井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2010年2月11日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家である。
京都市生まれ。京都市立第一商業学校を卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学するも、1943年応召、1945年に復学して1947年に卒業。在学中から出入りしていた新東宝に正式に入社。自作の脚本を盛んに売り込み、1952年、わずか5年で『恋の応援団長』で監督に昇進。雪村いづみの音楽映画などを手掛けた。
1955年、日活に移籍。当時売り出し中の石原裕次郎の映画を担当し、『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。裕次郎は大スターとしての地位を確立した。
1960年フリーになり、新東宝、日活以外の邦画四社で活躍。井上は邦画6社で監督を経験した。東宝では傍系の宝塚映画のみで、ずっと本体の砧撮影所での劇場映画がなかったが、これも1983年に実現した。東西両撮影所を持つ大映、東映、松竹ではいずれも両方で撮っているほか、ドキュメンタリーながら東宝傍系の東京映画でも1971年に監督を経験。戦後日本映画で長期間一般劇場映画を製作し続けた大手6社系列11の撮影所すべてで監督経験を有する記録となった。このうち4つは既に閉鎖されているので絶後の記録となる。その他、香港のショウ・ブラザーズでも17本の映画を撮った。1965年以降は、日本ではほぼ松竹大船撮影所に腰を据えた形となり、テレビでの代表作「江戸川乱歩の美女シリーズ」に結実した。
邦画界全盛期にプログラムピクチャーを手掛けていたため、その監督作品数は110本を超える。この数は戦後の映画監督としては、ピンク映画系の監督陣を除けば日本一である。
劇場用映画だけでなく、テレビドラマの監督も多数務め(日本の映画監督としては初めて、スタジオ撮影によるテレビドラマを監督した)、テレビドラマの監督作品数は150本を超える。
2010年2月11日に脳出血で死去。同年4月13日にはお別れの会が営まれ、600人が出席した。
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