本項台東区の町名(たいとうくのちょうめい)では、東京都台東区における現在の町名を一覧化するとともに、明治時代初期以来の町名の変遷について記述する。
東京都台東区は、昭和22年(1947年)3月15日、当時の東京都下谷区と浅草区が合併して成立した。以下、明治時代初期から台東区成立までの行政区画の変遷について略述する。
江戸が「東京」と改称されたのは慶応4年(1868年)のことである(以下、明治5年までの年月日は陰暦で記す)。この年の7月17日、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、東京府が設置された(9月8日に明治と改元)。以後、明治22年(1889年)に東京市が発足するまでの過渡期には、東京府の行政区画はめまぐるしく変遷し、番組制、大区小区制、15区6郡制等と呼ばれる制度が相次いで実施された。
明治2年(1869年)3月、東京府では、町地と郷村部との境界線を定める朱引(しゅびき)が行われた。これは、皇居を中心とした市街地(江戸時代の町奉行所支配地に相当)を朱引内とし、その外側を郷村とするもので、朱引内を50の区画に分けて、50番組(50区)が設定された。これとともに、江戸時代から続いていた名主制度が廃止された。同年5月、周囲の郷村部にも5つの組が設定され、これを地方5番組と称した。後に台東区となる区域は、このうち朱引内の30番組、38番組から43番組、50番組及び地方3・4番組に属した。
明治4年(1871年)6月には朱引が見直されて、朱引内は44区、朱引外は25区(計69区)に区分された。この間、明治4年7月には廃藩置県が実施された。これにともない、同年11月、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止され、新たな東京府が設置された。同時に朱引が廃止されて、府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りは再度見直され、朱引が復活。朱引内外に11大区・103小区が設置された。後に台東区となる区域は、このうち朱引内の第4大区第6小区、第5大区第1 - 12小区、第10大区1 - 3小区に属していた。
その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡が置かれた。台東区の前身にあたる下谷区と浅草区はこの時設置された。明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、同年5月1日、東京市が成立。下谷区、浅草区は東京市の区となった。昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が置かれ、上記2区を含む35区は東京都直轄の区となった。昭和22年(1947年)3月15日、前述のとおり、これら2区が合併して台東区となった。
下谷区と浅草区は、大正12年(1923年)の関東大震災で大被害を受けた。浅草区では、震災復興後の区画整理に伴い、昭和7年(1932年)から昭和16年(1941年)にかけて、区の大部分の地域で町名の統合整理が実施された。
関東大震災以前の旧町名は、江戸時代以来の名称を引き継ぐものも多かったが、明治時代初期に新たに起立した町名もあった。「○○屋敷」「○○町代地」「○○寺門前」といった、旧幕府時代の伝統を引き継ぐ小規模な町は、明治2年(1869年)前後に数か町が合併されて、新たな町名を付した例が多い。また、明治5年(1872年)には武家地、寺社地など、それまで町名のなかった土地に新たに町名を付した。こうした町名設置は、おもに戸籍整備上の必要性から実施されたものである。
明治11年(1878年)の下谷区成立時の町丁数は75であった。以後、明治時代には以下のような町名の変更があった。
下表には明治24年(1891年)時点で存在した74町丁を収録している。
下谷区では関東大震災復興に関わる町名改正は実施されず、明治24年(1891年)以降、昭和22年(1947年)の下谷区廃止・台東区成立に至るまで、大きな変化はなかった。この間に新設・廃止された町名は以下のとおりである。
1943年(昭和18年)、下谷区と浅草区の境界が変更され、浅草区の町名である神吉町、永住町、松葉町、光月町、千束一丁目の各一部が下谷区に編入された。同時に下谷区の町名である南稲荷町と龍泉寺町の一部が浅草区に編入され、これらの町は下谷・浅草の両区に分かれることとなった。なお、1947年(昭和22年)に下谷・浅草両区が合併して台東区となったことに伴い、上記各町は再統合されて、台東区の町となった。
明治22年(1889年)の東京市成立時に北豊島郡から下谷区に編入されたのは谷中村、龍泉寺村、下谷龍泉町の全域、及び金杉村、坂本村、千束村、三ノ輪村、日暮里村、下駒込村の各一部である。これらの編入区域には2年後の明治24年(1891年)に新町名が起立され、一部は既存の町の区域に編入された。明治24年新設の町名は谷中天王寺町、上根岸町、中根岸町、下根岸町、入谷町、龍泉寺町である。また旧谷中村、金杉村、三ノ輪村の各一部は谷中三崎町、谷中上三崎北町、谷中上三崎南町、谷中坂町、谷中初音町、下谷金杉下町、下谷坂本裏町、下谷三ノ輪町に編入された(詳しくは下表を参照)。
当地区では、明治時代の初期(1869〜1872年頃)には、邸地、寺社境内などに新しい町名を付す、あるいは小規模な町を隣町に合併するなどの変更が多数実施された。その結果、明治11年(1878年)の浅草区成立時には区内に110か町が存在していた(一丁目、二丁目等はそれぞれを1町と数える)。明治22年(1889年)の東京市成立時には北豊島郡の一部が浅草区に編入された。当該編入区域には、2年後の明治24年(1891年)までに新たに6か町が設置され(これらの詳細は後述)、区内の町丁数は116となった。
浅草区は関東大震災で大きな被害を受けた。震災復興・区画整理に伴い、区内では昭和7年(1932年)から同16年にかけて大規模な町名整理が実施された。これにより従前の町名の多くが廃止されている。昭和22年(1947年)の台東区成立後、昭和39年(1964年)から41年にかけて浅草地区の住居表示が実施され、町名・町界が再度変更された。このように再度にわたる大規模な町名整理を経ているため、当地区では同一の地名であっても、時期によって指し示す範囲が異なっている場合があるので注意を要する。一例として、昭和9年(1934年)に成立した「雷門一・二丁目」と、昭和40年(1965年)の住居表示実施によって成立した現行町名の「雷門一・二丁目」は(一部重なる部分もあるが)別個の町域で、旧・雷門二丁目は現・浅草一丁目にあたる。
下表は、明治24年(1891年)時点で存在した町名(116町)と、震災復興後の新町名の対照表である。
明治22年(1889年)の東京市成立時に北豊島郡から浅草区に編入されたのは地方(じかた)山谷町、地方今戸町の全域、及び地方橋場町、千束村、坂本村の各一部である。これらの編入区域では2年後の明治24年(1891年)に町名整理が実施された。その結果、地方今戸町は浅草地方今戸町として存続。他に浅草千束町一〜三丁目、浅草田中町、浅草玉姫町の5か町が新たに起立された(この結果、浅草区の町丁数は110から116に増えた)。
上記町名にみられる「地方」とは、「町方」に対する言葉で、市街地に対する農村部、町奉行支配地に対する代官支配地を意味する。橋場町の場合を例にとれば、元の橋場村の一部が町地化して町奉行支配地に組み入れられた部分を「橋場町」と称し、残余を「橋場町地方」または「地方橋場町」と称した。
震災復興による新町名以外で、昭和22年の台東区成立以前に成立した新町名は以下のとおり。
浅草寺の近くにはかつて馬道(うまみち)という町名があった。馬道は浅草寺東側を南北に通る道の名で、現在も道路や交差点の名称としては使用されているが、町名としては昭和41年(1966年)に廃止された。この地区の町名は明治初期以来たびたび変更され、複雑な経緯をたどっている。以下にその概要を示す。
浅草寺境内地には南谷、東谷、北谷と通称される場所があった。南谷は浅草寺表参道付近を指した通称で、現在の仲見世商店街周辺にあたる。東谷と北谷は随身門(現・二天門)外の東側と北側の、浅草寺の子院群が立ち並んでいた地区の通称である。この南谷、東谷、北谷のほか、浅草寺境内東側の北馬道町、南馬道町、南馬道新町などの区域の町名を再編して、明治10年(1877年)に浅草馬道町一〜八丁目が成立した。南谷、東谷、北谷は、浅草寺境内地の上地(官による没収)に伴い明治5年(1872年)に正式の町名が付され、南谷が宮戸町(みやこちょう)、東谷が三社町(みやしろちょう)一・二丁目、北谷が吾妻町と命名された。しかし、これらの町名は長続きせず、明治6年(1873年)頃、宮戸町は浅草寺地中借地町屋、三社町一・二丁目と吾妻町は浅草寺地中上地町屋と改称された。これらの旧地名と浅草馬道町一〜八丁目の対応関係は以下のとおりである。
以上の町域は、現在(住居表示実施後)の町名では浅草一・二・三・四・六丁目、花川戸一・二丁目のうちに位置する。
馬道町一〜八丁目(明治44年に「浅草」の冠称を取る)は昭和9年(1934年)の町名改正で廃止され、同年、馬道一〜三丁目が成立した。馬道町一〜八丁目と馬道一〜三丁目は重なる部分もあるが、全く同じ町域ではない。旧町名の馬道町一〜八丁目は、新町名の馬道一・二丁目、雷門二丁目、花川戸一・二丁目の各一部となった。一方、新町名の馬道一〜三丁目は、従前の馬道町三〜八丁目のほか、花川戸町、浅草公園地(五号地)、聖天横町、田町一丁目、千束町三丁目、地方今戸町の各一部をもって成立したものである。浅草寺表参道(仲見世)付近にあたる旧馬道町一・二丁目は雷門二丁目(現・浅草一丁目)となり、この地区からは馬道の町名は消えた。一方、新町名の馬道三丁目は田町一丁目、千束町三丁目、地方今戸町の各一部をもって成立したもので、旧馬道町の地域は含まれていない。これら新旧町名の対応を丁目ごとに整理すると以下のとおりである。
馬道一〜三丁目は昭和41年(1966年)の住居表示実施により廃止され、浅草一・二・三・四・五・六丁目、花川戸一・二丁目の各一部となった。
1923年の関東大震災からの復興に際し、東京市では各地で区画整理と町名改正が実施された。これに伴い、新たな町名・町界が設定され、多くの旧町名が廃止された。台東区の前身の1つである浅草区においても昭和時代初期に震災復興に伴う大幅な町名改正が実施されている。その後、1962年に「住居表示に関する法律」が施行され、同法に基づく住居表示の実施によって、台東区の町名は再度変更されている。台東区では、1964年から区内の住居表示が順次実施され、1967年に区内全域の住居表示実施が完了している。
以下は、旧浅草区の区域の住居表示実施直前(1963年現在)の町名と現行町名の対照表である。1963年の時点で存在していた町名の大部分は昭和時代初期、震災復興による町名改正に伴って新設された町名である。町名変更が1月1日付けで実施されている場合、旧町の廃止年はその前年とした。
旧浅草区の町名のうち、昭和時代初期、震災復興による町名改正に伴って新設された町名は、当初は「浅草」を冠称していなかったが、1947年の浅草区廃止・台東区成立以後は「浅草」を冠称している(除:浅草橋)。その他の大部分の町名も1947年以降は「浅草」を冠称しているが、松葉町、神吉町、光月町、永住町は例外である。これら4町は1943年に町域の一部が下谷区に編入され、同一町名が浅草区と下谷区にまたがって存在していた。
台東区では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。
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