大崎市(おおさきし)は、宮城県の北西部に位置する市。古川都市圏を中心とする大崎地方に属する。
後期旧石器時代ないし縄文時代草創期 - 古墳時代の遺跡座散乱木遺跡の発掘により3万年前からこの地域で人々が生活していた。古墳時代(4世紀前後)に築造された東北地方最大級の前方後円墳青塚古墳の存在からこの地方では既に稲作を営む集団組織が存在し古墳を造営する程の力を持っていたと思われる。飛鳥時代(古墳時代終末期)7世紀末 - 8世紀頃(大化の改新時期 - )に奥州地方(陸奥国と出羽国)現在の東北六県全域を統括する重要な拠点、官庁名生館官衙遺跡が置かれ大崎地方はすでに内国化されていた。このことから794年の平安京(京都)遷都よりも更に古い東北地方では最古の1300年以上の歴史と伝統ある地域で、古川が中心地であったことが分かる。南北朝時代(1354年)に斯波家兼(大崎氏の始祖)が奥州管領に任命されその後、伊達晴宗が奥州探題に任命され伊達政宗もこの役職を自称してこの地を治めた。伊達政宗が築城し居城とした岩出山城、その後作られた有備館は現存する日本最古の学問所であり「世界かんがい施設遺産」に登録された内川、岩出山凍り豆腐やずんだは伊達政宗が整備開発したものであり、このずんだを使ったずんだスイーツが近年人気がでてきており宮城県民のソウルフードとなっている。日本人技術者の手だけで造られた日本初の100 m級アーチ式コンクリートダム鳴子ダムは土木学会選奨土木遺産に登録されており、人口湖の荒生湖は栗駒国定公園に指定されている。春には鳴子ダムの「すだれ放流」が風物詩になっている。2021年の「じゃらん」の全国道の駅グランプリで大崎市岩出山の「あ・ら・伊達な道の駅」が2年連続で利用者満足度「全国1位」に選ばれた。
国連食糧農業機関に北海道・東北地方で初めて世界農業遺産(世界的に重要な地域)に認定された大崎耕土(大崎平野)は地形と水利に恵まれ西に奥羽山脈、荒雄岳、船形山がそびえ、そこから江合川と鳴瀬川の両川が太平洋に流れる日本有数の穀倉地帯で、ササニシキ・ひとめぼれ・ささ結などの品種米(ブランド米)の産地で古来より稲作が盛んな米の名産地(栗原市・登米市などの宮城県北部地域も含む)である。その他、大豆(全国2位)の生産も盛んである。日本有数の漁港石巻、女川、気仙沼にも近く、ラムサール条約に登録されている化女沼や蕪栗沼は国際的に重要な湿地で国内有数のマガンの飛来地である。中山平や北宮沢はゲンジボタルとヘイケボタルが共生する全国的にも珍しい場所で国の天然記念物に指定されている。日本トップクラスの泉質の豊富さから東の横綱(日本百名湯)に選ばれている鳴子温泉郷には、紅葉の時期には全国のみならず海外からも観光客が訪れ、冬には登山家の三浦雄一郎がコースを設計した東北有数のリゾート地であるオニコウベスキー場にも多くの人が訪れる。この様に大崎地方は大自然の恵みを受けた豊穣な大地であり、スポーツではバレーボールが、レジャーでは気球が有名で盛んである。
大崎市の中心地古川は土日には(大崎地方・栗原市・登米市の北部地区全域、人口およそ33万6千人)から人が集まる市の「経済・商業・サービス業の中心地」(古川都市圏)で新幹線古川駅や高速道路東北自動車道、国道4号その他複数の国道が通る「交通の要所」であり首都の東京駅には新幹線で2時間程度、東北最大の都市仙台にも近く新幹線では13分、一般道(国道4号)で40分程、東北最大級(全国三番目の規模)のイオンモール利府にも車で40分程である。周辺部から人が多く集まる場所なので古くから医療機関が多く「病院の街古川」とも言われている。県内最古・全国で2番目に古い(現在と同じ浄水方法を採用したのは全国でも初めて)上水道の整備がされた歴史があり、緒絶川沿いにある橋平商店酒蔵醸室など歴史的建造物の観光名所も見どころで、リオーネ古川(映画館などの複合施設)新図書館、地域交流センター「あすも」などの文化施設も充実している。郷土の偉人大正デモクラシーの先駆者吉野作造、弟の商工大臣、吉野信次の生誕の地でもあり、日本労働運動の父で草分け的存在鈴木文治が青年時代を過ごした地でもある。
南は松島町に接し北は秋田県、西は山形県と境を接する。大崎平野において農業が盛んなほか電子機器工場、精密機械工場、住宅建材工場が立地している。中心市街地の古川地区は宮城県北部地域の商業・サービス業の拠点であり、市内最北西部の鳴子地区は温泉観光地である。市内東南部の鹿島台地区・松山地区は主に東北本線利用で仙台市への通勤圏になっている。そのため大崎市域は中央部から西部の古川都市圏に属する地域と東南部の仙台都市圏に属する地域に分けられ、主要交通機関も異なる。古川 - 仙台間は、東北新幹線・高速バス・自家用車などで通勤・通学する者も多い。現在は中央部や西部に東北新幹線・陸羽東線・東北自動車道・国道4号・国道47号・国道108号・国道347号・国道457号など、東部に東北本線・国道346号などが通る。
大崎市の属する大崎地方には、他に加美町・色麻町・美里町・涌谷町が属し、1市4町合わせて20万人を擁する。また、大崎地方と栗原市、登米市を合わせた北部地区は、人口およそ33.6万人である。
2006年の平成の大合併では市域が広大となったため、気象庁による気象予報では、旧玉造郡(岩出山町、鳴子町)は隣接する加美郡加美町と色麻町とともに「西部大崎」に、旧古川市、旧遠田郡田尻町、旧志田郡(三本木町、松山町、鹿島台町)は隣接する遠田郡美里町、涌谷町とともに「東部大崎」に区分されている。さらに西部大崎は「宮城県西部」に、東部大崎は「宮城県東部」に区分されている。
冬は仙台市より寒く、-15℃以下まで冷えることもある。旧古川市と旧岩出山町は豪雪地帯に、旧鳴子町は宮城県内で唯一特別豪雪地帯に指定されている。これら山間部地域と古川から鹿島台にかけての平野部では気候・気温・降雪量に大きな違いがある。以下は気象庁のデータに基づく。
大崎市古川の極値(1976年12月 - )
大崎市鹿島台の極値(1976年12月 - )
大崎市川渡の極値(1976年12月 - )
奈良時代、古川地域に朝廷の役所がつくられた(名生館官衙遺跡)。この頃の古川は多賀城と共に、蝦夷に対する朝廷側の拠点となっていた。
室町時代、奥州探題の大崎氏が現在の大崎市古川地区の名生城を居城とした。大崎氏は室町幕府の管領家(三管領)の筆頭である斯波氏の親戚に当たる。戦国時代、大崎氏は隣国の葛西氏と抗争を繰り広げた。戦国時代末期、南から伊達政宗が大崎領に侵攻して大崎合戦が起こったが、大崎義隆は伊達軍を撃破した。しかし、その後も政宗は大崎氏を圧迫し、大崎氏の軍事指揮権は伊達氏が掌握し、徴税権は大崎氏が保持した。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉は小田原征伐で後北条氏を降した後に奥州仕置を行い、小田原に参陣しなかったことを理由に、大崎氏や葛西氏等を取り潰した。常陸国の佐竹義重や会津地方の蘆名氏に勝利して領土を拡大していた伊達政宗も征服地のほとんどを没収された。大崎氏や葛西氏の旧領には秀吉の家臣の木村吉清が入封したが、政宗は大崎氏と葛西氏の旧臣を扇動して葛西大崎一揆を起こさせた。しかし、政宗の一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、政宗は秀吉から葛西大崎一揆の鎮圧を命じられた。政宗は佐沼城から吉清を救出して、一揆を鎮圧した。戦後、政宗は伊達氏の本拠だった置賜地方や信達地方を秀吉に没収され、その代わりに大崎氏と葛西氏の旧領を与えられて、玉造郡の岩出山城を居城とした。慶長5年12月24日(1601年1月28日)より政宗は新たな居城として仙台城を築いて仙台藩62万石が成立した。こうして大崎市一帯は仙台藩の一部となった。
旧自治体の歴史は各自治体のページを参照。
「大崎市」という市名は、一般公募で集まった2292種類(応募件数10151件)の中から合併協議会が第1次選考で17点、第2次選考で10点、最終選考で6点(大崎、おおさき、北宮城、古川、ふるかわ、宮城)に絞り込み最終的に委員57人の投票で決定した(決選投票結果は「大崎」45票、「古川」7票、無効1票、欠席4人)。
当初から「最終的には合併協委員の投票で決める」と住民にも知らせていたが、公募の有効件数9737件のうち4010件が「古川」であったため「大崎」(1133件)という名称には古川市で反対運動が起こり、古川市の住民意向調査(18歳以上の市民1万人抽出)では「反対(どちらかといえば反対を含む)」が過半数にこそ達しなかったものの「賛成(どちらかといえば賛成を含む)」を7.89%上回った。
それでも1市6町は「将来を見据えた合併は必要」と主張し、合併期日を2005年4月1日として合併協定書に調印した。しかし、古川市議会は合併関連議案を否決(6町議会のうち5町議会は全議案可決、三本木町は廃置分合議案は可決したが議員定数議案のみ否決)。これを受け古川市の佐々木謙次市長(当時)は市民の信を問うため一旦辞任して出直し市長選に再出馬、3度目の当選を果たした。この結果、期日を1年遅らせ市民病院建設の前倒し等を条件に古川市議会の逆転賛成多数を得て「大崎市」が実現するという経緯をたどった。
しかし、「新市名を『古川市』に変更する」という佐々木市長が出直し市長選で掲げた公約は6町の反対で断念した。これにより古川市では合併の是非を問う住民投票を求める声が上がったが、市議会で否決された。住民投票に反対した市議13名は合併に賛成、住民投票に賛成した市議11名は合併に反対と完全に一致している。
古川市以外の住民意向調査等の動きは以下のとおりだった。
当選に決定的に作用するほどの論点となった公約である「新市名称を古川市に(古川市長選)」と「市民病院を現在地に早期改築(大崎市長選)」の双方を旧古川・大崎の両市長が当選後に撤回したこと、古川市議会での可決の原動力となった市民病院建設の前倒しも実は財政上実現性に乏しいものであったこと、仙台都市圏にも含まれる町(松山、鹿島台)までを市域にした一体性の乏しさなど全国にも類を見ない合併により誕生した大崎市の行方は予断を許さない。実際に大崎市になると合併協議会での試算を覆す財政難がマスコミによって報じられ合併後間もない2006年9月には市民病院の本院と岩出山分院の建設も延期、2008年2月に表明するまで建設(改築)時期未定とされていた。
また期日が遅れたと同時に合併協定調印式の際に調印された内容も変更され、合併協定書の原本はホームページ上では公表されていない。なお、協定書の原本が公開されないのは全国では珍しいケースである(協定書の中身は、ホームページ上で見ることは可能)。
大崎市という名称に反対していた旧古川市民の一部が、合併後しばらくの間、「条例を改正して市名を古川市に変えよう」という運動を展開し、市役所近くに看板も掲げていた。しかし合併反対派だった議員や住民も、既に議論の中身を「大崎市でどのようなまちづくりをすべきか。財政健全化をどう進めるか」という方向に移しており、市名変更の可能性は極めて低いとみられる。
市長の伊藤は以下の公約を公表している。病院建設は当選5ヵ月後の2006年9月議会で計画延期を表明した。その後、2008年2月の市議会全員協議会で市民病院本院の改築完成時期を当初予定の4年遅れとなる2013年度、岩出山分院の改築完成時期を当初予定より3年遅れとなる2011年度とする計画を表明した。その後、本院の建設場所を古川穂波地区に変更することを決め、2010年の市長選でも再選された。
伊藤市長は市長選のマニフェストに「20万人都市への挑戦」として「10年間に人口を20万規模に拡大する」「魅力ある地域づくりを推進しながら、県内外からの人口の誘致を図り、大幅な人口増加を実現する」等を掲げていたが、就任から1年を経た2007年6月現在では定住人口のほか交流人口とメールマガジン購読者等の「大崎を応援する人」を加えて20万人都市実現を目指すという路線に変わっている。なお、合併直後の2006年4月1日の人口は139,154人、2007年4月1日には138,402人と減少傾向にある(住民基本台帳人口+外国人登録人口)。2021年には人口約12万5千人に減少している。
旧市町単位で地域自治組織「まちづくり協議会」が設置されている。地域自治組織とは、「地域のことは地域で考え、地域で解決していくための仕組み」のこと。
※正副議長は申し合わせで2年交代としている。
合併前の市町の国際友好都市・姉妹都市を全て引き継いでいる。ただし、合併後も積極的に交流している所と、合併後まったく交流していない所がある。
※ 大崎市内に「大崎警察署」は存在しないが、古川署と鳴子署の統合が検討されており、実現すれば、古川地区に設置される予定の統合警察署は、「大崎警察署」という名称が仮称として示されている。
救急指定病院
古川地域に集中的に立地。鳴子の温泉、鬼首のスキー場などの観光業が盛ん。鳴子温泉郷は「青春18きっぷで行く温泉番付」で東の横綱に選ばれるほど泉質が豊富。
農業で出る廃棄物等(稲の藁や籾殻、家畜の糞尿、野菜くずなど)を活用し、バイオマス製品やエネルギーに再利用する取り組みを進めている。三本木や鳴子温泉で栽培される菜の花、田尻の蕪栗沼に生息する葦など、大崎市ならではの資源も利用する。
郵便局
簡易郵便局
ミヤコーバスが古川駅前を基点として市内各所や栗原市・加美郡・黒川郡などへ運行している。また、鳴子温泉・鹿島台の各地域内において旧町営の路線を引き継いだ市民バスを運行しており、美里町の住民バスも古川駅前・鹿島台駅前まで乗り入れている。
鳴子温泉地域は温泉を主とした観光地区で、ホテル・旅館が多く立地する。陸羽東線の駅名を温泉付きに改名するなど、温泉観光には力を入れている。冬はスキー場観光、秋の鳴子峡紅葉観光でも有名である。秋田県と接する鬼首地区は東北有数のスキーリゾートであり、間欠泉が点在する。鳴子温泉地域は大きく5つの温泉地域(鳴子、東鳴子、川渡、中山平、鬼首)に分けられ、それぞれ異なる泉質を持つ個性的なエリアとして独立している。
岩出山地域は仙台移転前の伊達氏の居城である岩出山城の城下町として発展し、城下町特有の風情が漂う。有備館など歴史的建造物や遺構が数多く残る。
田尻地域の蕪栗沼(かぶくりぬま)はラムサール条約登録の渡り鳥の飛来地で、野鳥観察が行える。
松山地域は日本酒(一ノ蔵)の醸造工場がある関係で酒ミュージアムがあり酒造りの工程や道具の展示のほか、酒の歴史や酒酔いのしくみ、酒器などの雑学も学べる。
三本木地域の「ひまわりの丘」は夏季には視界一面がひまわりの花で埋め尽くされる。更に昭和半ば程まで国内で使用されていた亜炭についての記念館がある。
鹿島台地域では江戸期・明治期以来の排水施設(注・但し所在地は松島町である)や「わらじ村長」と呼ばれ、水害克服と品井沼干拓事業に尽力した鎌田三之助に関する施設があり、鹿島台地区の水害の脅威と水害克服の歴史を学ぶことができる。他にも90余年も続く東北最大級の「鹿島台互市」が行われている。
鳴子温泉地域
岩出山地域
三本木地域
松山地域
鹿島台地域
田尻地域
古川地域
1月14日のどんと祭(裸参り)、4月下旬の桜まつり、8月の夏祭り、春と秋の互市は市内各地で催される。
注釈
出典
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