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大浦天主堂


大浦天主堂


大浦天主堂(おおうら てんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である。江戸時代幕末の開国後、1864年(元治元年)に竣工した。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。正式名は日本二十六聖殉教者聖堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。

1953年(昭和28年)、国宝に指定された。また、2007年(平成19年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まり、2018年(平成30年)に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つである。2016年(平成28年)に日本初の小バシリカに指定された。

信仰の場であるとともに観光地でもあり、拝観は有料である。大人600円、2018年4月1日からは「キリシタン博物館」開設に伴い1000円となる。

観光客の増加に伴い、1975年(昭和50年)に、天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が建てられ、毎日のミサは大浦教会で行われている。

歴史

  • 1862年(文久2年)
    • 12月 - フランスのパリ外国宣教会宣教師で日本教区長のジラール神父の命により、横浜にいたフランス人司祭(神父)フューレが長崎に赴任。司祭館と教会堂の建築準備に着手。
    • 西坂の丘 - 1597年2月5日(慶長元年12月19日)に殉教した26名(日本二十六聖人)が、この年にローマ教皇ピオ9世により列聖される。
  • 1863年(文久3年)8月 - プティジャン神父(後に司教)が長崎に着任。フューレを補助し、天主堂建設に尽力。
  • 1864年(元治元年)12月29日、大浦天主堂が竣工。
  • 1865年(元治2年)
    • 2月19日(1月24日)- 献堂式を挙行。二十六聖殉教者堂と命名。大浦天主堂は日仏修好通商条約に基づき、フランス人の礼拝堂として建設され、教区長ジラールが宣教師プティジャン、ロカーニュを従え、献堂式を執り行った。献堂式には居留外国人を含め、長崎港に停泊中のフランス、ロシア、イギリス、オランダの艦長がそれぞれカトリック信者の水兵数名を従え参列した。建築設計はフューレ、プティジャンの2名によるもの。建築施工は天草御領島出身の小山秀之進(秀)が大工棟梁として施工。建築様式は3本の塔を持つゴシック風の構造ながら、正面中央の壁面はバロック風で、外壁はなまこ壁という特殊な意匠であった。
    • 3月17日(2月12日)- 浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗る(信徒発見)。
  • 1868年7月26日(慶応4年6月7日) - フランス人神父ド・ロがペルーズ号で来航し、大浦天主堂に入る。ド・ロ神父は大浦天主堂で「教会暦」、「聖教日課」を石版印刷した(これは日本初の石版印刷である)。
  • 1875年(明治8年) - 1879年(明治12年) - 天主堂の大規模な増改築を実施。
    • 外壁を煉瓦造にあらため完全にゴシック風の建物になるなど、創建当時の外観から大きくその姿を変えた。木造だった創建時に対し、1879年(明治12年)5月22日に献堂された新教会堂は九州初の煉瓦造構造となった。
  • 1891年(明治24年) - カトリック長崎司教区(現・カトリック長崎大司教区)の司教座聖堂
  • 1933年(昭和8年)1月23日 - 当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝:現行法の重要文化財に相当)に指定。
  • 1945年(昭和20年)8月9日 - 長崎市への原爆投下によって破損したが、爆心地から比較的離れていたため倒壊・焼失は免れる。
  • 1952年(昭和27年) - 修理が完了。
  • 1953年(昭和28年)3月31日 - 文化財保護法に基づき国宝に指定された(洋風建築としては初の国宝指定)。
  • 1962年(昭和37年)
    • 1月1日 - カトリック長崎大司教区の司教座聖堂が浦上教会に変更される。
    • 6月8日 - 日本二十六聖人列聖記念100年祭のミサが執り行われる。
    • 6月10日 - 西坂公園で記念式典を挙行。国内外よりカトリック信徒約1万人が参列。
  • 1965年(昭和40年)
    • 2月21日 - 大浦天主堂創建100周年記念式典を挙行。
    • 3月16日 - キリスト信者発見100周年記念祭が開催。信者発見記念碑「聖母像」の除幕式を挙行。
    • 3月17日 - ローマ教皇特使マレラ枢機卿が長崎を訪れ、大浦天主堂で荘厳ミサが執り行われる。
  • 1975年(昭和50年)11月3日 - 新築のカトリック大浦教会が完成。
    • 大浦天主堂を訪れる観光客数が増加したため、ミサの最中に観光客が見物に入るなど、天主堂内での典礼の進行に支障をきたすようになってきていた。そこでカトリック信者および観光客双方に配慮し、大浦天主堂に隣接する土地に新たに大浦教会を建設。これによって観光客が信者に気兼ねなく大浦天主堂を見物しやすくなった。
  • 2007年(平成19年) - 建立当初の設計図(平面図と側面図)がパリ外国宣教会本部古文書局の保管資料から発見される。
    • 発見者 - 林一馬(長崎総合科学大学教授)
    • 設計図では、屋根は瓦ぶき、窓は洋風で、会堂や廊下などの列柱の位置は現在と同じであった。
  • 2016年(平成28年)- 教皇庁典礼秘跡省長官ロベール・サラ枢機卿による4月26日付公式文書により、日本初の小バシリカとなる。
  • 2018年(平成30年)- バーレーンのマナマで開催された第42回世界遺産委員会で世界遺産リストへの記載が決定した。

信徒の発見と大浦天主堂

建立まもない天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさと物珍しさから付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には「今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないか」という僅かな期待があった。

1865年3月17日(元治2年2月12日)、浦上(長崎市)の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの40~50歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、「私どもは神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです)と囁き、自分たちがカトリック教徒であることを告白した (この女性の名は、イザベリナ杉本百合だったと言われている)。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた。

その後、プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教を兼ねて訪れ、隠れた信者の発見に努めた。浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかった。この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだという。この日は現在カトリック教会では任意の記念日(祝日)となっている。

所在地

〒850-0931 長崎県長崎市南山手町5-3

交通

  • 長崎電気軌道5号系統 「大浦天主堂」電停下車 徒歩5分
  • 長崎バス「松ヶ枝国際ターミナル」バス停(2022年10月1日「グラバー園入口」から停留所名称変更)下車 徒歩5分

坂道を上った後、券売所からさらに石段を上ることになる。駐車場はない。

周辺

  • 旧羅典神学校
  • 旧長崎大司教館
  • 南山手
    • グラバー園
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脚注

注釈

出典

関連項目

  • 国宝一覧
  • カトリック長崎大司教区
  • 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
  • カトリック浦上教会(浦上天主堂)
  • 厳島神社

外部リンク

  • 大浦天主堂
  • 「日本二十六聖人列聖100年記念式典」1962年6月10日

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 大浦天主堂 by Wikipedia (Historical)