランドが言及されていない。
構成国と位置付けられているソマリランドは、1991年の建国以来ソマリアからの独立状態を保っており、連邦政府には参加していない。事実上独立国家として機能しているが、国際的には独立は承認されておらずあくまでソマリアの「自治政府」という扱いである。また各構成国の内情は様々で、プントランドは比較的安定しているが、ソマリア南部を中心にイスラーム武装勢力が実効支配しているところもあり、統治下にない地域が存在する。ソマリランド・プントランド国境近辺は両国の紛争地帯となっており、ブーホードレのように住民によって自治が行われている地域が存在する。
各構成体の境界は内戦前の行政区画である地域(州とも、後述)を基にすることが定められている(第5章49条)。また構成体は2地域以上から成ることが定められているが、首都地域は特例として1つの地域から成る。スール、サナーグ、トゲアー地域東部(SSC地域)は帰属未定と扱われている。
ソマリランドはソマリ族5大氏族の一つ、イサックが内戦早々の1991年に建てた国である。独立は国際的には承認されていないが、ソマリア政府は実効支配していない。ソマリランドが主張している領土は、ソマリア独立前にイギリスの保護領だったところであった。ただし東部のSSC地域はイサックとは別の大氏族ダロッドの居住区域であり、ここの領有権を巡ってプントランドと紛争状態にある。旧イギリス領は旧イタリア領と対比して「北部地域」とも呼ばれ、連邦議会を構成する人民議会(下院)は選挙区を「北部地域」と表記している。一方の元老院(上院)では「ソマリランド」と表記している。
旧イギリス領は内戦前の行政区画ではアウダル、オーコイ・ガルベード、トゲアー、サナーグ、スールの5地域が領土に該当するが、独立後は6州から成る独自の行政区分を設定している。この行政区分は実際のソマリ族分布と一致していなかったため、2008年3月に12州に、同5月には13州に、2014年7月に14州に改変された。ただし2008年以降の8州は議会が承認しておらず、2020年に6州へ差し戻された。
2012年に発足。内戦後初めて国際的に承認された、ソマリア中央政府である。ただし、現状はいくつかの自治国の集まりに過ぎない。ソマリア連邦共和国の首長は大統領(President)と呼ばれるが、各自治国の首長もまた大統領と呼ばれる。構成国のうちプントランドとガルムドゥグは連邦政府成立前から存続しており、連邦政府からの自立性が比較的高い。また両国の境界が憲法で定められたように内戦前の行政区画に基づいていないのは、加入前の領土がそのまま引き継がれたことと、プントランドがムドゥグ地域からの撤退を拒否しているという歴史的経緯による。
ソマリア連邦共和国の大統領府、議会などが置かれている。モガディシュはイタリア領時代から一貫してソマリアの首都であるが、1991年1月のバーレ追放以降は市内でも戦闘が頻発するようになり、市街は荒廃し治安が極度に悪化した。そのため暫定国民政府、暫定連邦政府は国外で結成された。暫定連邦政府は2005年2月にモガディシュ入りを果たしたが、2006年6月にイスラーム勢力のイスラム法廷連合に放逐された。2007年1月に暫定連邦政府が奪還して以降、安定した統治で治安は回復傾向にあるがそれでも武装組織が市内で活動しており、依然として予断を許さない状況にある。2017年4月14日に連邦の首都として単独の構成体となった。
プントランドはソマリ族5大氏族の一つ、ダロッドが1998年に建てた自治国である。氏族統一主義を掲げ、ダロッドが居住しているバリ、ヌガール、ムドゥグ、SSC地域の領有権を主張している。政府の実権は必ずしも政府が主張している領土の全域に及んでいないが、比較的安定している。ソマリア沖の海賊が本拠地にしているといわれているムドゥグ、エイルのいずれもプントランド内にある。建国当初はソマリアからの独立を宣言していたが、ソマリア暫定連邦政府の初代大統領にアブドゥラヒ・ユスフ元プントランド大統領が就任して以降、ソマリランドとは異なりソマリア政府に協力的な態度をとっている。だが連邦政府と意見の相違もあって2015年時点ではやや距離を置いている。プントランドでは、ソマリアの行政区画を元に9つに再編された地域に区分される。
ガルムドゥグはソマリ族5大氏族の一つ、ハウィエが2006年に建てた自治国である。この名称は旧行政区分の「ガルグドゥード地域」「ムドゥグ地域」から成るとして付けられたものだが、ムドゥグ地域の北部はプントランドが支配している。建国当初からソマリアの自治国になることを表明しているが、領土問題を抱えるプントランドとは関係があまりよくない。連邦の構成体となるためソマリア中部州に参加したが、程なくして瓦解している。2018年3月に中部州を引き継ぐ形で連邦構成体となった。建国当初の首都はガルカイヨ(南部のみ)、2015年4月から2018年3月まではアダド、現在はドゥサマレブ。
かつて存在した連邦構成体。ソマリア中部の勢力であるガルムドゥグ、ハイマン・アンド・ヒーブス、アル・スンナ・ワル・ジャマー(ASWJ)が形成に向けて2014年より協議を行っていた。紆余曲折の末2015年4月17日に暫定行政が開始されたが、不満を抱いたASWJが州都ドゥサマレブを占領し独自の中部州政府の成立を宣言。ガルムドゥグを中心とした「正当な」中部州政府はアダドへ避難し、中部州には2つの政府が並立する事態になった。その後も対立が続いたが、2017年12月6日にガルムドゥグとASWJは中部統一の協定を締結し、2018年3月27日よりガルムドゥグがASWJを吸収する形でソマリア中部が統一された。
旧ヒーラーン地域と中部シェベリ地域から成り、国名は両地名を合わせたものになっている。2016年に設立され、構成国としては最も新しい。
南西ソマリアはソマリ族5大氏族の一つ、ラハンウェインが主に住む自治国である。元々は2002年4月に暫定国民政府に対抗するソマリア和解再生評議会のラハンウェイン抵抗軍が設立した独立国家であった。初代南西ソマリア政府は2004年成立の暫定連邦政府へ参加したことでソマリアの自治政府となったが、2006年2月10日にイスラム法廷連合の攻撃を受け自然消滅。その後連邦政府は再建を決定し、2014年10月29日の話し合いにより従来の行政区分でベイ地域、バコール地域、下部シャベレ地域が相当すると決めら執りれた。11月18日にはシャリフ・ハッサン・シェイハ・アデンが大統領に選ばれた。首都はブラバではあるが、2017年7月の正式発足時はバイドアで行政を執り行っていた。
ジュバランドはダロッド(オガデン、マレハン)、シェークハール、ラハンウェインなど、多数の氏族の居住地域である。1925年までイギリス領だったこの土地の歴史は、その後も複雑であり、ソマリア内戦後もここを支配する勢力が幾度も変わった。連邦政府は2013年5月に自治政府を設立し、軍閥ラスカンボニ運動のリーダーアフメド・モハメド・イスラムが大統領を務めている。従来の行政区分では、ゲド地域、下部ジュバ地域、中部ジュバ地域が相当する。ただしゲド地域の支配力は弱く、イスラーム武装勢力アル・シャバブの力も強い。
イスラム主義を掲げている武装集団の実効支配地域。特定の氏族によらず、イスラムによる統治を行っていることが他の勢力とは異なる点として挙げられる。またソマリア政府と敵対しており、一部の国ではテロ組織として認定されていることがある。支配地域は政情が不安定なソマリア南部に多く、逆に比較的安定しているソマリランドとプントランドには少ない。同じくイスラム主義を掲げているアル・スンナ・ワル・ジャマーはソマリア政府に協力しているため、ここには含めていない。
上記以外でも、ソマリアには独立を主張する地域がある。ただし、国際的な承認が無いのはもちろんの事、国家としての体裁も整えていない場合も多い。
次の表はこれまでソマリアで独立・自治宣言を実施した「国家」、軍閥等勢力の一覧である。小規模な国家は情報に乏しく、実効支配地域や消滅時期など不明な点は多い。
地域のうち、一部は以下の略称を使用している。
1991年1月のバーレ政権が崩壊する前の行政区画である。この頃には既に地方行政制度は破綻していたが、中央政府の消滅によって完全に実体を失った。ただし後継の暫定政権は詳細な行政区画を定めなかったことや、各勢力の支配地域は流動的で境界が曖昧であったことから、地域区分として現在でも国際機関等で使用され続けている。
当時のソマリアの行政区画は、州と地区(または県)の2層であった。ただし数は資料によって変動がある。
ここではOCHAが作成した地図を基にした行政区画(18州89地区)で説明する。
ソマリアにおける人口統計は、実情を正確に反映することができていない。大きな原因は内戦であるが、他に国勢調査が1975年を最後に行われていないことが挙げられる(1985/86年は結果を未公表)。国勢調査は人口を推定するにあたって基となる重要なデータであるため、長年実施されていない場合は推定人口が現実と乖離しやすくなる。また遊牧民や国内避難民(IDP)といった流動的な住民が相当数存在し、人口が変動しやすいことが挙げられる。2014年のUNFPAの調査結果によると、総人口の約26パーセント(約320万人)が遊牧民で、約9パーセント(約110万人)が国内避難民となっている。人口統計は年度・作成元の異なる以下の3種類を使用した。
内戦前のソマリアの第一級行政区画は、州(ソマリ語: Gobol (単数)、英語: Region)と呼ばれる。ただし現在は行政区画としての実体がなく、また連邦の構成体が州(英語でState)とも訳されることから、混同を防ぐためここでは「地域」として説明する。
総数は18地域で、内訳は旧イギリス領が6地域、旧イタリア領が12地域である。なお旧イタリア領を「南部地域」、旧イギリス領を「北部地域」と呼ぶが、これは行政区画(かつての州)ではない。資料によって16地域となっているのは、1984年のアウダル州(オーコイ・ガルベード州より)とスール州(ヌガール州より)の作成が反映されていないためである(#ソマリア民主共和国の節を参照)。名称は方位・位置を意訳する場合と、ソマリ語の表記に忠実な2通りがある。
地域(かつての州)の下には90の地区(ソマリ語: Degmo (単数)、英語: District)が存在する。「県」とも訳されるが、現在は行政区画としての実体が無いためここでは「地区」に統一する。
総数は資料によって異なるが、大体90前後である。バナディール地域(モガディシュ)は最多となる16地区から成る一方、バナディールを除いた地域の地区の平均は4地区で、面積ではなく人口規模に応じて設置された。人口は遊牧民および国内避難民の影響を地域以上に受けているため、5年で2倍近い増減が起こっている地区が存在する。
ここではOCHAに従ったが、資料によっては以下の地区が存在する場合がある。また旧称・別名等は斜体で記載した。
現在のソマリアにあたる地域は、20世紀初頭にイギリス領ソマリランド、イタリア領ソマリランド、イタリア領トランス・ジュバの3植民地に分割されていた。ただしトランス・ジュバ植民地は短期間でイタリア領ソマリランドへ併合された。第二次世界大戦では1940年8月にイタリアがイギリス領ソマリランドに侵攻し同地を占領、全域がイタリアの勢力下にあった。
イギリス領ソマリランドは、6つの地区(District)に分割されていた。なお1991年に独立を宣言したソマリランド共和国ではこの行政区画が復活した。
イタリア領ソマリランドが成立した当初、南限はジュバ川までであった。1924年、南のイギリス領ケニアのジュバランド州がイタリアへ割譲され、イタリア領トランス・ジュバ(イタリア語: Oltre Giuba、ジュバ川の向こう)となった。トランス・ジュバ植民地は2年後の1926年にソマリランド植民地へ編入された。トランス・ジュバ植民地は現在のジュバランド(ゲド、中部ジュバ、下部ジュバ)にあたる。
1931年、イタリア領ソマリランドは7つの管区(Commissariato)に分割された。1936年、エチオピア帝国の併合によって東アフリカ植民地が成立するとソマリランド植民地はその一部となり、エチオピアのオガデン地方と共にソマリア県の管轄とされた。ソマリア県は8つの管区に分割され、更に管区は居住区(レジデンツァ、Residenza)に細分化された。以下はソマリア県時代の管区・居住区の一覧である。ただし地名はイタリア語ではなく現在の表記である。統計は1931年時点のもので、ヌガール管区のデータが存在しない。
戦後、イギリス軍政期を経て信託統治領ソマリランドとなり、行政区画は管区から地区(District)へ変更された。合邦時は上部ジュバ、下部ジュバ、バナディール、ヒーラーン、ミギルティニア、ムドゥグの6地区に分割されていた。
ソマリランド国と信託統治領ソマリランドは1960年7月1日に合邦し、ソマリア共和国が成立した。最初は植民地時代の12地区(英・伊それぞれ6地区)がそのまま使われたが、1962年6月14日に州および地域制度が導入され、全土は8州に区分された。また旧イギリス領は「北部地域」、旧イタリア領は「南部地域」と呼ばれるようになった。北部地域は6地区が合併し2州となったが、南部地域は6地区がそのまま州へ移行した。1963年8月14日、州の下位区分として地区(県とも、植民地時代とは異なる)が設置され、1967年2月8日に州 - 地区の2層構造が確立した。
州知事は中央政府で閣僚会議の選考、内務大臣の推薦、大統領の署名を経て任命された。
1969年の軍事クーデターで権力を握ったバーレは、1972年6月8日の「地方政府改革法」で州や地区といったあらゆる地方自治体を政府の直轄下に置いた。1977年2月3日の「地方自治体法」によって、すべての地方自治体の議会がソマリ社会主義革命党の一党独裁制に組み込まれた。1982年(またはそれ以前)に8州は16州へ分割された。1984年6月、オーコイ・ガルベード州からアウダル州が、ヌガール州からスール州が分離し、18州となった(資料によっては2州の追加は無かったとする場合がある)。
州議会の議員は地区議会が選出していた。またすべての地方議会には政府・軍部が深く関わっており、バーレ政権以前のような民主主義的な行政制度では無かった。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou