豊後国(ぶんごのくに、7世紀末 - 1872年)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の大分県に属する。
明治維新直前の領域は、現在の大分県から下記を除いた区域に相当する。
古墳時代には国東半島中心とした地域に国前国造、大分郡を中心とした地域に大分国造、日田郡を中心とした地域に比多国造が設置された。
飛鳥時代の大化の改新のあとの701年に律令制(大宝律令)が施行され、九州全体は西海道の一部になり、それまでの豊国(とよのくに)が分割され、豊後国と豊前国が設けられた。
また8世紀前半の編纂とされている『豊後国風土記』は、全国で5つだけのほぼ完全な形で残る風土記の1つである。
豊後国は、平安時代まで和名で「とよ くにの みちのしり」と読んだ。
平安時代末期の1185年、治承・寿永の乱(源平合戦)で平家が滅びた後、源頼朝は親平家方であった九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の大友氏を守護として九州に送り込んだ。豊後国では大友御紋衆の一萬田氏や大友の下り衆が次第に勢力を強め、国衆であった丹部氏、漆嶋氏、宇佐氏、大神氏、清原氏、藤原氏、阿南氏、稙田氏、大野氏、臼杵氏、緒方氏、賀来氏、佐伯氏、橋爪氏、徳丸氏など在地武家を抑え込んだ。
鎌倉時代から室町時代も大友氏が守護であり、戦国時代から安土桃山時代にかけては争いごとも盛んに起きた。
21代目大友宗麟の時代には、ポルトガルやカンボジアとの交易も拡大した。
1803年に唐橋世済他が編纂した『豊後国志』に当時の豊後国に関する趨勢統計や史跡史実が纏められている。
国府は大分郡にあった。現在の大分市古国府と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
二宮以下は不詳である。
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