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ホーナス・ワグナー


ホーナス・ワグナー


“ホーナス”ヨハネス・ピーター・ワグナー (Johannes Peter "Honus" Wagner、1874年2月24日 - 1955年12月6日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身のプロ野球選手(遊撃手)。

「フライング・ダッチマン」の愛称を持ち、史上最高の遊撃手との声も高い。この愛称は、ワグナーがペンシルベニア・ダッチ(ペンシルベニア州のドイツ系移民)の家系出身であることと、同姓の作曲家リヒャルト・ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」の英語訳題名に由来している。

経歴

プロ入り前

1874年、ドイツからアメリカへ移住してきた父ピーターと母キャサリンの元に生まれる。9人兄弟だったワグナーは炭坑夫だった父や兄達の仕事を手伝うために、12歳で退学したものの、仕事の休み時間に、空き地で兄弟たちと野球をして遊びながら技術を磨いていった。3歳年上の兄、バッツ・ワグナーと共に1895年にマイナーリーグデビュー。

プロ入りとカーネルズ時代

2年間のマイナーリーグを経て、1897年にルイビル・カーネルズよりメジャーリーグデビュー。2年目の1898年からレギュラーを獲得し、10本塁打105打点を記録。3年目には打率リーグ10位となる.341、リーグ4位の118打点でカーネルズの中心選手になるも、チームは低迷。翌年からのナショナルリーグチーム削減に備えたオーナーバーニー・ドレイファスはピッツバーグ・パイレーツを買収し、ワグナーや後に殿堂入り投手となるルーブ・ワッデル、選手兼任監督フレッド・クラークなどカーネルズの主力をパイレーツに移籍させ、カーネルズは消滅した。

パイレーツ時代

パイレーツ1年目となる1900年に才能が開花し、自身初タイトルとなる首位打者をはじめ、最高長打率・最多二塁打・最多三塁打を獲得。前年度7位だったパイレーツを一気に2位に浮上させる立役者となった。1901年は打点王・盗塁王の2冠に輝き、チーム創設20年目にして初のリーグ優勝に導いた。1902年も打点王・盗塁王に加え、得点王になり、チームのリーグ2連覇に大きく貢献した。1903年は2度目となる首位打者を獲得し、リーグ3連覇も達成したが、第1回ワールドシリーズで当時リーグ屈指の投手サイ・ヤング擁するボストン・アメリカンズに打率.222と完全に抑え込まれチームも敗北する。1904年、ワグナーは首位打者・最高出塁率・長打率1位・盗塁王と大活躍するも、チームは4位で4連覇を逃した。1905年にはプロスポーツ選手とスポーツ用品メーカーとの最初の契約例として、ルイヴィル・スラッガーバットの使用を開始する。

1906年は4度目となる首位打者を獲得、1907年は再び首位打者・最高出塁率・長打率1位・盗塁王の大活躍をしたが、黄金期のシカゴ・カブスに敗れリーグ2位に終わる。1908年は前年を上回る活躍を見せ、首位打者・最高出塁率・長打率1位・最多安打・盗塁王を獲得したが、2年連続でカブスに屈しリーグ2位に終わった。1909年もワグナーはリーグ最高の成績となる首位打者・最高出塁率・長打率1位・打点王を獲得し、6年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。ワールドシリーズではアメリカンリーグで打撃四冠に輝いたタイ・カッブ擁するリーグ3連覇中のデトロイト・タイガースとの対戦になり、ナショナルリーグ最高選手ワグナーとアメリカンリーグ最高選手カッブの対決は大いに注目を集めた。

ワグナーは打率.333、6打点、ワールドシリーズ新記録となる6盗塁を記録し、パイレーツ初の世界一に大きく貢献した。タイガースは最終戦まで食い下がったが最後は力尽き、0-8で敗北。カッブは打率.222とパイレーツに抑え込まれ、快足も活かせず2盗塁に終わった。

1910年は最多安打を獲得、1911年は自身8度目となる首位打者を獲得した。1914年には史上2人目となる3000安打を達成、すでに500盗塁も達成済みだったので史上初の3000安打500盗塁も同時に達成することとなった。40歳を過ぎても攻守に衰えを見せることなくプレーし、1917年に引退した。

首位打者を歴代2位となる8回、打点王を歴代4位タイとなる5回獲得し、盗塁王にも5回輝く。歴代8位の通算3420安打を記録し、遊撃手安打記録として長く維持されてきたが、2014年にデレク・ジーターが更新した。

引退後

引退後は荒んだ生活を送っていたといい、アルコール依存症に陥っていたとされる。これを見かねた古巣パイレーツは1933年にワグナーを打撃コーチとして現場復帰させており、人生の後半は後進の指導に力を注ぐことになった。打撃コーチとしてもワグナーは優れており、後に殿堂入りする選手でアーキー・ヴォーン、ラルフ・カイナー、パイ・トレイナー、ハンク・グリーンバーグを指導している。その一方でコーチ就任後も酒飲みは変わらず、後年ラルフ・カイナーは回顧録でワグナーのはしご酒を振り返り、「(ワグナーは)一つの店で飲んだら、次はまた別の店と渡り鳥のように酒を飲んでいたが、見ていて何とも悲しかった」と記している。

1936年、アメリカ野球殿堂開設時の最初の殿堂入り選手の5人の中の1人となる。

その後もコーチとして古巣パイレーツに長く携わったが、1951年を最後に高齢のためパイレーツのコーチを退任し、その翌1952年にピッツバーグ・パイレーツで初の永久欠番としてワグナーの背番号『33』が指定された。ワグナーの現役時代は背番号がなく、この背番号はワグナーが打撃コーチとしてパイレーツに現場復帰したときにつけていた背番号である。

コーチを退任した4年後の1955年、ペンシルベニア州カーネギーで死去。81歳の長寿だった。

逸話

現役当時のワグナーのベースボールカードがオークション等で高値で取引されることでも有名。これは1909年、あるタバコ会社が自社製品に封入したベースボールカードで、直後に非喫煙者のワグナーが回収・廃棄を命じたために流通数が圧倒的に少ないためである。2007年2月28日には、オークションで235万ドル(約2億8500万円)で売買されており、最も高額で取引されたベースボールカードとしてギネス世界記録に認定された。アメリカのTVドラマ「プリズン・ブレイク」でも、ワグナーのベースボールカード(時価30万ドル)を窃盗して収監される人物が登場する。

また、ある試合で、史上最高の選手と評する人もいるワグナーとの対戦を控え、若い投手が監督に「ワグナーを抑えるにはどうすればいいでしょう?」と聞いた。これに対し監督は、 「簡単だ。いいか若いの、真ん中に投げて、後はすぐさま神に祈れ」と返した逸話があり、抑えることの難しい強打者の攻略法の際にしばしばジョークで借用されることがある。

詳細情報

年度別打撃成績

タイトル

  • 首位打者: 8回、1900年、1903年、1904年、1906年、1907年、1908年、1909年、1911年
  • 打点王: 5回、1901年、1902年、1908年、1909年、1912年
  • 盗塁王: 5回、1901年、1902年1904年、1907年、1908年

記録

  • 最高出塁率:4回
  • 長打率1位:6回 (歴代7位)
  • OPS1位:8回 (歴代6位)
  • 最多安打:2回
  • メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム選出(1999年)
  • 通算安打数:3420(歴代8位)
  • 通算二塁打数:643(歴代9位)
  • 通算三塁打数:252(歴代3位)
  • 通算盗塁:723(歴代10位)

脚注

関連項目

  • メジャーリーグベースボールの選手一覧 W

外部リンク

  • Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: ホーナス・ワグナー by Wikipedia (Historical)



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