1964年アメリカ合衆国大統領選挙(1964ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1964)は、1964年11月3日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第45回)。アメリカ合衆国史の中でも最も一方的な選挙の一つになった。
現職大統領リンドン・ジョンソン(民主党)は、前任者ジョン・F・ケネディの暗殺で1年足らず前に大統領職を継いだが、ケネディ人気にうまく自身も乗せることができた。ジョンソンはまた、対抗馬である共和党でアリゾナ州選出アメリカ合衆国上院議員バリー・ゴールドウォーターを、1930年代に創られた社会福祉プログラム(例えば社会保障)の廃止を望んでいる右派だと批判した。さらにゴールドウォーターならば、この国をソビエト連邦との核戦争に突入させるかもしれないと主張した。ジョンソンはこれらの要素をうまく働かせて、50州のうち44州とコロンビア特別区を制し、容易に当選した。2007年時点で、ジョンソンとゴールドウォーターの一般選挙における得票率差22.6ポイントは大統領選挙の歴史の中で5番目に大きなものである(これより上位に来るものは1920年、1924年、1936年および1972年の選挙)。ジョンソンは一般選挙で61.1%の得票率となったが、これは1820年以降の大統領候補者が得たものとしては最高となっている。
ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。ケネディ支持者はカリスマ的指導者を失ったことで衝撃を受け悲嘆に暮れた。対抗する大統領候補者は殺害された大統領の政策に反対して出馬することには間が悪い立場に立たされた。
その後の服喪期間、共和党の指導者達は不敬に思われないように政治的停止期間を要求した。主要政党の候補者はだれもが1964年1月まではほとんど政治活動を行わず、その後に公式の予備選挙の季節が始まった。当時、政治評論家の多くはケネディの暗殺がこの国を政治的に不安定な状態にしたと見ていた。
ジョンソンの大統領候補指名は確定的だったが、ジョンソンは党大会を支配し、公民権に関する公然の闘争を避けることを望んだ。それでも、公民権問題に関しては指名の時期に2つの派から挑戦を受けた。
人種差別主義者でアラバマ州知事のジョージ・ウォレスは、ジョンソンに対抗して北部州での多くの予備選挙に出馬し、メリーランド州、インディアナ州およびウィスコンシン州の予備選挙では、ジョンソンに対する当て馬である地元出身のお気に入り候補に対して驚くべき善戦をした。
全国党大会では、統一ミシシッピ州自由民主党 (MFDP)が、党の規則に基づくのではなく、公式のミシシッピ州代議員団がジム・クロウ法の予備選挙で選ばれていることを理由に、自分達がミシシッピ州の代議員であることを主張した。党のリベラル派指導者達は2つの議員団で公平に議席を配分することを支持した。ジョンソンは、正規のミシシッピ州民主党ならばどうしてもゴールドウォーターに投票するであろうが、彼等を拒絶することは南部の票を失うことになると心配した。結果的にヒューバート・H・ハンフリー、ウォルター・ロイター、さらには黒人公民権運動の指導者であるロイ・ウィルキンス、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアおよびベアード・ラスティンが妥協を工作した。ミシシッピ州自由民主党は2議席を得た。正規のミシシッピ州代議員団は党公認候補への支持に対する誓約を求められた。今後の民主党全国大会は人種差別選挙で選ばれた代議員団を受け入れることは無いとされた。ミシシッピ州自由民主党の弁護士ジョセフ・ラオは当初この取引を拒否したが、最終的その議席を受け入れた。ミシシッピ州とアラバマ州からの多くの白人代議員が誓約に署名することを拒否し、会場を後にした。若い公民権運動家達は如何なる妥協にも不満を抱いた。ジョンソンは選挙で南部の多くを制したが、ルイジアナ州、アラバマ州、ミシシッピ州、ジョージア州およびサウスカロライナ州は落とした。
ジョンソンはまた、ケネディ大統領の弟で司法長官のロバート・ケネディとの問題があった。ケネディとジョンソンは1960年の大統領選挙以来互いを嫌っていた。ケネディがその兄の副大統領候補にジョンソンがならないよう画策した時に、その溝が深まった。1964年初め、ロバート・ケネディはジョンソンを嫌っていたにも拘らず、ジョンソンに自分を副大統領候補として認めるよう強いた。ジョンソンは現行閣僚には誰も民主党公認の2枚目の切符を渡す考えは無いと宣言することで、この脅しを排除した。ジョンソンはまた、ケネディが1964年民主党党大会で予定される演説を使って代議員の中に感情の高まりを創りだし、自身をジョンソンの副大統領候補に指名させるのではないかということを心配するようになった。ジョンソンはケネディの演説を慎重に大会の最後の日に組み入れ、その副大統領候補が既に決まった後になるようにした。民主党全国大会の直ぐあとで、ケネディはジョンソン内閣を去り、ニューヨーク州で合衆国上院議員の議席を求めて出馬することにした。ケネディはその年11月の選挙で当選した。ジョンソンはその副大統領候補として、ミネソタ州選出合衆国上院議員で公民権運動の活動家でもあるヒューバート・H・ハンフリーを選んだ(ケネディの暗殺後、副大統領候補の必要性は大会で不安な要素を与えていたことは注目すべきである)。
共和党は1964年にその保守・右派と、中道保守との間でひどく分裂した。元副大統領のリチャード・ニクソンは1960年の大統領選挙でケネディとかなりの接戦を演じたうえで敗れ、その後1962年のカリフォルニア州知事選挙でも敗れたために出馬しないことにした。党主流派のニクソンは共和党両派との結び付きがあり、1960年の時は両派をまとめることができた。ニクソンがいなければ、両派が指名を求めて全面的な政治的内戦状態になることは明らかだった。アリゾナ州選出合衆国上院議員のバリー・ゴールドウォーターは保守・右派の代表だった。保守派は伝統的にアメリカ合衆国中西部を地盤にしていたが、1950年代からは南部や西部でも力を付けていた。低い税金、個人の権利と企業の利益を支持する小さな連邦政府を支持し、社会福祉プログラムには反対していた。また、北東部に地盤がある中道派の君臨に不満を抱いていた。1940年以来、東部中道派が共和党の党大会で保守派の指名候補者を破り続けていた。保守派は、東部中道派がその哲学や政府に対処するやり方で民主党左派と大差ないと思っていた。共和党の指名を得るためにゴールドウォーターの主要対抗馬は、ニューヨーク州知事で長い間共和党中道派の指導者であるネルソン・ロックフェラーだった。ロックフェラーがゴールドウォーターによって指名争いから追い出されたときに、党中道派はペンシルベニア州知事ウィリアム・スクラントンに乗り換えて、彼ならばゴールドウォーターを止められると期待した。
ニューハンプシャー州予備選挙ではロックフェラーとゴールドウォーターが有力と考えられていたが、記名投票で候補者名簿には載っていない候補にも投票が出来たことから、1960年の大統領選挙でニクソンの副大統領候補だったヘンリー・カボット・ロッジJr.駐南ベトナム大使(元マサチューセッツ州選出合衆国上院議員)が勝利。更にマサチューセッツ州とニュージャージー州予備選挙でもロッジは勝利したものの、彼自身が大統領候補としての指名を求めないと宣言するに至りロッジへの支持は止んだ。
ゴールドウォーターはニューハンプシャー州で敗れたにも拘らず、選挙運動を続け、イリノイ州、テキサス州およびインディアナ州の予備選挙でほとんど反対無く勝利し、ネブラスカ州の予備選挙ではニクソン担ぎ出しという手ごわい挑戦にも勝った。ゴールドウォーターは多くの州党員集会でも勝利し、さらに多くの代議員を集めた。一方ロックフェラーはウェストバージニア州とオレゴン州の予備選挙でゴールドウォーターに勝利し、スクラントンは出身州であるペンシルベニア州で勝利した。ロックフェラーもスクラントンも大半が北東部だが幾つかの州党員集会で勝利した。
ロックフェラーとゴールドウォーターの天王山はカリフォルニア州予備選挙だった。1963年にロックフェラーは突然妻と離婚してその後間もなくかなり若い女性と再婚した時に、不快な報道を受けていた。その女性ハッピー・マーフィーがロックフェラーと再婚する前に突然前夫と離婚していた事実があり、ロックフェラーは彼女と婚外交渉があったという噂が流れた。このことは共和党内の多くの社会保守主義者を怒らせ、その多くはロックフェラーが「他人の妻を寝取った」と囁いた。これらの告発にも拘らず、ロックフェラーはカリフォルニア州の世論調査の大半ではゴールドウォーターにリードしており、予備選挙の数日前にその新妻が息子ネルソン・ロックフェラー・ジュニアを出産した時は勝利に向かっていた。その息子の誕生が不倫問題を前面かつ中心に押し出すことになり、ロックフェラーは急速に世論の地盤を失った。ゴールドウォーターが51%対49%という僅差で予備選挙を制し、重大な対抗馬でありなんとか指名争いに残っていたロックフェラーを排除した。
サンフランシスコのカウパレス・アリーナで開催された1964年共和党全国大会では、党中道派と保守派が公然と互いを中傷しあうことになり、最も苦い大会になった。ロックフェラーはその演説のために演台に立ったとき騒々しいブーイングで迎えられた。その演説では厳しく党保守派を批判し、そのことで傍聴席にいた多くの保守派は彼に大声で喚きたてた。中道派の集団がスクラントンを担いでゴールドウォーターを止めようとしたが、ゴールドウォーター側は容易にその挑戦を退け、最初の投票で大統領候補に指名された。大統領候補指名投票の結果は以下の通りだった。
副大統領候補には知名度の低い共和党議長でニューヨーク州北部選出の合衆国下院議員ウィリアム・E・ミラーが指名された。ゴールドウォーターは「彼ならジョンソン大統領の石頭を追い出せる」からミラーを選んだと述べた。
指名受諾演説でゴールドウォーターは次の様に言っている。
この演説は、多くの共和党中道派に余りに侮辱的な挑発と受け止められ秋の本選挙で民主党への投票を招く一因となった。
ゴールドウォーターは保守派を糾合することに成功したものの、一般選挙ではその支持基盤を広げることはできなかった。共和党大会の少し前ジョンソンが提案し署名して法制化した1964年公民権法に、ゴールドウォーターが反対票を投じたことで共和党中道派の大半と疎遠になっていた。連邦政府が法制化することではなく個別の州の問題だというのがゴールドウォーターの持論ではあったが、この事実はゴールドウォーターを人種差別主義者としてジョンソン陣営からネガティブ・キャンペーンにさらされる口実となった。
その場で不用意にコメントしたり意見を述べたりするゴールドウォーターの以前の言動も批判の的となり、これも多くが民主党のネガティブ・キャンペーンに広く利用された。1961年12月の記者会見で「時々私は、東海岸を切り離して海に流してしまったらこの国がどんなに巧くいくだろうかと思うんだが」とコメントし(東部州を中心に支持されていた)しばしば関連付けられる自由経済と社会政策を嫌っていたことを表明した。だがジョンソン陣営がテレビ広告でこの発言を引いて、社会保障を削減して自己責任にしテネシー川流域開発公社を売却するかの様に喧伝したことから、そのまま自陣営に跳ね返ってくることになった。「クレムリンの男子便所(men's room)にデカいのを一つ落としてやれ」と言う大便の用を足すことと米軍の核攻撃を引っ掛けたジョークも、ゴールドウォーターの最も有名な失言になってしまった。
有力な共和党中道派がゴールドウォーターを支援しなかったことも、彼にとっては打撃だった。ニクソンやスクラントンの様に忠実に選挙運動を行った者もいたのだが、ロックフェラーやロムニーはゴールドウォーターの選挙運動に加わらず暗に拒否の姿勢を示した。アイゼンハワーの強力な後ろ盾があればゴールドウォーターの選挙運動は有利になったかも知れないが、そのアイゼンハワーにしてさえ全面支援していなかった。1960年代初頭にゴールドウォーターは、アイゼンハワー政権を「10セント雑貨店のニューディール」と揶揄していたし、1964年7月に実弟で大学の管理者ミルトン・S・アイゼンハワーが大統領候補となる可能性について尋ねられた際にも「一つの時代にアイゼンハワーは一人で十分」とコメントしていた。こうした遺恨もあってかアイゼンハワーはゴールドウォーターを支援することも批判することはなく、ゴールドウォーターのテレビ広告に一度出ただけだった。東部共和党の声を代弁していた(かつ予備選挙中のゴールドウォーター活動家の目標だった)「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」ですら一般選挙ではジョンソン支持を表明し、有力な共和党政治家の参加は無かったものの「ジョンソン共和党」組織まで創った中道派まで現れた。
その一方でロナルド・レーガンはゴールドウォーターを支持するテレビ広告を打ち、好印象で受け入れられた。ゴールドウォーターの助言者が国中の地方テレビ局でそれを流させたことは非常に評判になった。1966年にレーガンは地滑り的勝利でカリフォルニア州知事に選ばれたが、多くの歴史家達はこの演説がレーガンの俳優から政治家への変わり目だったと考えている。
ジョンソンは自身を中道と位置づけ、ゴールドウォーターを過激主義者と見させることに成功した。ゴールドウォーターは戦争や核兵器および経済に関して率直な発言をする習慣があり、これが却ってマイナスになった。
最も有名なものでは、9月7日にジョンソンが打った俗に「デイジーガール」(Daisy Girl)と言われるテレビCMがある。少女が野原でデイジーの花びらを「ワン…ツー…スリー…」と数え、少女が「ナイン」と呟いたところで「テン」と男の声が重なり少女の黒い目がクローズアップされると共に「ナイン、エイト、セブン」とカウントダウンが開始。やがて「スリー、ツー、ワン」と続いて画面は真っ暗になり「ゼロ」で核爆発の映像が流れると、ジョンソン大統領の声で「これは大いなる賭けだ。神の子が全て生きられるのか、闇にたどりつくか──互いに愛し合うのかそれとも死に絶えるのか」というナレーションが続く。この広告はゴールドウォーターの提唱するベトナムで「戦術的」核兵器を使用するという発言に反応したものだった。
ジョンソン陣営が打ったもう一つの広告「共和党員の告白」(Confessions of a Republican)は、サンフランシスコでの共和党大会に押し掛けたクー・クラックス・クランを引き合いに出してゴールドウォーターを支持する保守層に結びつけたものだった。有権者は次第にゴールドウォーターを「右翼」がかった候補者と見るようになり、ゴールドウォーターのスローガン「彼は正しい、それが本音」("In your heart, you know he's right")は、ジョンソン陣営によって「彼はバカ、それこそ貴方のガッツ」("In your guts, you know he's nuts")とか、「彼ならやりかねない(核兵器のボタンを押すこと)、それが本音」("In your heart, you know he might")とか、さらには「彼は極右だ、それが本音」("In your heart, he's too far right")とパロディ化されてしまった。「ジョンソンですらゴールドウォーターよりはマシ」という皮肉に満ちた文句を掲げたボタンを着ける者まで出る始末だった。
ジョンソン陣営の最も大きな心配事は、重要な州で低投票率に導く有権者の無関心だった。これに対応するためにジョンソンの広告の最後は常に「11月3日にはリンドン・B・ジョンソンに投票を。あまりに大変な賭けなので貴方は家に居られない」という文句で締めくくった。民主党の選挙運動は他に2つのスローガン「LBJと共に進もう」と「LBJはUSAのために」があった(LBJはリンドン・ジョンソンの頭文字)。
この選挙運動は元大統領ハーバート・フーヴァーの逝去にともない、10月20日の週に中断があった。服喪期間に選挙運動を行うのは不敬と考えられたからだった。
投票は1964年11月3日に行われた。ジョンソンは一般選挙の得票率61%以上を取ってゴールドウォーターを粉砕した。これは一般投票が初めて国全体に広げられた1824年以降最大の得票率だった。最終的にゴールドウォーターは出身州であるアリゾナ州とディープサウス5州を取っただけであるが、レコンストラクション以降はずっと民主党が勝利していたミシシッピ州やアラバマ州ばかりかレコンストラクション期間中でさえも共和党が勝利しなかったジョージア州で共和党が勝ったことは、民主党の公民権政策で従前の民主党支持者が疎遠になっていたことを示した。この年は南部にとって大きな転換点となり、民主党の元「ソリッドサウス」が共和党の拠点になる過程の重要な一歩だった。それでもジョンソンは、元アメリカ連合国11州合計で辛うじて一般選挙の多数(51%対49%、631万票対599万票)を確保した。
ジョンソンの圧勝は多くの保守派共和党議員も落選させ、議会で保守派連合に打ち勝つ多数派与党を確保させた。
この選挙は、アメリカ合衆国憲法修正第23条の下でコロンビア特別区が大統領選挙に参加したことでは初めてのものになった。
青字は民主党、赤字は共和党が勝利したことを示す。数字は得票率の差。
得票率差1%未満 (選挙人数5):
得票率差5%未満 (選挙人数23):
得票率差5%以上10%未満 (選挙人数40):
バリー・ゴールドウォーターは1964年の選挙で大敗を喫したが、それに続く保守派革命の基盤を作った。ゴールドウォーターのためのレーガンの演説、草の根組織、および共和党の保守派回帰は1980年代の「レーガン革命」を齎す一助になった。実際に今日の指導的政治家の多くはゴールドウォーターのために働くことで政界に初めて入った(ヒラリー・クリントンは「ゴールドウォーター・ガール」だった)。
ジョンソンは1964年選挙での勝利から国内での「偉大なる社会」プログラムを打ち出し、1965年の選挙権法に署名し、貧乏との戦争(貧困対策)を始めた。ベトナム戦争を拡大させたが、それがその人気を蝕むことになった。1968年までにジョンソンは人気が衰えたので大統領候補としては撤退しなければならなかった。さらにその国内政策はフランクリン・ルーズベルトの民主的ニューディール連衡から労働組合員や南部人を去らせることになり、「レーガン民主党」の現象に繋がった。その後10回の大統領選挙で民主党は3回しか勝てなかった。コラムニストのジョージ・ウィルはこのことを1964年選挙から引き続く影響として「票を数えるのに16年間を要し、ゴールドウォーターが勝った」と表現した。
この選挙では以下のような記録があった。
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