RCサクセション(アール・シー・サクセション、RC SUCCESSION)は、忌野清志郎を中心として結成された日本のロックバンド。
「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど「日本語ロック」の成立、現在日本で普通に見られるロック・コンサート、ライブ・パフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。
1991年より無期限活動休止状態に入ったまま復活することはなく、2009年に忌野が死去したことにより、事実上バンドは解散となった。
忌野清志郎公式HP「地味変」のUNITのページでは
以上4つの形態が紹介されている。
エレキ化以降のレコーディング、コンサートでは、ホーンセクションとして梅津和時と片山広明ら(時期によって他のメンバーが入ることもあった)が「ブルーデイ・ホーンズ」(当初は「生活向上委員会」)のユニット名で参加。
基本的に忌野が作詞・作曲した楽曲をバンドでアレンジして演奏、レコーディング。自作・自演・アレンジまでするスタイルは現代でこそ珍しくないが、1970年代初期ではまだ異例だった。忌野1人による制作曲のほか、時期によっては仲井戸、小林、Gee2woとそれぞれ共作もしている。
音楽性、歌詞の世界観などは「忌野清志郎」の頁を参照。
アルバム『BLUE』以降、仲井戸が作詞・作曲・ボーカルをとった曲が1枚のアルバムに1曲以上収録。
1966年、ピーター・ポール&マリーやジョーン・バエズらの影響を受け、中学の同級生だった忌野・小林・破廉の3人でフォークグループ「ザ・クローバー(The Clover)」を結成。
1967年、高校進学によりザ・クローバー解散。忌野と小林は、上級生の武田清一(のちに「日暮し」でデビュー)を迎え「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー(The Remainders of the Clover・「クローバーの残党」の意)を結成。初めてギャラを受け取る仕事をする。
1968年、「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」が自然消滅した後、破廉がバンドに戻りバンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション(The Remainders of the Clover succession(「クローバーからの継続」の意)」の省略形から「RCサクセション」と命名。
学校の文化祭でいつもの友達だけが来るのが嫌で、「もっと多くの人たちに自分たちの音楽を知らせたい」と、1969年、テレビ番組『ヤング720』(TBS系)のオーディションに挑戦し合格。続いて8月29日、東芝主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションで第3位。この模様を収録したオムニバス盤が初めての公式音源となる。収録曲は「泥だらけの海」。ここで東芝音工(現EMIミュージック・ジャパン)にスカウトされる。当時の東芝音工はフォーク&ロックのジャンルをほぼ独占していた。
1970年3月、「宝くじは買わない」で東芝音工よりシングル・デビュー。
1971年、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で当時フォーク・グループ、古井戸として活動していた仲井戸麗市と出会う。
1972年、ラジオ番組『ハローパーティー』や『バイタリス・フォーク・ビレッジ』などへの出演を始める。3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。
1974年、当時のマネージャー奥田義行が事務所 (ホリプロ)に造反、独立してプロダクション「りぼん」を設立。RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干される。
1976年、ホリプロから「りぼん」へ移籍。レコード会社はキティ/ポリドールに移籍。前年既に制作済だった3rdアルバム『シングル・マン』がようやくリリースされるも、1年後に廃盤。破廉は精神状態が不安定になり、ギターが弾けなくなる。1976年10月11日リリースのシングル「わかってもらえるさ」以降、1979年6月25日の日仏会館でのコンサートまで活動停止。
1977年、破廉が正式脱退。
1978年、仲井戸、春日がメンバーとして参加、フォーク形態からロック/R&B形態へバージョンアップされる(当時、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。さらに、新井田が正式に加入、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成。忌野は髪を短く切り逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。
1979年、春日に代わり小川が加入。仲井戸が正式メンバーとなる。Gee2woがサポート参加。RCはそのライブ・パフォーマンスが評判となり、マスコミで度々取り上げられる。ジョニー、ルイス&チャーの前座として初めて日本武道館のステージに立つ。
音楽評論家の吉見佑子らが3rdアルバム『シングル・マン』の再発売を懇願するため「シングルマン再発実行委員会」を発足。ポリドールとの折衝が繰り返された結果、自主制作で300枚限定で異例の再発売が決定。当初は国立の「レコード・プラント」、青山の「パイドパイパー・ハウス」の2店のみでの販売。
1980年、「雨あがりの夜空に」発売記念として渋谷のライブハウス「屋根裏」で4日連続のコンサートを開催。のべ800人の観客を動員、同ライブハウスの動員記録を打ち立てる。渋谷公会堂でのシーナ&ザ・ロケッツ、BOWWOWとのジョイント・コンサートも約2000人の観客動員を達成、RC人気に火が点く。「シングル・マン」が正式に再発売。
エレキ化後のデビュー盤となる「RHAPSODY」をリリース、半年以上のロングランヒット。このアルバムは、1980年4月、東京・久保講堂におけるコンサートの実況録音盤。このコンサートを最後に、小川が脱退。代わって、それまでサポートメンバーとして参加していたGee2woが正式メンバーとなる。
同年10月には日比谷野音で「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」の再結成ライブで、11月一橋大学の学園祭ライブでは平沢進が率いたニューウェイブ・テクノポップバンド「P-MODEL」と、対バンコンサートを行う。
1981年、初の日本武道館単独公演。その後10年連続で武道館クリスマスコンサートを行う。この年は年間100本近いコンサートを行う。
1982年、忌野が坂本龍一(当時イエロー・マジック・オーケストラ)と組んで発表したシングル「い・け・な・いルージュマジック」が資生堂82年春のキャンペーンソングとしてヒット。MVでは、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど過激なパフォーマンスを展開、時代を席巻。RCとして同年、サム・ムーア、チャック・ベリーらとのジョイント・コンサートを横浜スタジアムにて開催(アルバム『THE DAY OF R&B』収録)。ロンドンレコードに移籍。自身のレーベル「BARCA」設立。
1985年、事務所「りぼん」から独立。個人事務所「うむ」設立。西武劇場(現・PARCO劇場)で独立記念コンサート「スーパーエイプリルフール」開催(泉谷しげる、坂本龍一、矢野顕子、三浦友和らがゲスト参加)。
1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラヴ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止。同シングル・アルバムは、古巣のキティレコード(現・ユニバーサルミュージック)から発売、RCとして初のオリコンアルバムチャート1位を獲得。
1989年、HARD TIMES LIVEツアーはリリースされていない新曲中心という異例の構成で行われる。レコード会社に対する不満からステージ上で「録音自由化」を宣言。
1990年、Gee2wo・新井田が相次いで脱退。現段階でのラスト・アルバム『Baby a Go Go』をリリース。続くツアーは札幌、仙台、福岡、名古屋、大阪および日本武道館のみ開催。翌1991年のツアーはすべてキャンセル。
1991年1月、無期限活動休止に入る。
2009年5月、忌野清志郎、死去。
使用楽器、バンド編成はアコースティック(フォーク)ながら、ヘヴィ・ゲージの弦を張ったギターを叩くようにかき鳴らして発せられる楽曲は、コード進行やハーモニー、スリリングなギターソロなどすでにR&B、ロックに近いものだった。
活動拠点としていた「青い森」「渋谷ジァン・ジァン」などのライヴハウスで、古井戸、泉谷しげるらと親交を深める。泉谷は当時のRCを「RCは凄まじかったね。アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。
すでにこの時期のセットリストには、「ファンからの贈り物」「ダーリン・ミシン」「うわの空」「マリコ」「君が僕を知ってる」「お墓」等、後年レコーディングされた曲のタイトルが見られる。
デビュー・シングル「宝くじは買わない」は、当時のマネージャーであった金田が連れてきた伊勢田トリオというグループをバックに演奏したが、最終的にレコードになったときにはスタジオミュージシャンのテイクが使われた。
1stアルバム『初期のRCサクセション』は、最終的なマスタリング作業にメンバーが立ち会わせて貰えず、完成したレコードの音源に自分たちの意図しない勝手なアレンジが施されていたために不満を感じる。そのため2ndからは自分たちの演奏を主体としたレコード作りを始め、後年まで外部プロデューサーの介入を避けるようになる。
1970年代初期の未発表ライブ音源が『ロック画報2002年第10号』の付録CDに収録。曲は「つまらない仕事」「ぼくとあの娘」「忙しすぎたから」「内気な性格」「もっと何とかならないの?」「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」6曲。選曲は清志郎が行い、マスタリングに清志郎と破廉が立ち会った。
忌野の高校の同級生である俳優の三浦友和は、『初期のRCサクセション』に収録の「言論の自由」にボンゴで参加。三浦はステージによく加わることがあり、また一時期破廉と同居するなどかなりRCと親交が深かった。
忌野が作詞・作曲した「指輪をはめたい」を元にして、井上陽水と「帰れない二人」を共作。もう1曲「待ちぼうけ」を共作、この2曲が収録された陽水のアルバム『氷の世界』(1973年) が日本音楽史上初のミリオンセラーLPとなる。
1974年、ホリプロの奥田義行が、当時大ブレイク中だった陽水を連れホリプロを離れ、独立事務所「りぼん」を設立。この造反行為に激怒したホリプロは、奥田の子飼いだったRCの「りぼん」移籍を阻止。RCはスタッフも仕事も与えられず飼い殺し状態となる。
この頃、3rdアルバム『シングル・マン』を録音するも、事務所の移籍トラブルによりお蔵入りになる。
1975年、仕事がほとんどなくなり、活動休止状態になる。
1976年、ホリプロとの契約が切れ、正式に「りぼん」に移籍。
レコード会社を東芝音工からポリドールに移籍、3年1ヵ月振りのシングル「スローバラード」、3年4ヵ月振りの3rdアルバム『シングル・マン』をリリース。
更にキティレーベル(後のキティレコード)に移籍、シングル「わかってもらえるさ」を発売するが、すぐにそれらは廃盤となる。
『シングル・マン』には契約上クレジットされなかったが、タワー・オブ・パワーやミッキー吉野、柴田義也らが参加。「わかってもらえるさ」ではメンバーに破廉がクレジットされているものの、破廉は極度の鬱状態でギターが弾けず、ギターはすべて忌野が弾いた。
上記のゲストミュージシャンを記載できなかったため「このレコードは世界的ミュージシャンが豊富に使用されておりますので安心してご利用ください」と書かれている。
ジャケットに使われているイラストは幼児児童絵画統覚検査図版(金子出版)のもの。元本は忌野が探してきた。ジャケットに描かれているRCサクセションのロゴも忌野がデザイン。
5万円で買った忌野の愛車日産・サニークーペが廃車となる。井上陽水のアルバム「氷の世界」に提供した2曲の印税で買ったと言われる。その愛車をモデルに、この頃「雨あがりの夜空に」の歌詞が書かれた。
その後も忌野は2台続け中古のサニークーペを購入。当時一番安い中古車だったからである。
当時、唯一の活動と言ってもよかったのが矢沢永吉、井上陽水等の前座であったが、メインアクト目当てで来ている観客からは「クソッタレ」「早く消えろ」等の罵声を浴びせられることが少なくなかった。矢沢永吉の前座で出演した際にはRCが登場するやいなや観客から「帰れ」コールが浴びせられた。忌野が客をからかって「矢沢B吉でーす。永ちゃんはいま楽屋でクソしてるんで僕らがやりまーす」と発言。客席は大混乱となり、演奏中絶えず「死ね」など怒号のような野次を喰らう。
破廉ケンチ脱退(実際は破廉の鬱症状があまりにも酷く、それが原因でエレキギターが弾けない事を見かねた忌野がクビにした)。
1978年頃から当時古井戸の仲井戸麗市、カルメン・マキ&OZの春日博文をサポートギタリストに迎え渋谷のライブハウス「屋根裏」を中心に活動。若年層を中心に絶大な支持を得てライブは連日連夜満員となる。同時期にドラマーの新井田耕造が加入。
当時の忌野は「シングル・マン」以降の暗黒期に行き詰まり複雑なコード進行の曲ばかり作ってしまう悪循環に陥っていた反省から、シンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つローリング・ストーンズの楽曲研究を重ねた。この頃、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンに影響を受け、それまで長くしていた髪を切り落とす。ステージでは髪の毛を立てたり奇抜なメイクを施すようになった。
1979年7月21日、2年8ヵ月振りのシングル「ステップ!」を発売。しかしこのシングルも、まだメンバーの演奏力を信用しきれていなかった制作担当者により、スタジオ・ミュージシャンのテイクが採用されている。8月、「NTV紅白歌のベストテン」に出演。音楽評論家の吉見佑子が音頭を取って「シングル・マン」再発実行委員会が発足。深夜ラジオでの放送が増える。積極的にステージを求め、各地の大学祭に多数出演。11月16日、久保講堂で行われた古井戸の解散コンサートで仲井戸麗市のRC正式加入が発表される。
1980年1月21日「雨あがりの夜空に」発売。発売記念コンサートを渋谷屋根裏で4日間開催、連日満員で屋根裏の観客動員記録を塗り替え話題となる。4月久保講堂で「RHAPSODY」録音。5月シングル「ボスしけてるぜ」、6月アルバム「RHAPSODY」、10月シングル「トランジスタ・ラジオ」、12月アルバム「PLEASE」と立て続けにレコードを発売。
パンク・ロック的なスピード感とR&Bに影響を受けた楽曲、グラムロックやミック・ジャガーを彷彿させるドギツいメイクでのステージが話題になる。忌野がオーティス・レディングの言葉を日本語にしてステージ上で観客へ呼びかけた「愛しあってるかい?」というフレーズは一世を風靡。
「清志郎ルック」の髪型やメイク、ファッションを身にまとった若者が出現するに至って、音楽誌のみならず『アサヒグラフ』や『an・an』、『宝島』、各新聞などでも取り上げられ、サブカルチャー的存在として社会現象とまでなる。1980年7月20日付の朝日新聞の社説では、「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬時にして知ることができる」とまで評される。
アルバム『RHAPSODY』リリース後、バンド名を変えようという話もあったが、「いちおうこれだけ続いたバンド名なんだから」という理由で却下される。
レコードを連発、コンサートも満員の人気バンドでありながら、忌野は杉並区の風呂無しアパートに住んでいた。81年に引越後、入居したのが三宅伸治である。
関川誠編集長のもと、パンク、ニュー・ウェーブ系の音楽雑誌となっていた雑誌『宝島』で、日本のロック・バンドのシンボル的存在として何度も取り上げられる。特に忌野は「ロック少年・ロック少女たちのカリスマ的存在」となり、漫画等にも忌野をモデルとしたと思われるキャラクターが描かれるようになる。
1982年、ロンドン・レコードに移籍。
シングル「サマーツアー」がヒット。6月14日、フジテレビ系生放送番組「夜のヒットスタジオ」に出演し同曲を演奏した際、清志郎が曲の最中画面狭しと暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことからテレビ局に「ふざけるな」など抗議の電話が殺到。その数は500本近くに上ったと言われている。
8月5日、TBS系テレビ「ザ・ベストテン」に8位でランクインし、出演。
1983年のアルバム『OK』で、RC初の海外(ハワイ)録音を行う。飛行機嫌い、海外嫌いだった仲井戸が初めて海外に行った。感想は「けっこういいとこだったよ。外には出なかったけど。」
この頃より、忌野の体調が最悪の状態になる。喫煙、ジャンクフード、ドラッグ漬けの生活といった長年の不摂生、コンサートとレコーディングに追われる過密スケジュール、風呂なし極貧アパートでの不衛生な生活という低待遇など無理が重なったためと思われ、検査の結果、医者に「君の肝臓は一生治らない」と宣告される。
1984年、ロンドン・レコード日本法人が成績不振のため解散、ロンドン・レコードはポリドール・レコードに吸収。RCは古巣の東芝EMIに復帰。
事務所が勝手にRCの原盤をNEWSレコードへ提供しベスト・アルバム『EPLP2』とコンピレーション・アルバム『MIX&MIXER』を発売。だが、それらの発売に関しRCに事前許可が取られていなかったこと、RCが嫌悪していたNEWSレコードから発売されたことに対しメンバーは激怒。当時NEWSレコードの幹部だった山本コウタローや松山千春をステージ上で猛烈批判。ファンに「(NEWSレコードから出た)アーティスト非公認盤を買わないように」と発言。
また、以前から燻ぶっていた事務所「りぼん」の営利第一主義的な経営姿勢に対する不信感、RCへの低待遇の不満に加え、これら杜撰な原盤管理に怒りが爆発。アルバム『FEEL SO BAD』の曲中で所属事務所とその社長を公然と批判、一時訴訟沙汰となる。
1985年、トラブルの末、「りぼん」から独立。個人事務所「うむ」設立。
治療を続けていた忌野の肝臓が東洋医学により奇跡的に回復、心身ともに充実するようになる。
仲井戸が初ソロ・アルバム『THE 仲井戸麗市 BOOK』を8月31日にリリース。
1987年2月、イギリスのパブ・ロック界の中心人物、イアン・デューリー率いるブロックヘッズのメンバーを中心に迎えた忌野の初ソロ・アルバム『RAZOR SHARP』がリリース。忌野は同メンバーを従え全国ツアーも行う。それに伴いRCの活動は一時休止状態となる(当初RCとしてイギリスレコーディングの話が持ち上がっていたが、忌野以外のメンバーが海外録音を拒否したためと言われる)。
1988年、反戦・反核をテーマにしたカバーアルバム『COVERS(カバーズ)』とシングル「ラヴ・ミー・テンダー」を制作するも、発売元の東芝EMIの親会社・東芝が原子力関連企業でもあったため、歌詞の内容が問題視され急遽発売中止。東芝EMIは全国紙(毎日新聞、朝日新聞、読売新聞) で「素晴しすぎて発売出来ません」との広告を打つ(これは忌野が東芝から「企業の倫理とかいうのがあってどうも…素晴らしすぎて出せない」と発売の中止を告げられたことを受け、「素晴らしすぎて出せないっていうんだったら、それを新聞に出してくれ」と言ったことによる)。急遽レコード会社を古巣のキティレコードに変え発売された本作は、話題性もありRC初のオリコンチャート1位を獲得。
アルバム『COVERS』の発売中止から2か月後の8月15日にコンサートを行い、この模様を収録したライブアルバム『コブラの悩み』を同年12月にリリース。演奏曲目はほとんどが怒りをストレートに表現したもので、「発売中止騒動の時のマスコミの対応」や「東芝」を痛烈に批判(このアルバムは東芝EMIからリリース)。
ライブ・アルバム『コブラの悩み』には、スタジオ録音である「君は Love Me Tender を聴いたか?」がアルバム・ラストに曲の冒頭部分のみ収録。この曲は、発禁問題を引き起こした「ラヴ・ミー・テンダー」に対するセルフ・アンサーソングであるが、核心部分を語ろうとする「あの歌は、反…」という歌詞のところで途切れ終わっている。1988年のクリスマス武道館コンサートではフルバージョンで披露。
内容は、「反原発ロック」などというレッテルを貼られた曲に対するシンパシーや、たかが一曲の歌ごときにレコード会社やマスコミなどの大企業が政治力まで使い圧力をかけてくることや左様に大騒ぎすることの愚かさ、日本の社会や報道機関の未熟さを皮肉った内容となっている。フルバージョンは忌野のラジオ番組で何度かオンエアされた事はあったものの、結局今日に至るまでCD化されていない。
1990年、メンバー間での話し合いの末、Gee2wo脱退(趣味のスキーに夢中になり過ぎ練習をすっぽかすことが度々あったこと、小林らとの音楽的志向性の違いがあったことなどが主要因と言われている)。
仲井戸が2ndソロ・アルバム『絵』をリリース。
『Baby a Go Go』の制作中、ミキサーのヘンリー・ハーシュ、デイヴィッド・ドマーニッチ、忌野が、曲によってドラマーを春日博文や外部のドラマーに変えたいという方針を打ち出したことに新井田が猛反発、RCを脱退。結果、RCは忌野、仲井戸、小林の3人編成となり、以降、ドラムには春日博文が、キーボードにはVOW WOWの厚見玲衣がそれぞれサポートで参加することになる。
現時点でのラストオリジナル・アルバム『Baby a Go Go』をリリース。ヘンリー・ハーシュら外国人プロデューサーを迎えアナログ制作にこだわり作られた本作は高い評価を得る。
1990年12月25日、日本武道館で最後のコンサートを開催、1991年1月に無期限活動休止。
活動休止以来RC名義の活動はないものの、忌野と仲井戸はライブでたびたびRC時代の楽曲を共演している。また、忌野のソロ・アルバムに仲井戸がゲスト参加したり、楽曲を共作したりしている。
2007年12月8日、日本武道館での『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ』に、忌野、仲井戸、新井田、厚見によるベースレスという変則的な形態で出演(名義は「忌野清志郎+仲井戸麗市」)。RCゆかりのメンバーのみで再集結し、圧倒的な演奏力で健在ぶりを見せ付けた。
2008年2月のライブ『忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館』にて忌野、仲井戸、新井田、厚見、梅津、片山らの共演が実現。メンバー紹介で忌野が新井田の名前を告げると日本武道館がひときわ大きな歓声に包まれた。
アルバム『EPLP』は、EP(シングル)盤で発売した曲を集めた編集盤。EPの曲を集めて作ったLP(アルバム)だから『EPLP』。これに関連し忌野は、音楽メディアがレコードからCDに切り替わった当時、「そのうち『ABCD』ってCDを誰か出すんじゃないか」と言っていたが、後年忌野はミニ・アルバム『abcd』をCDで発売。
アルバム『COVERS』以前からも忌野が書く歌詞は再三物議をかもしている。
曲に歌われた多摩蘭坂(実際の坂の名前は「たまらん坂」)は、東京都国立市と国分寺市の境にある実在する坂。RCファン・忌野ファンの聖地となっている。近くの大学生が通学時に上るときに「坂がきつくてたまらん!」と言ったことが地名の由来。以前は坂の途中の石垣にRCファンによって「清志郎」と書かれた落書きがあったが、現在は取り壊されマンションが建っている。忌野の実家がある国分寺市富士本は位置的にはJR中央線国立駅の北側にあたり、「たまらん坂」はJR中央線を挟んで反対側の西国分寺駅・国立駅間南側に位置する。
『PLEASE』収録の「あきれて物も言えない」は、RCの暗黒期に事務所のスタッフにハッパをかけようとして泉谷しげるが言った「清志郎はもうだめだよ、立ち直れねえよ」という言葉を人づてに歪曲して聞いた忌野が激怒して作った曲。歌詞の「どっかの山師が俺が死んでるって言ったってさ」の部分を、ライブでは足の不自由な泉谷のことをあからさまに侮蔑する歌詞に替えて歌っていた。
1990年、RC20周年記念で出版された『遊びじゃないんだっ!(マガジンハウス)』の表紙および帯には、「RCサクセションの40年・上巻」「下巻は2010年の発売です」と書かれていたが、ジョークだったのか下巻は2022年現在も発売されていない。
忌野のソロ・アルバム『夢助』に収録された「激しい雨」は、忌野と仲井戸の共作楽曲。歌詞の中で「RCサクセションが 聴こえる RCサクセションが 流れてる」と歌っている。仲井戸によると、ニール・ヤングがかつて在籍していたバンド バッファロー・スプリングフィールド について歌う「バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン」という曲に感銘を受け、ラジオから『RCサクセションが 聴こえる』という歌詞が、一発で忌野と分かる声で聞こえたら面白いのではないか、というきっかけで歌詞が作られたという。
その他の詳細エピソードについては、忌野清志郎の頁を参照。
初期(アコースティック時代)
中期(暗黒期)
後期(復活・ブレイク期〜終焉期)
RCサクセションとしての出演番組/イベントを記載。個人としての出演も多かった清志郎に関しては、別項忌野清志郎#出演を参照。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou