後に東宝映画の社長となる俳優兼プロデューサーの田中友幸とは親友の間柄で、同じ俳優の金平軍之助や映画監督の稲垣浩とも親しかった。
大阪市立東商業学校(現・大阪市立東商業高等学校)を卒業後、様々な仕事をこなして貯金を作り、1934年に新響劇場を立ち上げて舞台俳優として活躍する傍ら東宝に入社し、同社の劇団部では演出家としても活躍した。
1940年には映画『船出は楽し』で念願の初主演を果たし、その後も亡くなるまでの26年間に様々なテレビドラマや東宝を中心とした映画で活躍した。かの黒澤明監督の『七人の侍』にも出演している。主役よりも脇役が多かったが、個性的な演技で名脇役として名を馳せた。その出演数は映画だけでも110本以上に及ぶほどの活躍ぶりで、当時は知名度も抜群の俳優であった。書籍『ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』では、「腹にいちもつある小悪党が得意」と評している。
しかし、1966年8月11日に東京市北多摩郡狛江町覚東の自宅で首吊り自殺を遂げてしまう。55歳没。同年公開の映画『クレージーの無責任清水港』と同年に放送されたテレビ特撮ドラマ『ウルトラQ』などが遺作となってしまった。
自殺の原因は、俳優としての伸び悩み、持病、借金などが挙げられているが、詳しいことは分かっていない。谷は亡くなる前日まで元気に振舞っていたと言い、谷を慕う親友たちは突然の訃報に絶句したと言う。
娘の子(孫、生まれたのは谷の没後の1974年)は落語家の柳亭こみち。
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