伊東 昭光(いとう あきみつ、1963年4月2日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・二軍監督。長男はサッカー選手の伊東駿多。
2014年から2015年まで東京ヤクルトスワローズの二軍監督を務め、現在は東京ヤクルトスワローズ編成部長。
ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。
中学時代リトルリーグの全日本のエースとしてアメリカに遠征。帝京高校2年春(1980年)の第52回選抜高等学校野球大会では決勝戦まで勝ち進み、決勝戦では中西清起がエースの高知商業と対戦するが敗北して準優勝に終わる。優勝候補に挙げられた夏の東東京大会は準決勝まで進むも、早稲田実業との準決勝で1年生エースの荒木大輔に3安打で完封され、0対4で敗れて甲子園への出場を逃した。試合後に「こんな姿で三年生を卒業させてしまうなんて、本当に申し訳なくて‥」と号泣した。タレントの石橋貴明は野球部の2年先輩である。
社会人野球は本田技研に在籍。1984年にエースとしてロサンゼルスオリンピック野球日本代表に参加し、金メダルを獲得する。1985年の日本選手権では本田技研の初優勝に貢献し、自身は4試合で完投し、防御率0.79の好成績を残し、MVPを獲得。
1985年のドラフト会議で阪急、ロッテ、ヤクルトの3球団から1位指名され、抽選の結果ヤクルトスワローズ入団へ至った。担当スカウトは片岡宏雄で、背番号は18。
1986年から一軍の先発ローテーションに入る。
1987年には、一軍公式戦でチームトップの14勝を挙げた。
1988年には、故障の高野光に代わってクローザーに抜擢されると、この年開場した東京ドームでの開幕戦で一軍初セーブを記録した。以降は、オール救援で18勝を挙げるとともに、オールスターゲームへ出場。シーズン終了時点で規定投球回数を下回っていたが、規定投球回数を上回った小野和幸(中日ドラゴンズ)と共に、セントラル・リーグ最多勝利のタイトルを獲得した。規定投球回数未到達で0先発の投手がこのタイトルを獲得するのは、同リーグ史上初めて。規定投球回数に到達した投手と未到達の投手が、同じタイトルを獲得することも異例であった。
1989年は先発へ復帰。自宅の階段で転倒して足を骨折した。
1990年も、右肩の故障で未勝利に終わった。
1991年には、プロ入り後初めて、一軍公式戦への登板がなかった。
1992年に7勝を挙げて復活。10月10日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)でチームのリーグ優勝をマウンド上で迎えたほか、シーズン終了後にカムバック賞を受賞した。日本シリーズでは第2戦、第3戦、第5戦、第6戦に登板。ロングリリーフを見事にこなし、2勝を挙げた。
1993年には、チームトップの13勝を挙げて、チームのリーグ連覇と15年ぶりの日本シリーズ制覇に貢献した。
1994年は先発ローテーション入りするも、安定感に欠いた。
1995年以降は、先発と救援の役割を兼ねながら、一軍の投手陣を支え続けた。
1996年5月17日の対読売ジャイアンツ戦で、吉村禎章の打球を利き腕の右手で止めた際に骨折(記録は併殺)。全治2か月と診断されたため、戦線離脱を余儀なくされた。さらに、骨折の影響で右手の握力が著しく低下。
1998年限りで現役を引退した。
現役引退後、ヤクルト二軍投手コーチ(1999年 - 2000年)・一軍投手コーチ(2001年 - 2005年)・ヘッド兼投手コーチ(2006年 - 2007年)を歴任。2006年からは、一軍ヘッド兼投手コーチとして、選手兼任監督の古田敦也を支えた。
2008年から球団の編成部員に転身した。
2011年に、二軍投手コーチとして現場に復帰した。
2013年のイースタン・リーグ優勝に貢献する。
2014年から二軍監督に就任。
2015年には、シーズン中の6月29日に開催された「侍ジャパン大学日本代表 対 NPB選抜」で、NPB選抜チームのコーチを務めたが、シーズン終了後に二軍監督を退任した。
二軍監督の退任直後には、一軍投手コーチ時代の主力打者だったアレックス・ラミレス横浜DeNAベイスターズ一軍監督が、伊東を一軍投手コーチに招くことを希望していた。しかし、伊東自身はヤクルト球団に在籍したまま、編成部へ6年ぶりに復帰。
2016年からは、「編成グループチーフ」という肩書でプロスカウトを務める。
2017年シーズンまで編成のトップであった小川淳司SDが2018年シーズンから監督に復帰するのに伴い、編成のトップである編成部長に就任した。
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