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野田敬三


野田敬三


野田 敬三(のだ けいぞう、1958年1月24日 - )は、将棋棋士。森安秀光九段門下。棋士番号は186。兵庫県出身。2013年6月27日に引退。

棋歴

5、6歳の頃、近所の子供が指しているのを見たのが将棋との出会いであるが、夢中になったのは中学2年の頃。以来、3年間、毎週の土日に川西市にあった森安秀光(当時五段)の教室に通い、最終電車で帰宅する。

その森安を師匠として1975年、17歳のときに奨励会で指し始める。比較的順調に昇級・昇段を重ね、1979年12月に三段となる。

ところが、そこからが鬼門であった。1982年4月に二段に降段。8月には三段に復帰するものの、なかなか四段昇段(プロ入り)できずにいるうち、1987年に三段リーグ制度が復活。四段昇段は半年に2名という狭き門となった。第1回三段リーグでは17人中16位で惨敗。しかし、第2回では一転、2局を残した時点で早くもプロ入りを決めた。30歳2か月でのプロ入り(1988年4月1日)は、戦後生まれの将棋棋士では伊藤能の30歳8か月に次ぐ2番目の高齢記録(当時)であった。また2014年時点まで唯一二段降段後にプロとなった棋士である。

1998年度と1999年度に対局数30前後、勝率5割前後の成績を挙げ、棋士人生での一つのピークを迎える。

順位戦・竜王戦共に昇級歴はなく、順位戦は15年連続でC級2組に在籍し、その間、降級点が累積3点となったため、2003年度からフリークラスとなる。竜王戦も第2期から出場したものの最高記録は6組ランキング戦準決勝進出(第13期及び第14期)であった。

プロ入り以来長らく公式戦の本戦(決勝トーナメント)に出場できずにいたものの、プロ入り23年目の第19期銀河戦 では、ブロック戦で最多勝ち抜き者(田丸昇・藤原直哉・佐藤和俊に勝ち3連勝)に該当し、棋士人生で初めて決勝トーナメントに出場した(トーナメントは1回戦で渡辺明に敗北)。

上述の経緯でフリークラスに降級してから10年間で、順位戦C級2組への復帰条件に相当する成績を収めることができず、2012年度の最終対局日をもって引退することが内定していた。野田は2012年度末(2013年3月31日)の時点で、第26期竜王戦6組昇級者決定戦への出場資格を残し、1回戦(2013年5月29日)では島本亮に勝ったものの、2回戦(2013年6月27日)で室岡克彦に敗れ、同日付けで引退した。三段リーグを勝ち抜いた棋士の引退は野田が初めてである。

NHK杯戦では、プロデビュー翌年の第39回(1989年度)より現役最終年の第63回(2013年度)まで25回すべてで予選敗退し、NHK杯戦の本戦出場を経験しないまま現役を引退した。NHK杯戦の予選制導入以降にプロデビューをして本戦出場経験が無いまま現役を引退した棋士は、第71回(2021年度)予選が終了した時点においては野田と植山悦行・金沢孝史の3人のみである。

人物・エピソード

  • 薄くたくわえた口髭がトレードマークである。
  • 体力に自信がある。体力勝負に持ち込んで相手を疲れさせて勝つことから、キャッチフレーズは「ジャングル野田」。
  • 1993年11月、師匠の森安秀光を亡くす(森安九段刺殺事件)。

弟子

女流棋士となった弟子

(2023年11月24日現在)

  • 長谷川は野田の親戚でもある。長谷川優貴#棋歴参照。

棋風

居飛車党で、相掛かり・ひねり飛車を採用することが多かった。これはプロ棋士の中では珍しい棋風である。プロデビュー以来しばらくは、玉を堅く囲い合う前に戦いを始めることが多かった。

昇段履歴

  • 1975年4月 - 5級 = 奨励会入会
  • 1979年12月 - 三段
  • 1982年4月 - 二段に降段
  • 1982年8月 - 三段に復帰
  • 1987年度前期から三段リーグ
  • 1988年4月1日 四段(第2回三段リーグ1位タイ) = プロ入り
  • 1997年2月4日 五段(勝数規定 = 通算100勝)
  • 2008年4月1日 六段(フリークラス規定)
  • 2013年6月27日 引退(フリークラス編入後10年経過)
  • 2023年4月1日 七段(引退棋士規定)

主な成績

通算成績
578対局 223勝355敗 勝率0.3858

在籍クラス

脚注

関連項目

  • 将棋棋士一覧

外部リンク

  • 野田敬三|棋士データベース|日本将棋連盟

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 野田敬三 by Wikipedia (Historical)


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