越中 詩郎(こしなか しろう、1958年9月4日 - )は、日本の男性プロレスラー。東京都江東区出身。日本工業大学駒場高等学校卒業。血液型B型。
越中のプロレスとの出会いは小学校時代であり、当時は金曜日の8時からTVで放映していた。ぶつかり合いの迫力に子供心に圧倒された。中学時代に全日本プロレスを見てファンになる。中学時代は音楽にも熱中していたが、曲作りに必要な良いアイデアが出ないため音楽の道は断念した。高校時代は野球部に入り2年目はファースト・3年目はキャッチャーとレギュラーになるも、甲子園に行くことは出来なかった。野球は団体競技であり、自分1人で競技を行って自分で試合に責任を持つことをしたいという越中の志向には合致しなかった。卒業後、電気工事関連の会社に就職するも、プロレスラーへの夢はあきらめきれず、高校時代の野球部の監督からレスリングの監督を通じてジャイアント馬場を紹介されて見習いを経て1978年7月に全日本プロレスに入門する。野球部の監督に相談しようと決意した際は「出来っこないだろう」と道場への紹介を拒否されると思っていたが、実際に思いを打ち明けると監督もかつてプロレスラー志望だったため夢を応援してくれた。
見習い期間中はジャンボ鶴田に練習を見てもらい、受け身を毎日500本近く取って基礎の腕立て伏せやスクワットをこなした。厳しい稽古であったが、折角監督に紹介してもらった手前投げ出す訳には行かず、生涯の仕事と思って家族の反対を押し切って飛び込んだ以上、やり切ることにしたという。入門を正式に認めてもらって1ヶ月か2ヶ月経過した頃、当時巡業で毎日のように開催されたバトルロイヤルに出場。百田義浩からシューズを借りて出場したこのバトルロイヤルでは、ただ殴られて投げられてボコボコにされただけであった。
1979年3月5日、館山市民センターで園田一治を相手に公式戦デビュー。越中も大仁田厚の後を継いで、ジャイアント馬場の付き人を務めた。
大部屋時代、越中はあまり好きでない酒に付き合わされ酒に酔って暴れる仲間達と同じ場所に居させられたことや、体を大きくするために先輩の命令で旅館の飯櫃を無理に食べたことなどを苦労話として後に2019年のインタビューで話している。スケジュールも過酷であり、酷い時は広島での興行が終わった次の日に秋田のリングへ上がるということもあった。デビューしてからというものの脱走したいと思ったことが何度もあり、駅のホームで「移動の電車を待つ際に、東京に逃げ帰ったらどれだけ楽だろうか」と考えることがしばしばであった。しかし逃げるとすぐに見つかるのが目に見えていたため、実際には脱走に至らなかった。
鶴田が退寮した際に先輩の多くも海外遠征に行ってしまい、先輩達から寮をまとめてほしいと告げられた。その越中も暫くあても目標も無く馬場の付き人を行っていたが、体重100㎏に達したら海外遠征に行かせてやると馬場から約束され、それに向かって精進した。ザ・グレート・カブキからは試合展開の細かい組み立て方を教わり、佐藤昭雄からは若手が底上げして活性化するように発破を掛けられた。
1981年2月19日の福島大会で、デビューから245戦目にして後輩相手にようやく初勝利を挙げる。同年8月、越中は三沢光晴のデビュー戦の対戦相手を務め、以後三沢とのカードは「前座の黄金カード」と呼ばれ、注目を集めた。
1983年4月22日、ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で、三沢を破り優勝。1984年3月、三沢とともにメキシコへ遠征し、サムライ・シローの名で活躍した。三沢(カミカゼ・ミサワ)とのタッグでメインイベントを張らせてもらうなどレスラーとして破格の厚遇を得たが、移動手段・食事・リングコンディションは劣悪そのものであり、シューズの真ん中に穴が開いていたり不衛生な飲み水で赤痢を起こしたりと散々な目に遭った。同年7月、越中は馬場からの国際電話で「三沢を日本に帰せ。チケットを送るから三沢を空港へ送ってくれ」と告げられ、タッグは解散し、メインを張ることなく、メキシコ・マットで展望を描けなくなった。ジャイアント馬場にアメリカ・マットの紹介を頼むが、何の返事もなく危機感を抱くようになっていき、1985年1月31日、全日本プロレスに対して辞表を提出した。その後、新日本プロレスのブッカーを務めていた大剛鉄之助に声を掛けられる。
1985年2月、坂口征二の誘いで新日本プロレスが遠征を行っていたハワイに飛び、その際に新日本移籍を決意する。その際坂口は、アントニオ猪木や藤波辰巳に対して「越中はこっち(新日本)で頑張るから」と紹介した後、メキシコへ一旦戻った越中に日本航空のビジネスクラスのチケットを送った。同年4月1日の東京スポーツに全日本退団を全日本プロレスに提出した辞表と共にスクープされ、その際越中は、東京スポーツに対して「NWA世界ジュニアヘビー級王者であるザ・コブラに挑戦したい」とコメントしていた。そして同年7月10日に越中は全日本プロレスを離脱し新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国(異説については後述)。坂口に「馬場さんのところに、あいさつに行ってこい。頭を下げて、一発ぶん殴られてこい」と言われていた越中は、同年7月12日に新日本が手配した航空券で全日本の興行が行われていた八戸市へ向かい、馬場と話し合いを持つことになった。同年7月19日の新日本札幌中島体育センター大会に現れ、同年8月1日の新日本両国国技館大会で入団挨拶を行った。なお、越中はすぐに新日本に移籍せずまず当時設立したばかりのプロモーションだったアジアプロレスに移籍して、そこから新日本に上がるという形を取っていた。後に2019年の記事で新日本移籍の真相に関してザ・グレート・カブキが「メキシコ遠征中に馬場さんから帰国するかどうか聞かれた際にメキシコに残ると答えたが、その横で聞いていた元子さんが『あら、かわいくないわよね』と機嫌を損ね、それで帰国しても全日本に戻れなくなったので移籍を決めた」という内容を話している。
新日本プロレスと全日本プロレスの違いに関して越中は「全日は相撲部屋のような縦社会。新日は体育会系の部活のようなノリ」「馬場さんは外国人と対等にぶつかり合う大きな体が必要と考えていたが、猪木さんは自分から攻めていくことを要求した」という趣旨の感想を述べている。なお、風呂に関しても在籍時代の全日は馬場が風呂から上がるまで他の選手は絶対に入浴出来なかったが、新日は試合が終わった順番から入って行くことが許され、立場が上のものが風呂から上がるのを待つという全日時代の癖が付いていた越中は猪木から「そんな汗かいて、ウロウロしてんじゃねぇよ。早くシャワー浴びろ!」と注意された。
1986年2月6日、越中はIWGPジュニア王座決定リーグ戦の決勝でザ・コブラを破り、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争った。高田のキックを愚直にも正面から受ける越中のファイトスタイルはUWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなった。そのキックや関節技を主体とした攻めの高田と「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中のシングルマッチはいわゆる「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得た。同年末には、その高田伸彦とのタッグで「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」に出場。ジュニアヘビー級選手同士の急増タッグながらも、リーグ戦3位の成績を残す。1987年3月20日、王座決定戦で武藤敬司とのコンビを組み、前田日明・高田組を破り第4代IWGPタッグ王座を獲得する。1988年2月7日、第1回TOP OF THE SUPER Jr.でも優勝し、ジュニアでは敵なしの状態にまで上り詰めた。
しかし、ライバル高田伸彦の第2次UWFへの移籍、獣神サンダー・ライガーらの台頭や自身のウェイトアップにより、ヘビー級に戦いの場を移す。1990年9月7日、大阪府立体育会館にてグレート・ムタの日本での初対戦相手を務めた。なお、その際にメキシコ修行時代のリングネーム『サムライ・シロー』を名乗り、対戦している。ムタ戦の直後にドラゴンボンバーズへ入るも機能せずうやむやな形で消滅し、青柳政司が率いる誠心会館との抗争に関して小林邦昭と共に新日本プロレス選手会と対立し、ヒールに転向する。1992年7月31日、越中は頭を剃り上げて反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成 し、一躍中堅からトップ戦線へ躍り出る。1994年11月13日、東京ベイNKホールで平成維震軍旗揚げ戦を行い、タイガー・ジェット・シンと対決した。この時期、1995年のG1 CLIMAX初戦でIWGP王者(当時)の武藤を破るという実績も挙げている。
1998年、天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座獲得。
1999年2月22日、越中は平成維震軍を解散し、新日本本隊に復帰。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。2000年には、分裂後間もない全日本プロレスに参戦し三冠王者決定トーナメントにも出場している。
2003年1月、新日本プロレスを契約満了により退団。選手一本でやって行きたかった越中にとっては、マッチメイクなど運営の仕事で気が休まらない日々を送るという新日時代終盤の状況は不本意であったが、他に誰も運営の仕事をやる人がいない中で何かあれば絶えず、会社に呼び出されていた。その後、WJプロレスに入団。当初は、盟主でもある長州力の片腕的存在だったが越中も金銭面で揉めることになり、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成する。だが、同年10月31日付でフリーランスとなった。越中はWJプロレスが1年で崩壊したことに関しては、2019年の取材で「誰のせいでも無いから」「自分が判断して来たんだからプロレス人生に悔いはない」と無罰的な態度を示した。
フリーに転向後、三沢が社長を務めるプロレスリング・ノアにも参戦し、かつての平成維震軍の仲間だった齋藤彰俊と共闘。また同年12月6日のノア横浜文化体育館では、三沢とのシングルマッチも実現した。2004年2月、越中は大森とともに炎武連夢(大谷晋二郎・田中将斗組)からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取し、ZERO1-MAXやキングスロードへも参戦する。
2006年10月、天山広吉の呼び掛けで真壁刀義らとG・B・Hを結成し、古巣の新日本プロレスで活躍を始めた。
2007年にはテレビ朝日の『アメトーーク!』内でのケンドーコバヤシによる越中のネタから、「越中ブーム」が発生。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨んだ。入場前の煽りVTRにより開場のボルテージはMAXに上がり、大越中コールの中で入場した越中は感極まってすぐにはリングに上がることが出来ず、あえてリングの周りを一周して感情を整えてからリングインした。試合は王者の永田裕志に対し、越中がヒップアタックやパワーボム、侍ドライバー'84、ドラゴン・スープレックス・ホールド、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチといった、ジュニア時代から現在までの大技を遺憾なく披露し、入場時と同じ大越中コールの中、ベルト奪取まであと一歩のところでバックドロップ・ホールドに散った。試合後の記者の呼び掛けには、一言だけ「サンキュー。サンキューな」と答えた。その後この台詞は当時共闘していた真壁が、2009年にG1を初制覇した時にファンへの感謝の気持ちを述べる際に使用して話題を呼んだ。そのため現在では、真壁の名台詞として扱われることの方が主となっている。
2007年8月に蝶野正洋の誘いにのってG・B・Hを離脱した。越中は蝶野・長州力らと「レジェンド」を結成した。しかしレジェンドは2010年の蝶野の新日本退団まで続いたが、その後は自然消滅または休眠状態である。
2008年に後楽園ホールで行われた『ハッスル・ツアー2008~7.11 in KORAKUEN』からハッスル参戦を表明。日本代表として出場した『ハッスルGP2008』においてザ・モンスター℃を下し、ハッスルデビュー戦を白星で飾った。
2009年8月27日に行われたハッスル主催『越中詩郎デビュー30周年記念大会』では、新日本の永田・ライガーと組み天龍・川田利明・TAJIRI組と対戦。試合は15分18秒、越中がTAJIRIを高角度パワーボムからのエビ固めで破って勝利。試合後、ファンと共にデビュー30年を振り返った。
2011年5月、3月に晴れてプロレスデビューした橋本真也の長男の橋本大地を相手にタッグマッチを行い、越中も「お前のお父ちゃんには、しこたまやられたんだ!」とマイクでコメントし、実力差をまざまざと見せつけた。
2012年6月13日、ノア主催三沢光晴メモリアルナイトのメインイベントに登場。森嶋猛とダブルヒップアタックを見せるなどの活躍を見せたが、試合中に左足首脱臼骨折を負い長期欠場に入った。
2013年、35周年を迎える。7月7日、ノアの有明コロシアム大会で1年ぶりに復帰した。
2019年から長野県に移住し、そこからプロレスの大会へ出場していることをメディアで公開している。
新日本移籍の経緯についてはかつて様々な説が流れたが、現在は越中が『やってやるって!』(ケンドーコバヤシとの共著、扶桑社)や、『元・新日本プロレス 『人生のリング』を追って』(金澤克彦著、宝島社)で自ら真相を明かしている。それによると全日本離脱・新日本移籍の経緯は、ライバルの三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱いた中、選手の大量離脱に苦しむ新日本側が大剛経由で接触して来たというものである。
坂口は後に、「越中はメキシコではろくなものを食ってなかったみたいで、ハワイやロサンゼルスではすごく食ってたな。うどんとかを食わせてよ。安いもんだよな。それで新日本でやりたいということだったから」と述べている他、越中自身も「三沢が帰国してひとりになった時に馬場さんにアメリカに送ってもらえるように話をしたんですけど、それっきりで。それで坂口さんに呼ばれてメキシコからロサンゼルスに2回、ハワイに1回行ってるんです。ロスで食べさせてもらったたぬきそばがうまかった」と述べるなど、坂口が越中に対してそば・うどんをご馳走した事も、越中の新日本プロレス入りにもつながった。
1985年7月12日に帰国後、新日本側が手配した航空便で、巡業中の三沢市に滞在していた馬場に詫びを入れに出向き、あくまで移籍を認めない馬場を最終的にとりなしたのは天龍だった、ということも語られている。偶然、ホテルに居合わせた天龍が両者の話し合いの仲介役を務めたが、馬場は「今日の八戸市体育館大会にお前も来い。NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座のチャンピオンが小林だから試合が終わったら『俺が挑戦する』と言え。最終戦で選手権をやれ」「今日上がればいい。(坂口には)丸く収める」の一点張りで、物別れに終わった。別れ際、天龍は「お前、メキシコで苦労しててどうせ金持ってないんだろ!」と言わんばかりに、餞別として掴みきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだという。また越中は前記書籍発刊より後に行われたインタビューで、自らに対する馬場の扱いに兼ねてから不満を持っていたことを明かしている。
常にコンディションが良いことで知られ、「(プロとして)お客さんに、チケット代以上の試合を見せる」を信条としている(『やってやるって』内ほかで発言)。これは、天龍も全く別の場で全く同様のことを述べている(『逆説のプロレス〜新日本プロレスG1クライマックス25年全事件の真相~』内ほかで発言)。
技術面では受け身の巧さ、切れの良いスープレックス、高角度のパワーボム、瞬時の丸め込み技が特徴である。逃げない受けと緩急の効いた攻めとの組み立てで、名勝負・好勝負を造り出すことに定評がある。また反体制側に属すことや殺伐とした対抗戦を多く経験しているため、テクニシャンながらラフ殺法も得意とする (主にヒールとして) 。相手側や観客を煽り、会場の空気を作り上げていくことにも長けている。
新日本プロレス時代は泥臭さを担当してやろうという意識が越中にあり、エリート集団というイメージであった新日本プロレスにおいては異質な存在であった。
派手さはないが、人気・実力ともに三銃士と同等であり、得意なイメージが強い蝶野以外にも全盛期の武藤・橋本にも数回シングルで勝利しており、藤波・長州からもシングルで勝利しているまた越中と同時期に活躍した主力選手では、健介だけシングルでの勝利が無い。人気については、三銃士のように前面に出るファンではなく玄人好みの隠れファンが多くいるという意味で、タレントのケンドーコバヤシが「“隠れコシナカン”が多くいる」と表現した。
ヒップアタック等の尻を利用した攻撃が高い人気を集めており、「ケツだけで試合を組み立てられる」職人レスラーと評価されている。地方大会でも常に全力ファイトを見せ、会場人気はNo.1とも言われる。
2020年から長野県諏訪郡原村に生活拠点を移し、ブログで生活ぶりを発信している。
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