以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1926年のできごとを記す。
1926年4月13日に開幕し10月10日に全日程を終え、ナショナルリーグはセントルイス・カージナルスがリーグ加盟後初の優勝を飾り、アメリカンリーグはニューヨーク・ヤンキースが3年ぶり4度目のリーグ優勝をした。そしてワールドシリーズは初出場のセントルイス・カージナルスが4勝3敗でヤンキースを破り、シリーズ初制覇となった。
1925年のメジャーリーグベースボール - 1926年のメジャーリーグベースボール - 1927年のメジャーリーグベースボール
ナショナルリーグは、ジャイアンツが5位に落ち、カージナルスの初優勝となった。この年に移籍してきたビリー・サウスワース、テイラー・ドゥーシット、ブレイズの外野手が揃って3割を打ち、投手陣ではシーズン途中カブスから移籍してきたピート・アレクサンダーがカージナルスでは9勝止まりであったが、前年に同じカブスから移籍してこの年にレギュラーとなったボブ・オファレル捕手がけん引してリーグMVPを獲得し、アレクサンダー投手はワールドシリーズで2勝を上げた。前年ブランチ・リッキーがカージナルスの監督を降り、ロジャース・ホーンスビーが選手兼監督となって、翌年にカージナルスはチーム優勝を果たした。しかしシーズン終了後に三冠王に2度、4割打者に3度輝いたロジャース・ホーンスビーは球団から思いもかけぬ話を聞くこととなった。
一方アメリカンリーグは、リーグ3連覇の後に2年連続でセネタースにペナントを奪われたヤンキースが盛り返した。この年にメジャーデビューとなったトニー・ラゼリ二塁手、マーク・ケーニッグ遊撃手が入団して二遊間を固め、前年6月にレギュラー入りしたルー・ゲーリッグ一塁手、これも前年に中堅に定着したアール・コームス、前年に本塁打王と打点王を獲得したボブ・ミューゼルらがいて、これにベーブ・ルースが揃って、マーダラース・ロウ(殺人打線)が完成しつつあった。投手陣もウェイト・ホイト、ハーブ・ペノックの両輪に当時スピットボールの投球が認められていたアーバン・ショッカーがいて、この年からリーグ3連覇し、翌1927年と次の1928年にワールドシリーズを連覇して、ヤンキースの第1期黄金時代の始まりであった。
ワールドシリーズでは、カージナルスがピート・アレクサンダーとナックルボーラーのジェシー・ヘインズがそれぞれ2勝する活躍もあり、カージナルスが勝った。以後、ヤンキースの黄金時代が長く続いたため目立たないが、カージナルスはナショナルリーグでリーグ優勝19回(史上3位)、ワールドシリーズ優勝は11回を数えてヤンキースに続く史上2位である。
ナショナルリーグで5位に終わったニューヨーク・ジャイアンツは、ジョン・マグロー監督とフランキー・フリッシュとの確執が大きく影響して、1903年以降では2回目の勝率5割に達せず、散々なシーズンとなった。シーズン終了後にマグローはチームの中心バッターであったフリッシュの放出を決意した。
一方この年のシーズン終了後、カージナルスのホーンスビーは球団に年5万ドルの3年契約を求めた。しかしカージナルスのオーナーのサム・ブレッドンはそれを認めず1年契約で平行線となった。そして12月になってニューヨーク・ジャイアンツのフランキー・フリッシュ、ジミー・リングとの交換トレードでホーンスビーはニューヨーク・ジャイアンツに移籍することになった。セントルイスのファンは大騒ぎして大反対したが、結局このトレードは成立した。
1920年代前半にセントルイスにはナショナルリーグのカージナルスにロジャース・ホーンスビーが、アメリカンリーグのブラウンズにジョージ・シスラーがいて、どの都市にも見られない同じフランチャイズでの打者としての争いが繰り広げられ、どちらも4割を打ち、ホーンスビーは三冠王を獲得し、シスラーはシーズン最多安打記録257本を1920年に達成してレベルの高い記録を残していた(この記録は2004年にイチローが破った)。
しかしこの交換トレードは結果としてセントルイス・カージナルスにプラスとなった。
シーズン終了後の11月2日にデトロイト・タイガースのフランク・ナヴィン球団社長が選手兼監督のタイ・カッブの監督解任を発表した。1ヶ月後の12月2日にクリーブランド・インディアンスのトリス・スピーカーも監督を解任された。そして12月21日にMLBコミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディス判事が、1919年のタイガース対インディアンスのゲームで八百長があったとの告発を受けて、トリス・スピーカー、タイ・カッブ、そしてクリーブランド・インディアンスの元投手スモーキー・ジョー・ウッドの3名を極秘裏に審問していることを発表した。これにより、突然の解任劇は八百長疑惑に対する処分であることが判明した。
デトロイト・タイガースの元投手ダッチ・レナードの告発がその発端であったが、しかしその告発の内容が不自然であることがすぐに明らかとなり、翌年1月にランディス判事はトリス・スピーカー、タイ・カッブに無罪の裁定を下し、黒幕とされたアメリカンリーグ会長バン・ジョンソンは辞任に追い込まれた。
ニューヨーク・ジャイアンツにこの年初めに17歳という異例の若さでルーキーが一人入団してきた。右投げ左打ちのその若者は捕手として入団テストを受けた時に、マグロー監督は体が小さいので契約するつもりはなかったのだが、バッティング練習を見て、急に契約する気になったという。両足を大きく広げて構え、左打者なのでピッチャーが投球動作に入ると右足をヒザの高さまで上げて、球を打つ寸前には右足を地面に付けて打つその特異な打法に、マグローは注目して「将来の大物に育てよう」と決心したという。その若者は外野手に転向して入団3年目の1928年に打率.322・本塁打18本でレギュラー入りした。以後1945年にナショナルリーグで最初の通算500本の本塁打を打ち、引退時点で通算511本を打ち、その間に本塁打王を6回獲得したこの若者の名前はメル・オット。これより33年後に日本の読売ジャイアンツに王貞治が入団したが、この二人に共通点があり、どちらもジャイアンツ一筋の選手生活であったこと、どちらもジャイアンツの監督になったこと、そしてどちらも一本足打法で本塁打王になったことである。
シーズンMVP
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