本項江戸川区の町名(えどがわくのちょうめい)では、東京都江戸川区における現在の町名を一覧化するとともに、明治時代初期以来の町名の変遷について記述する。
江戸川区は、昭和7年(1932年)10月1日、従前の南葛飾郡小岩町、小松川町、松江町、瑞江村、鹿本村、篠崎村、葛西村の3町4村の区域をもって成立した(当時は東京市の区であった)。以下、明治時代初期から江戸川区成立までの行政区画の変遷について略述する。
現在の江戸川区の区域は、かつては武蔵国葛飾郡に属し、近世末には以下の37村が存在した。
なお、荒川放水路の開削に伴う町村の再編や、旧江戸川を挟んで対岸に位置する千葉県東葛飾郡と東京府南葛飾郡の境界変更などの要因により、上記37村の範囲は現行の江戸川区の範囲と完全には一致しない。
明治維新以降、これらの村は武蔵知県事の支配を経て、小菅県、続いて東京府に属した。その後、明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県実施までの過渡期には複雑な変遷を経ている。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」に改称され、東京府が設置された。なお、慶応4年9月8日(1868年11月18日)に「明治」に改元している。現・江戸川区の区域に存在した村は、武蔵知県事の支配を経て、明治2年1月13日(1869年2月)に発足した小菅県に編入された。
明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置された。これに伴い、同年から翌年にかけて品川県と小菅県の町村が東京府に編入され、小菅県に属していた前述の村々も東京府に編入されることとなった。同年11月(1872年1月)、府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に江戸川区となる区域は第11大区第4〜6小区に属した。
その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。後に江戸川区となる区域は、このうちの南葛飾郡に属していた。
明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、府下の6郡は、既存の町村が廃置分合(合併)して85町村となった。85町村のうち南葛飾郡に属していたのは1町23村で、このうち現在の江戸川区の区域に該当するのは小岩村、平井村、小松川村、船堀村、一之江村、松江村、鹿本村、篠崎村、瑞穂村、葛西村の10村である。これら10村とそれ以前の旧村との対応関係は次節のとおりである。
以上のほか、上一色村の字六ツ割飛地は奥戸村(現葛飾区のうち)に編入された。なお、市制町村制施行に先立つ明治18年(1885年)、千葉県東葛飾郡欠真間村の飛地が当時の下鎌田村と当代島村に編入されている。
明治28年(1895年)、松江村大字西小松川字堂ヶ島を大字東小松川に編入。同年、千葉県東葛飾郡と東京府南葛飾郡の境界が変更された。これは江戸川(旧江戸川)の東岸にあった東京府の飛地を千葉県に編入し、西岸にあった千葉県の飛地を東京府に編入したものである。編入先は以下のとおりである。
上記の境界変更後の各村の大字名は以下のとおりである。
西小松川、東小松川、西一之江、鹿骨、谷河内、下今井、二之江は複数の村に同名大字が並存している。これは旧村の区域が複数の新村に分かれて編入されたためである。
大正2年(1913年)には瑞穂村と一之江村が合併し、旧村名の1字ずつをとって瑞江村となった。
大正3年(1914年)には荒川放水路の開削に伴い、村の区域が再編された。すなわち、荒川放水路によって分断された平井村、小松川村、船堀村が廃止され、これら3村の区域の一部は新設の小松川町となり、残余は松江村と奥戸村(現葛飾区のうち)に編入された。旧平井村は荒川放水路以西が小松川町となり、以東は奥戸村のうちとなった。旧小松川村と旧船堀村は荒川放水路以西が小松川町となり、以東は松江村のうちとなった。
新旧町村の編入関係は以下のとおりである。
「西小松川」と「東小松川」は、小松川村、松江村、船堀村の3村に分かれて存在する大字であったが、上記の大正3年の廃置分合により、荒川放水路以西が小松川町小松川、以東が松江村西小松川・東小松川となった。
以上の廃置分合の結果、後の江戸川区に該当する地域の自治体は小岩村、小松川町、瑞江村、松江村、鹿本村、篠崎村、葛西村の1町6村となった。このうち、松江村は大正15年(1926年)、小岩村は昭和3年(1928年)にそれぞれ町制を施行している。
昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。なお、従前の6郡のうち、南豊島郡と東多摩郡が明治29年(1896年)に合併して豊多摩郡となっている。編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ、35区から構成されることとなった。江戸川区はこの時に成立した20区のうちの1つで、小岩町、小松川町、松江町、瑞江村、鹿本村、篠崎村、葛西村の3町4村の区域をもって新設された。
昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。この時、江戸川区を含む35区は東京都直轄の区となった。昭和22年(1947年)3月15日、35区は22区に再編されるが、江戸川区の区域には変更はなかった。同年8月1日、板橋区から練馬区が分区し東京都区部は23区となった。
区発足時には115町丁が存在した。その後、昭和9年(1934年)には葛西地区、昭和13年(1938年)には瑞江地区で大規模な町名改正があり、町名町界が大きく変わった。下表は昭和7年(区発足時)の115町名と昭和13年時点の町名の対照表である。
前述のとおり、葛西地区と瑞江地区では昭和戦前期に大規模な町名改正が実施されている。葛西地区の臨海部は、かつては下今井村・二之江村・桑川村の飛地となっており、江戸川区成立当初(1932年)の町名は従前の村名と小字名を継承したものであったが、2年後の昭和9年(1934年)に旧町名が廃止され、小島一・二丁目、新田一・二丁目等に変更された。なお、葛西地区では1970年代以降の住居表示実施により町名町界が再度変更されている。
瑞江地区では昭和9年(1934年)に飛地の整理が実施され、以下のような変更があった。
瑞江地区では昭和13年(1938年)にほぼ全域にわたる町名変更が実施された。この時に一之江一〜四丁目、春江町一〜五丁目、西瑞江一〜五丁目、東瑞江二丁目(一丁目はなし)、江戸川一〜六丁目が成立。既存の町名のうち今井町、椿町、当代町は消滅し、一之江町、二之江町、下今井町、前野町、下鎌田町、新堀町は町域を大幅に縮小した。なお、瑞江地区では1980年代以降の住居表示実施により町名町界が再度変更されている。
以下は昭和13年(1938年)の町名変更実施直後の町名の一覧である。これらの町名には以後昭和40年(1965年)まで変化はなかったが、同年以降、住居表示や区画整理実施に伴い、大部分の町名が変更されている。瑞江地区、篠崎地区、鹿骨地区などでは町名が再度変更された区域が多く、新旧町名の変遷が煩雑であるため、下表では概略を記すにとどめる。
江戸川区では昭和40年(1965年)以降、順次住居表示が実施されている。これとは別に、区の東部の篠崎・谷河内(やごうち)・鹿骨(ししぼね)地区では、住居表示に関する法律に基づかない町名地番整理が昭和41年(1966年)以降実施された。これらの町名地番整理済み地区においては、昭和62年(1987年)以降、あらためて住居表示が実施され、上篠崎、北篠崎などの地区では町名が再変更されている。また、昭和13年(1938年)に町名地番整理済みの一之江、春江町などにおいてもあらためて住居表示が実施されている。
以下、20世紀後半に町名町界が再変更された地区について、その概要を記す。
篠崎地区では、昭和41年(1966年)実施の町名地番整理と、昭和62年(1987年)以降の住居表示実施とにより、再度にわたり町名変更が行われた。その経緯は以下のとおりである。
昭和7年(1932年)の江戸川区成立時に、旧篠崎村の地区は上篠崎町、下篠崎町、東篠崎町、西篠崎町、南篠崎町、北篠崎町の6町に区画された。
昭和41年(1966年)3月1日、篠崎地区の町名地番整理が実施された。このとき上篠崎町、下篠崎町、西篠崎町、南篠崎町、北篠崎町、鹿骨町、谷河内町の各一部をもって篠崎町一〜七丁目、上篠崎町一〜四丁目、南篠崎町一〜四丁目、北篠崎町一・二丁目が成立した。このほか、上篠崎町、下篠崎町、西篠崎町、南篠崎町、北篠崎町の各一部は昭和45年(1970年)までに南小岩二丁目、東小岩一丁目、谷河内町一・二丁目、鹿骨二・三丁目に編入された。東篠崎町の全域と上篠崎町、下篠崎町、西篠崎町、南篠崎町、北篠崎町の各一部は町名地番整理の対象外となり、従前の町名のまま存続した(上篠崎町、南篠崎町、北篠崎町については、「何丁目」で区分される新町と「丁目」の設定のない旧町とが並存していた)。
各町の編入先は以下のとおりである。
昭和62年(1987年)以降、篠崎地区にあらためて住居表示が実施され、町名町界が再編された。この結果、篠崎町八丁目と南篠崎町五丁目が新設され、上篠崎町一〜四丁目と北篠崎町一・二丁目はそれぞれ上篠崎一〜四丁目、北篠崎一・二丁目と改称された。下篠崎町は従前の町名を継承して住居表示が実施され、東篠崎町は一部を除いて東篠崎一・二丁目となった。他に西篠崎一・二丁目が新設されたが、これは昭和7年成立の旧・西篠崎町とは位置が異なっている。「丁目」なしの上篠崎町、西篠崎町、南篠崎町、北篠崎町は平成2年(1990年)までに廃止された。東篠崎町は旧江戸川河川敷部分(千葉県との境界未定部分)のみ住居表示未実施地区として残存している。
鹿骨(ししぼね)地区では、昭和45年(1970年)実施の町名地番整理実施と、平成3年(1991年)以降の住居表示実施とにより、再度にわたり町名変更が実施されている。その経緯は以下のとおりである。
昭和7年(1932年)の江戸川区成立時に、旧鹿本村大字鹿骨は鹿骨町となった。昭和41年(1966年)、鹿骨町の一部が北篠崎町一・二丁目及び南小岩二丁目に編入された。
昭和45年(1970年)12月28日、鹿骨地区の町名地番整理が実施され、鹿骨町の一部に上篠崎町、一之江一丁目、西一之江二丁目、松本町、谷河内町の各一部、及び、当時ごく一部のみ残存していた新堀町の全域を編入し、鹿骨一〜五丁目が成立した。従前の鹿骨町(丁目なし)も一部が地番整理未実施地区として存続した。
平成3年(1991年)以降、鹿骨地区にあらためて住居表示が実施され、町名町界が再編されている。これにより鹿骨一〜五丁目は鹿骨町の一部を編入し、鹿骨一〜六丁目となった。
「丁目」なしの鹿骨町(昭和7年成立)は、昭和45年(1970年)の町名地番整理実施後は、6箇所の区域に分かれて飛地状に存続していた。これらの区域は、住居表示実施後、大部分が鹿骨一・三・六丁目、西篠崎一・二丁目、篠崎町八丁目に編入されたが、ごく一部(東松本二丁目3番の北側)が鹿骨町として存続している。旧鹿骨町の編入先は以下のとおりである。
谷河内地区では、昭和41年(1966年)実施の町名地番整理と、平成3年(1991年)以降の住居表示実施とにより再度にわたり町名変更が実施されている。その経緯は以下のとおりである。
昭和7年(1932年)の江戸川区成立時に、旧瑞江村大字谷河内は谷河内町となった。昭和13年(1938年)1月1日、瑞江地区の町名地番整理が実施され、谷河内町の一部が西瑞江一丁目となった。
昭和41年(1966年)3月1日、谷河内地区の町名地番整理が実施され、谷河内町、下篠崎町、南篠崎町の各一部をもって谷河内町一・二丁目が成立した。従前の谷河内町の残余は昭和41年(1966年)南篠崎町一〜四丁目、昭和45年(1970年)鹿骨一〜五丁目のうちとなり消滅した。
平成2年(1990年)以降、当地区にあらためて住居表示が実施され、町名町界が再編されている。平成2年(1990年)、谷河内町一丁目の大部分が住居表示実施により、篠崎町八丁目のうちとなった。平成3・5年(1991・1993年)、谷河内一丁目の残余、谷河内二丁目の全域、西瑞江一丁目の一部に住居表示が実施され、谷河内一・二丁目に再編された。
江戸川区では、小松川・春江町の一部を除いてすべての区域住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。なお、町名欄に※印があるものについては、その町区域の一部に住居表示未実施の区域があることを示す。
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