ラグビーニュージーランド代表(英語: New Zealand national rugby union team)は、ニュージーランドのラグビーユニオンナショナルチーム。愛称は「オールブラックス」 (英語: All Blacks)。エンブレムはシルバー・ファーン(シダの葉)。
次の優勝歴がある。
現在、テストマッチで全ての対戦相手に勝ち越している唯一のチームである。これまでに行われた試合の約4分の3の試合に勝っており、勝率はサッカーのブラジル代表を上回る。
試合の前にニュージーランドの先住民であるマオリの伝統舞踊「ハカ」(カマテ、カパオパンゴ)を行う。
1996年からラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)およびオーストラリア代表(ワラビーズ)との国際対抗戦トライネイションズを開催し、2012年からは新たにラグビーアルゼンチン代表を加えたザ・ラグビーチャンピオンシップを開催している。
1925年から1999年まで75年間に渡りカンタベリー・オブ・ニュージーランドと公式サプライヤー契約を結んだが、1999年シーズンからアディダスと公式サプライヤー契約を、1998年シーズンからニュージーランド航空、加えて2012年シーズンからAIGと公式スポンサー契約を締結している。
海外チームでプレーする選手は、ニュージーランド代表資格を持てないというニュージーランド協会独自の規定がある。その例外規定として「サバティカル(sabbatical、日本語の『長期休暇』に相当)」があり、1年間の休暇を利用して海外でプレーをすることができる。これを利用し、季節が半年ずれている日本のリーグワンなど北半球で、多くのオールブラックス選手が活躍している。
ニュージーランドへのラグビー伝来は医学者で政治家のデビッド・モンロ(出身はスコットランド・エジンバラ)の息子であるC.J.モンロにより伝えられた説が有力である。C.J.モンロは留学先のロンドンでラグビーと出会い1860年代後半にニュージーランドへ伝えたとされている。1870年5月にネルソン・カレッジとネルソン・クラブとの間でラグビーの試合が開催された 。1882年にサザンラグビー協会(現:ニューサウスウェールズ州ラグビー協会)がニュージーランド遠征を行い、1888年にブリテン諸島チーム(イングランド、スコットランドおよびウェールズの選手から構成)がニュージーランド遠征を行った。
1892年にニュージーランド・ラグビーフットボール協会(NZRFU、現在のニュージーランド・ラグビー協会(NZRU))が設立され、1893年にニューサウスウェールズ州へ遠征。翌年にはニューサウスウェールズを招き初のホーム試合を開催。公式な初のテストマッチは1903年にシドニーで開催されたラグビーオーストラリア代表(ワラビーズ)との試合になる。
1905年から1906年にかけ初の北半球遠征(ブリテン諸島、フランス、アメリカ合衆国)を行った際にオールブラックスと呼ばれるようになったとされる(詳細は#ニックネームを参照)。この北半球遠征に帯同したメンバー27名は“オリジナル・オールブラックス”と呼ばれ、伝説のチームとされている。この遠征成績は35戦34勝1敗、うちテストマッチ5戦4勝1敗。
1921年にラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)がニュージーランド遠征を行い、1928年にはオールブラックスが南アフリカへ遠征。この遠征試合はともに引き分けとなった。
1924年から1925年にかけて行われたブリテン諸島・フランス・カナダ遠征では32戦全勝(うちテストマッチ4戦全勝)を達成。この遠征メンバーは“インヴィンシブル(無敵艦隊)”と称された。
1932年よりワラビーズとの国際対抗戦「ブレディスローカップ」を開催。
1965年から1969年にかけてテストマッチ17連勝を達成。
1976年に当時人種隔離政策(アパルトヘイト)により国際社会から強い批判を受けていた南アフリカへオールブラックスを派遣したことからアフリカ諸国がモントリオールオリンピックをボイコットするなど国際問題へ発展。
1978年の北半球遠征ではホーム・ネイションズの4チームと対戦し全勝、グランドスラムを達成。
初開催となるラグビーワールドカップ1987で優勝。ジョン・カーワンとクレイグ・グリーンが6トライを挙げトライ王に輝く。ラグビーワールドカップ1991では準決勝でワラビーズに敗れ3位に終わる。
ラグビーワールドカップ1995では優勝候補から外れ、ヘッドコーチのローリー・メインズはベテランのグレアム・バショップ、ジンザン・ブルックを復帰させる一方、新戦力のジョナ・ロムー、アンドリュー・マーティンズ、ジョシュ・クロンフェルドらを起用し新旧融合チームを結成。下馬評を覆し決勝へ進出。決勝はスプリングボクスと大会初となる延長戦に突入するも3点差で2位に終わる。メインズは辞任し、ヘッドコーチにノンキャップの知将ジョン・ハートが就任。
ハート就任後は1996年から始まったトライネイションズで2年連続全勝優勝するなど若手とベテランが噛み合ったラグビーワールドカップ1995での好調を維持する。
長らくチームを支えたショーン・フィッツパトリック、ジンザン・ブルック、マイケル・ジョーンズ、フランク・バンス等のベテランが次々と代表を引退すると、1998年にブレディスローカップをワラビーズに明け渡すなど低迷期に突入、1998年から1999年の対ワラビーズは5戦1勝4敗と負け越す。ラグビーワールドカップ1999は準決勝でフランスに、3位決定戦でもスプリングボクスに敗れ4位に終わる。ハートは辞任しヘッドコーチにウェイン・スミスが就任。
スミス就任後の2000年、2001年のトライネイションズは2位に終わりブレディスローカップの奪回に失敗。スミスは更迭され当時37歳のジョン・ミッチェルがヘッドコーチに就任。ミッチェルは若手選手を中心にチーム編成を行い2002年・2003年のトライネイションズ優勝、2003年には5季ぶりにブレディスローカップの奪回に成功した。しかしラグビーワールドカップ2003は準決勝でワラビーズに敗れて3位。ミッチェルは辞任しグラハム・ヘンリーがヘッドコーチに就任。
2004年にヘンリーがヘッドコーチに就任してから2006年までのテストマッチは33勝4敗、2004年11月以降は27勝2敗と圧倒的な強さを取り戻す。2005年11月の北半球遠征でホーム・ネイションズの4チームを相手に27年ぶり2度目のグランドスラム(全勝)を達成。その初戦ウェールズ戦と続くアイルランド戦では先発メンバーを全員入れ替えながらともに38点差で圧勝した。ラグビーワールドカップ2007は優勝の大本命とされたが、準々決勝でホスト国のフランスに敗れた。NZRUは新ヘッドコーチの選考を行うと表明し、ロビー・ディーンズとの指名争いが展開されたが、最終的にヘンリーの再任人事を発表。敗れたディーンズはワラビーズのヘッドコーチに就任した。この決定は賛否両論の議論を招いたが、2008年・2010年のトライネイションズ優勝と北半球遠征でグランドスラム達成、ブレディスローカップ3季連続防衛に成功するなど、勝率9割以上を言われるヘンリーの戦術は高い評価を得た。
2007年大会と同じく優勝候補の大本命とされたラグビーワールドカップ2011は圧倒的な強さで決勝まで進み悲願の優勝を果たした。この大会中、スタンドオフに3名の怪我人を出しながら優勝を果たし選手層の厚さを証明した。2011年シーズン終了後にヘンリーの勇退が発表され、ラグビーウェールズ代表時代から9年間に渡りヘンリーのアシスタントを務めたスティーブ・ハンセンがヘッドコーチに昇格した。
ハンセン就任後もオールブラックスの快進撃は止まらず、2013年には年間全勝となるテストマッチ14戦全勝を達成するなど、ブレディスローカップとザ・ラグビーチャンピオンシップ3季連続防衛に成功、2015年はザ・ラグビーチャンピオンシップの優勝こそワラビーズに奪われるもののブレディスローカップは防衛。本命視されて臨んだラグビーワールドカップ2015において優勝。ラグビーワールドカップ史上初の連覇を達成した。
ラグビーワールドカップ2019ではプールBを4戦全勝で1位通過。この中には、後に同大会を優勝するスプリングボクス戦が含まれていた。しかし、準決勝でイングランドに19-7で敗れ、ワールドカップ3連覇とはならなかった。3位決定戦ではウェールズ代表に40-17で勝利し3位が確定した。
2019年12月11日(現地時間)、ハンセンのアシスタントを8年間務めたイアン・フォスターがヘッドコーチに就任した。
2022年7月9日、アイルランドに敗れ、世界ランキングはそれまでの2位から史上ワーストの4位に転落。翌週7月16日もアイルランドに敗れた。
2022年南半球四カ国対抗ザ・ラグビーチャンピオンシップにおいて、8月7日の開幕戦で南アフリカに敗れた。これでテストマッチ3連敗となり、8月8日付の世界ランキングはチーム史上最低を更新し5位になった。
その後4位に戻したものの、8月27日に自国開催のアルゼンチン戦で歴史的敗北を喫し、8月29日付の世界ランキングで再び5位に落たが、翌週には4位に戻した。
2022年10月29日、ランキング10位の日本代表と4年ぶり7回目の対戦を行い、38-31で辛勝した。
2009年11月16日付から2019年8月12日付まで、509週連続で1位を記録していた。2019年8月17日に2位ウェールズが4位イングランドに勝利し、その前週に1位ニュージーランドが3位オーストラリアに敗れポイントを下げていたことで、2019年8月19日付ランキングで1位をウェールズに譲り、2位に落ちた。
長期にわたり3位以内をキープしていたが、2022年7月から8月にかけてテストマッチ3連敗を喫し、2022年8月8日付ランキングで5位に落ちた。さらに8月29日付でも5位を記録した。
2022年12月5日現在のテストマッチの対戦成績は以下の通り。
ラグビーワールドカップ2023・ニュージーランド代表スコッド
※所属、 キャップ数(Cap)は2023年8月9日現在
「オールブラックス」という愛称の起源は、1905年から1906年にかけてブリテン諸島遠征を行ったニュージーランド代表チームを新聞などがそう呼んだことであり、当時のメンバーはオリジナルズ (The Originals)と呼ばれる。その一人、ビリー・ウォーラスは、愛称はロンドンの新聞が代表チームの戦いぶりを評して、全員バックスのように戦うと書きたてたことからオールバックスと呼ばれるようになり、それが変わってオールブラックスになったと主張している。別の説によると、チームのユニフォームの色は当時から黒が多く使われており、ブラックスは新聞の記事になる以前から使われていた愛称の一つだとしている。なお、"ALL BLACKS"はNZラグビー協会の登録商標である。
1925年の遠征以後、代表のユニフォームは黒一色になり、唯一のアクセントとしてニュージーランド固有種のシルバー・ファーン(シダ)の葉があしらわれることとなった。
ニュージーランドのスポーツ界では、シルバー・ファーンをあしらったユニフォームを着ることやオールブラックスの一員に選ばれることが名誉とされているため、様々なスポーツの代表チームがそれにあやかった愛称で呼ばれている。以下は一例。
純然たる代表チームではないが、
(使用するヨットの船体は黒塗りであり、帆には銀色のシダが描かれている。)
20世紀初めに設立されたニュージーランド初のラグビーリーグの代表チームは、ニュージーランドのメディアで代表に選ばれる名誉ではなく金目当ての選手たちで構成されていると批判されたため、オールゴールドと呼ばれていたことがある。現在では、キウイズ(Kiwis)と呼ばれて親しまれている。
常に高い勝率を誇ってきたオールブラックスだが、その一方、1日のうちに2敗を喫するという記録も残している。1949年にオールブラックスが南アフリカへ遠征している最中に、オーストラリア代表がニュージーランドを訪れた。そこでニュージーランド側は、国内に残っていた選手から対戦相手となるチームを編成したが、主力を軒並み欠いていたにもかかわらず、このチームも正式な代表として認定された。そして、9月3日に両方の「オールブラックス」がテストマッチを戦い、ともに敗れたのである。
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