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浅野忠長


浅野忠長


浅野 忠長(あさの ただなが)は、江戸時代前期の安芸国広島藩の家老。三原浅野家第2代。

略歴

天正20年(1592年)11月、加藤光泰の重臣・大橋清兵衛の子として甲斐に生まれる。その後、外祖父浅野忠吉の養子となり、紀州藩時代から広島藩転封初期の浅野家に仕えた。紀州藩時代の慶長19年(1614年)、慶長20年(1615年)には大坂の陣に出陣している。

広島転封後の元和7年(1621年)、忠吉の死去により家督相続し、広島藩筆頭家老として重要な支城である三原城主となる。

元和8年(1622年)、頼兼新田を干拓する。寛永元年(1624年)5月、幕命で江戸城清水門修築、寛永6年(1629年)には、江戸城和田倉門石垣修理の指揮を執り、賞された。

寛永9年(1632年)に藩主光晟が16歳で藩主となったため、家老として良く補佐した。寛永12年(1635年)5月、江戸城二の丸修理の指揮を賞され、将軍より時服を賜る。

正保元年(1645年)、三原横山新田を干拓する。承応元年(1652年)、三原にて関船八幡丸を建造する。

明暦2年(1656年)、隠居して家督を嫡男の忠真に譲り、因甫と号した。万治3年(1660年)8月26日、広島の自邸で死去、享年69。

参考文献

  • 御調郡誌教育会編『御調郡誌』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 浅野忠長 by Wikipedia (Historical)


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