有吉 弘行(ありよし ひろいき、1974年〈昭和49年〉5月31日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者。広島県安芸郡熊野町出身。太田プロダクション所属。
コンビ・猿岩石の元ボケ、ネタ作りを担当。身長172 cm、体重62 kg。血液型A型。妻は夏目三久。1児の父。広島県観光大使、東京銀座の広島県アンテナショップの店名「TAU」名付け親。江戸川区インド人会名誉アンバサダー。
自称「太田プロの真珠、広島が生んだ快男児、軍人ロックスター」。
1992年12月、当時高校に在学中だった有吉は『EXテレビ』(読売テレビ)の企画「公開弟子審査会」(審査員はオール巨人、西川のりおら4名)に合格し、オール巨人(オール阪神・巨人)へ弟子入りした。また、同時期にNSCも受験していたが、合否が発表される前にオール巨人のテレビ企画に参加したため入学はしなかった。さらに、ウッチャンナンチャンなどの卒業生を輩出した日本映画学校の願書も取っていた。しかし弟子期間中に、兄弟弟子と喧嘩に発展して相手に怪我を負わせてしまい、8か月目にして巨人から謹慎を言い渡される。
1994年、そのまま無断で巨人の下を離れた有吉は、地元の同級生だった森脇和成を誘いコンビ『猿岩石』を結成し、2人で上京する。1995年、太田プロダクションの新人オーディションに合格しデビュー。後に巨人の楽屋に出向き、正式に破門となる。
1996年、『進め!電波少年』でのヒッチハイクの旅企画が話題を呼び、デビューシングル『白い雲のように』が、お笑い芸人としては異例の累計150万枚、130万枚、114万枚のミリオンセラーを記録する等、大ブレイク。
帰国後はCDや著書が爆発的に売れるも肝心のお笑いで結果を残せず、程なくして人気は低迷し仕事も激減。本人曰く自身は当時「天狗」になっており、あまり人に好かれておらず、ブームが去るとその後の転落速度は相当なものだった。有吉曰く「旅から帰ってきてから10年間面白くないと言われ続けた」と言う。
それから7~8年間、広島のローカル局への出演以外は仕事がなく、経済的に自活もできず食事などは上島竜兵(ダチョウ倶楽部)らの世話になっていた。仕事もなくほとんど家におり、ネタもないためブログには作り話を多く綴っていた。不遇の時代については#ブレイクと転落を参照。
2004年に猿岩石を解散し、ピン芸人として活動を始める。このころから『内村プロデュース』(テレビ朝日)へ出演するようになり(出演当初は猿岩石として、解散後は有吉のみ)、これが久々の全国ネット番組への出演となり、復活への足掛かりとなった。有吉によれば自分の復活は正しく「内Pのおかげ」であり、「内Pで再デビュー」といった気持ちでもあったとのこと。なお、内P出演時は基本的にリアクション芸で裸だった(そのために体力も錬成し、ダイエットも行った)。また女性ファン層は諦め、同世代の男性に的を絞っていった。そしてダチョウ倶楽部の協力などもあり、それらは一定の成果を収めた。有吉自身、結果的には「裸」が功を奏したと語っている。月収はいつしか30万円程度にまで回復し ていた。 有吉曰く(面白くないと言われていた時期に)「内村さんとダチョウ倶楽部とさまぁ~ずだけが「面白い」と評価してくれていた。それらがいなかったら辞めたってなっていただろう」
2007年、『アメトーーク!』で発生した「おしゃクソ事変」が話題を呼ぶ(詳しくは後述)。8月23日放送回で、品川祐に対して世間が持っているイメージを「おしゃべりクソ野郎」と表現し、これが爆笑を呼んだというもの。このコメントは同番組の年間流行語大賞となり、有吉本人も「久々に爆笑という感覚を味わった」と自賛している。以降、有吉はあだ名および毒舌芸人として人気を得ることとなる。
なお有吉が2010年に述懐したところによれば、決して自分から「再ブレイク」などと言って反感を買うようなことはせず、できるだけ目立たず名誉より金ということである。R-1ぐらんぷりにも興味はなく、太田プロのライブにも出ていないとのこと。
その後順調に仕事は増え、2011年にはメディアの調査・分析を行うニホンモニターの調査による「2011年テレビ番組出演本数ランキング」において出演総本数499本を記録し、1位となった。
2012年3月、広島県観光大使に就任した。
2013年11月23日、第10回『IPPONグランプリ』で初優勝、翌2014年11月8日には第12回『IPPONグランプリ』で二度目の優勝を果たした。
2013年には一気に5本のレギュラー番組が増え、そのうち4本が冠番組を占めるなど仕事が大幅に広がった。
2019年4月『有吉のお金発見 突撃!カネオくん』がレギュラー放送となり、主要テレビ局(NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京)全てにレギュラー冠番組を持つことになった。地上波の全局同時レギュラー出演は2008年に国分太一、2014年にさまぁ〜ずが達成しているが、全局同時のレギュラー冠番組を持ったのは有吉がテレビ史上初である。また2022年10月から「有吉クイズ」が火曜日のプライムタイムに昇格し、全ての曜日のプライム帯に冠番組を持つ芸能史上に類を見ない〝偉業〟を達成した。
2021年4月2日、夏目三久と前日の4月1日に結婚したことを所属事務所を通じて発表した。
2022年12月31日『第73回NHK紅白歌合戦』に純烈の応援ゲストとしてダチョウ倶楽部と初出演し、猿岩石の時代に果せなかった「白い雲のように」を紅白歌合戦で歌唱した。
2023年10月6日、同年12月31日に生放送される『第74回NHK紅白歌合戦』の司会を務めることが発表された。
2024年3月3日、自身のレギュラーラジオ番組『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』のオープニング内にて、第1子の誕生を発表した。出生日と性別は公表していない。
ブレイク時の有吉の月収は、最高で2000万円に達していた。しかし有吉は「ブームはそう長くは続かない」と考えて、毎月の生活費を抑え貯蓄に励んだ。貯蓄は最高時で7000万円に達したが、税金の支払いなどで残ったのは約4000万円だった。
その後、有吉の予想通りに仕事の量は減少。毎月100万円だった給料も歩合制と化し、月収7万円から8万円もしくはゼロとなっていった。しかしながらブレイク時の収入を貯蓄していた有吉は、貯蓄を切り崩すことで不遇の時期を乗り切っていった。有吉は当時を振り返り、「このような倹約があったからこそ、不遇の時代を借金することなしに過ごすことができた。そうでなければ、恐らくホームレスに転落していた」「この貯蓄があったから踏みとどまれた」などと述懐している。なお約4000万円あった貯蓄は、7~8年後には数百万円程度まで減少していた。
しかしながら有吉は転落してしまったことを非常にストレスだと考え、相当に思い詰めていた。収入が少ないにも拘らず、人から蔑まれるのが苦痛でアルバイトなどもできなかったため当時は自殺もよぎったとのこと。芸事の方向性も迷走し、有吉は漫画用具一式を購入して漫画家を志しかけたり、一物を切り落としてオネエタレントとして再起を図ろうとしたり、AV男優へ転身しようかと考えたこともあった。
その後はモノマネ番組に出演し、哀川翔のモノマネがお茶の間に受けて復活するキッカケになる。哀川本人からも「面白いから宜しく頼む」と連絡が入ったという。ネタが勝俣州和の罵倒や悪口だったので勝俣からの評判は良くない。桃井かおりやさだまさしなども披露している。
コンビ時代は主にコントを演じネタ作りも担当していたが、解散後はピン芸人としての舞台用のネタなどは一切持っておらず、バラエティ番組に特化した純粋なテレビタレントとなっている。後述の「あだ名の命名」に代表されるような、毒舌や辛口コメントを得意としている。毒舌に関しては、有吉自身が『嫌われない毒舌のすすめ』『毒舌訳 哲学者の言葉』 という著書を出版するほど。
発端は『アメトーーク!』2007年8月23日放送分。有吉が「一発屋芸人にならないための方法」を指南する役としてゲスト出演し、そこで「世間から『これ』という固定イメージを持たれないことが大事」と解説。その話の流れで有吉がひな壇に並ぶ他のゲストたちに、「世間が持ってるイメージ」をアドリブで直接伝えていくことになった。その際に品川祐に対して、品川の芸風を揶揄して「おしゃべりクソ野郎」というあだ名を命名した。この一連の流れがスタジオの大爆笑を誘い(MCだった宮迫博之曰く「客席が弾けた」)、その後他の番組でも「有吉が品川のことを『おしゃべりクソ野郎』と呼んだ」というエピソードが多く語られるなど次第に反響は大きくなり、ついには2008年3月13日放送分において「おしゃべりクソ野郎」が、「アメトーーク! 年間流行語大賞」に選ばれた。この一連の出来事を有吉自身は「おしゃクソ事変」と呼んでいる。
この出来事以降、有吉のこの『あだ名の命名』という特技が『アメトーーク!』を中心に多くの番組で取り上げられ、多数の共演者に対して毒を含んだあだ名を命名している。これをきっかけとして、有吉は「毒舌キャラ」「イジりキャラ」と認識され再びテレビの露出が多くなり、再ブレイクに至った。
有吉は、『アメトーーク!』の演出兼プロデューサー・加地倫三(あだ名は「オシャレ骸骨」)に対して「(テレビにたくさん出られるようにしてくれた)加地さんと雨さんと品川に感謝です」という感謝のメールを送っている。
有吉に「元気の押し売り」というあだ名をつけられたベッキーは、ブログで「それにしても有吉さんのネーミングも最強ですね!(中略) しつこいようですが、“おもしろければ何でもOK”な人間なので、私は大丈夫です! あー楽しかったー!!!」と有吉を大絶賛している。
2009年10月29日付けのブログでは、差出人部分に「有吉を殺す会」と書かれたはがきが送られてきたことを明かしている。
このほかにも相手の逆鱗に触れたり、相手自身は寛大な態度を示していても、その所属事務所幹部からの反感を買って共演不可を申し入れられた事例も少なくない。
また、長野県では県民性が起因して自身の芸風を受け入れてもらえず県域局のローカル番組をわずか2か月で降板させられたこともある。
有吉のあだ名命名については、「特に、タレントにあだ名をつけるのが天才的にうまい」「『クソ』『野郎』が多いのが目につきますが、毒の含み具合が絶妙」(芸能ライター)、「あだ名芸人として活躍の場を広げている」(『TV LIFE』編集部) と、内外から評価され、有吉の「瞬時に人物の特徴を捉える」あだ名の命名は「芸」であるとの評価がなされている。
有吉の実家は広島県安芸郡熊野町内の、田んぼに囲まれた農家で、裕福ではなく、トイレはボットン便所だった。具体的な時期は不明だが2010年に死去した父親は無職で、母親は熊野筆の元職人だった。有吉家について、2014年に「女性自身」が取材した近所の住人たちは「お父さんはあまり仕事が好きな人じゃなかった。麻雀ばかりやっていた。お母さんがよく働いていて、近所のスーパーで働いている姿を見かけた。畑で家庭菜園をしたりしていた」などと述べている。
広島市で生花店を営む4歳年下の弟がおり、『有吉弘行の田舎発見バラエティ!「明日あいたい島村さん」』(フジテレビ 2017年1月7日放送)にて兄弟共演ロケを行っている。同番組では、有吉の親戚が暮らし、亡くなった父親が松茸を採っていた山もある思い出の地の東広島市豊栄町を20年ぶりに訪れ、父親の「山を守ってほしい」との遺言を果たすべく害獣駆除のロケに臨んでいる。有吉家所有の山は「天神嶽」と呼ばれ、東京ドーム約4個分の大きさである。
元日本テレビアナウンサーで、元フリーアナウンサーの妻・三久の父親は、ネット上の誹謗中傷や事実無根の書き込みなどを監視する企業イー・ガーディアン創業者の夏目三法。
現在、有吉の元実家は、空き家となっている。
広島出身ということもあってプロ野球は広島東洋カープのファン。高校時代は勉強そっちのけでアルバイトして金を稼ぎ、原付を使って広島市民球場に年間30回程行っていた。またTwitterにおいて、同姓で横浜DeNAベイスターズ所属の有吉優樹を応援していると明かし、有吉優樹が千葉ロッテマリーンズ所属時にプロ初勝利を飾った際は祝福のコメントを投稿していた。また生粋のアンチ巨人でもあり、2018年のオフに丸佳浩がFA権を行使して巨人へ移籍した時は「いい加減にしてくれ」と巨人に対する不満を露わにしている。2019年からは「有吉さんに巨人を好きになってほしい」というコンセプトの番組『有吉×巨人』が不定期で放送されており、有吉は同番組のMCを務めている。
格闘技・プロレスに造詣が深く、大仁田厚の追っかけをしていた。FMWのファンだった。高校時代は柔道部に所属していた。柔道の黒帯(初段)を有しているが、これは柔道部時代に取得したものではなく『リングの魂』の柔道企画で取らされたものである。『有吉ぃぃeeeee!そうだ!今からお前んチでゲームしない?』(テレビ東京)では、同じくプロレスに詳しいタカアンドトシ(特にトシ)との唐突かつマニアックなプロレストークを周囲からツッコまれるのが定番の流れとなっている。
上京した当初は下北沢に住んでおり、飲食店でアルバイトをしていたこともある。『猿岩石』ブームが去った後のどん底時代は笹塚に住んだ。『マツコ&有吉 かりそめ天国』で同じくMCを務めるマツコ・デラックスも、かつて笹塚駅周辺に住んでいたことがあり、同番組では、たびたび同エリアが話題にあがる。
風俗店を好み、『お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ50の法則』(2012版)でもp.93-、p.201などで言及している。
自他共に認める方向音痴で地図が読めない。普段から利用している都内の道路の名称を把握できていなかったり、テレビ局内でトイレから楽屋に戻れないこともある。その一方で散歩を趣味としているようで、10キロ以上にも渡る長距離の散歩を日頃から行っている旨を度々発言している。
好みの女性タイプは「パンクロッカー」。理由は「周りに流されずに自分を貫いているから」。嫌いなタイプの女性は「グラビアアイドルなどの清純派」「自称・業界人と知り合い」。パンクロッカーを見たいがために(有吉曰く)パンクロッカーが多い高円寺を散歩するのが好き。一度、パンクロッカーを探しに高円寺を散歩していたらエリック・クラプトンに遭遇し、ピックを貰おうとしたところ500円玉を渡された。
初めて買ったCDはTM NETWORK『Self Control』。中学校の同級生は「有吉は人が嫌がるものまねをよくしていた」と述べている。「理想は1億円残したまま、自宅でひっそりと死んでいる」と著書で語っている。
2013年までは喫煙者(ヘビースモーカー)だったが健康上の理由で卒煙を決意、2014年以降は非喫煙者である。
上島竜兵(ダチョウ倶楽部) を中心とする飲み仲間『竜兵会』の一員。竜兵会に高田文夫が顔を見せた際、酔っ払った上島に対する有吉のツッコミの面白さを見た高田は自身のラジオ番組『ラジオビバリー昼ズ』に有吉を起用(2006年に高田が休養した際、中継レポーターの春風亭昇太がMC代行となったため、スライドで中継担当になった)することを決めた。
また、竜兵会の中でも特に上島に関しては「涙をこぼすのは上島さんの葬式だけ。と決めている。」と真面目に溢しており、関係性が深い。
2020年12月、『マツコ&有吉 かりそめ天国』において「自分の怒りのスイッチって自覚していますか?」という話題の中で有吉は「僕の場合は上島さんね。上島さんのことをバカにされると(怒りのスイッチが)入っちゃう」と過去の経験を思い返し、そうした経験から「自分のことよりも親しい人のことを何か言われたときのほうが『怒りのスイッチ』が入るのでは?」とマツコと有吉は結論づけた。
同じく竜兵会に所属する安田和博は有吉のブレーンである。
第2日本テレビのネット配信番組『電波少年的懸賞生活2009』に出演し、同番組のプロデューサーより再ブレイクのきっかけを訊かれた際、「世間的には『内村プロデュース』の印象が強いと思うが、実は『リングの魂』の柔道企画等、(内村光良のみならず)南原清隆にも大変お世話になっていて、ウッチャンナンチャンの両氏にずっと使ってもらったおかげ」と答えている。その際、『内村プロデュース』に関して「売れてない時期があったからこそ当時のレギュラーメンバーの凄さに気づくことができた」と答え、ネット配信番組『内村さまぁ〜ず』に出演した際にはTwitterにて内村光良、さまぁ〜ずの3人について「3人は命の恩人ですので細心の注意を払うべきですが、それをさせない緩さがある」と評している。
なお、有吉は2008年の『内村さまぁ〜ず』放送回で内村にもらった「1個1個の仕事を大事にして、確実に仕留めていく」という旨のアドバイスを心に刻み、後輩にも同様のアドバイスを送っている。
1993年3月2日放送分『EXテレビ』で行われた企画「公開弟子審査会」に有吉が参加し、合格。オール巨人(オール阪神・巨人)に弟子入りする。しかし弟子入りして8か月後、元々相性が悪かった兄弟子を歯が折れるほど殴ってしまい、有吉は巨人から「暴力を振るうような人間にするために弟子を取ったのではない」「乱暴者はいらん」と謹慎を命じられる。
謹慎中だった有吉は巨人には無断で巨人の下を離れ、1994年に森脇和成とコンビ『猿岩石』を結成し上京。1995年、太田プロダクション所属となる。そして、1996年に『進め!電波少年』でのヒッチハイクの旅企画で話題となる。何も聞いていなかった巨人は、テレビで見て初めて有吉が東京で芸能活動を継続していることを知って驚いたという。
女性セブンのインタビューによれば猿岩石の旅企画の終了後、オール巨人の著書によればTBSの『オールスター感謝祭』で一緒になった時(女性セブンによれば有吉はすぐに巨人の楽屋を訪れたことになっている)、スタジオで巨人を見かけるなり、土下座して「すみませんでした!」と謝罪した。巨人は「これで正式に破門や。お前も辛かったんやろ」と声をかけた。有吉はいつか巨人に再会した時のことを考えてずっと「びびっていた」らしく、挨拶に来るか電話の一本も入れればいいのにと巨人が言ったところ、それを行う勇気すら出なかったと答えた。
一方で弟子時代の有吉の印象について巨人は、「実は謹慎を命じた印象が強すぎて、他のことはあまり覚えていないんです」と語っているが、有吉が弟子入りしたときの履歴書を大切に保管しており、『有吉弘行のダレトク!?』のゲスト出演時に、当時の履歴書を公開した。
後に、『ダウンタウンDX』で巨人と有吉は共演しており、有吉は巨人に「楽屋の厄介者」というあだ名を命名している。
同期には劇団ひとり、ふかわりょう、ビビる大木がいる。有吉は彼らをそれぞれ「川島(劇団ひとりの本名)」「ふかわ」「大木」と呼び、ひとりとふかわからは「有吉くん」、大木からは「アリ」と呼ばれている。劇団ひとりとは太田プロダクションへの所属日まで同じであり、「全くの同期」と語っている。
前述の通り、オール巨人の弟子を経た後にコンビ結成という特殊な経歴であり、養成所には通わずコンビの活動を開始したために芸歴が非常に曖昧。有吉本人はオール巨人の弟子となった1992年12月から芸歴としてカウントしているが、プロの芸人として活動を開始したのは1995年になる。そのため実際に同期として接しているのは同時期にデビューした同い年や歳下の芸人に対してである。吉本興業所属の芸人に対してはロンドンブーツ1号2号やペナルティ、その同期にあたるNSC大阪校12期出身の芸人までを先輩とし、タカアンドトシやその同期のNSC大阪校13期以降の芸人を後輩としている。
芸能人特有の「軍団」や直系の「弟子」を持たないが、吉村崇は有吉を「お師匠さん」と呼んでいる。藤田ニコル・池田美優は2017年頃から有吉の番組でのゲスト共演も多く、「師匠みたいな存在」と語り、有吉自身も弟子扱いすることが多い。
芸人以外では、俳優の大下源一郎と親交がある。大下とは、有吉が主演したミュージカル「シンドバッドの冒険」(2000年)で共演してからの付き合いで、有吉のことは「何でも知ってる」代わりに口が非常に堅いため、他人には言えない話を相談する仲だという。有吉と夏目三久の交際についても、大下は芸能界で唯一その事実を結婚前に知っていた。
有吉は2012年11月から2020年4月まで、Twitterのフォロワー数が最も多かった日本人である。2012年11月末に、フォロワー数が、当時首位だったソフトバンクの社長・孫正義を抜いて日本人としては1位(当時)となり、2013年2月6日には、国内初の200万フォロワーを達成した。さらに2014年3月1日、国内初フォロワー300万人を突破。その後もフォロワーは増加を続け、2015年1月31日に400万人、同年11月20日に500万人、2016年9月4日に600万人、2018年1月3日に700万人に国内で初めて到達した。
お笑い評論家のラリー遠田は、芸能界における毒舌キャラに必要な条件として「的外れではない鋭い批評精神があること」「悪口を言っても許される人間であること」の2つを提示し、有吉はその2つを兼ね備えていると評している。特に2つ目の『悪口を言っても許される人間であること』という点について、遠田は雑誌『m9』(晋遊舎)での有吉のインタビュー記事の「売れない時期が続いてやさぐれたっていうことで、『やさぐれて当然だ』っていうバックボーンは作れたんじゃないですかね」という発言を引用し、「一時は頂点を極めながら最底辺まで落ちぶれたという点で、有吉ほど強力な『毒舌の免罪符』を持っている芸人もなかなかいない」と表現している。
千原ジュニアは有吉の毒舌テクニックについて、「有吉は毒舌を言った後に絶対に笑う」というポイントを語り、アメ(笑顔)とムチ(毒舌)を使い分け、毒舌を吐いた相手を本気で怒らせない有吉のしたたかな芸風を指摘した。またジュニアは有吉を「カウンター芸の極み」だと評し、求められるままに手持ちのネタを出してばかりである芸風の自分を「残高が減る一方」と表現し、逆に相手から投げられたボールを返すことを主とする有吉のトークテクニックを挙げ、「有吉の残高はまだまだある」と表現した。
『虎の門』(テレビ朝日)のコーナーで泡盛を飲もうとした際に、体調の悪かった有吉は生放送中にカメラの前で嘔吐してしまった。だが有吉は咄嗟に吐瀉物を左手でキャッチしてポケットにしまい、一連の行動で笑いを取りながらも何事もなかったように振る舞い、放送事故にはならずに済んだ。この有吉のプロ根性を同番組で共演した土田晃之は賞賛している。
放送作家の鈴木おさむは、ほとんど構成を立てず有吉の自由な休日をVTRにまとめただけの『有吉の夏休み密着100時間』(フジテレビ系列、2013年9月7日放送)が、14.2%という高視聴率を獲得したことについて、「『○○の休日』などという内容で視聴率が取れたのは一昔前の大スターが出演する番組のみであり、最近では成立するのが難しいと言われていた。しかし、その殻を久々に破ったのが有吉だった」と解説した。その話を受けて関根勤は、「このまま(有吉の活躍が)2年3年と続くと、さんまさんやたけしさんらに次ぐ、芸能界の『新しい柱』になり得る」と評価した。
小籔千豊は、有吉を「同年代の中の、超ウルトラハイパー覇者」と評している。
2018年頃から、2桁に達する冠番組の多さに「バラエティ番組の帝王」とマスコミに表現されることが多くなっている。
レギュラー番組
準レギュラー番組 (または不定期出演)
不定期放送の特別番組 (継続出演している特別番組)
日本テレビ
テレビ朝日
TBS
テレビ東京
フジテレビ
BS朝日
レギュラー番組
準レギュラー番組
リンカーン(2007年 - 2010年、TBS)
スペシャル番組
劇団ひとりとのユニット
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