第10回参議院議員通常選挙(だい10かいさんぎいんぎいんつうじょうせんきょ)は、1974年(昭和49年)7月7日に日本で行われた国会(参議院)議員の選挙である。
かねてから物価上昇や地価上昇が社会問題化し、田中内閣による経済失政への批判が強まる中、各社とも内閣支持率は20%を割る低水準となっていた。危機感を抱いた田中角栄は、党総裁として企業から集めた巨額の選挙資金を使い集票を図った。当時は、新幹線も高速道路網も発達しておらず、総理大臣が遊説に回るとしても1日1箇所の演説が限界であったところを、田中は大型ヘリコプターなどを投入して栃木県を除く46都道府県、147か所を回った。この際、ヘリコプターは2台用意されており、このうちの1台は選挙後に田中の金権選挙を批判したマスコミが利用することになった。
選挙は、投票率が史上最高の73%に高まり野党に票が流れた結果、自民党が目標とした参院過半数維持に必要な63議席に1つ及ばず敗北。田中が党内外から求心力を失うきっかけとなり、秋にかけて金権問題が問題視されるに至って退陣に追い込まれた。しかしながら、この選挙で見せた伝説的ともいえる田中の遊説の姿は、40年の年月を経た後に文藝春秋2014年8月号で特集されるほど、人々の記憶に残るものとなった。
その一方で、自民党内では徳島県選挙区の党公認を巡って三木武夫と田中の対立が表面化。改選数1に対して党執行部は新人の後藤田正晴を公認、公認を得られなかった三木派の現職・久次米健太郎は無所属で出馬。両陣営による激しい選挙戦は"三角代理戦争"と呼ばれ、双方の陣営に大きな禍根を残す事となった(結果は三木派の久次米が勝利)。この選挙がきっかけとなり徳島県内の自民党は三木派と反三木派(後藤田派)で分裂。その後の国政選挙や県内の首長選挙においても、両派は革新陣営をも巻き込み、後に"阿波戦争"と称されるようになった激しい選挙戦を展開。一連の対立は、三木と田中が政治的影響力を失う1980年代中盤まで続く事となった。
投票日、東海地方は七夕豪雨という水害に見舞われた。三重県伊勢市では市内1000戸以上が床上浸水、交通機関が停止する事態となり投票が延期された。
2022年現在、日本海側出身の首相の下で行われた唯一の参院選である。
自由民主党
日本社会党
公明党
民社党
日本共産党
自民党 社会党 公明党 共産党 民社党 無所属
自民党 社会党 公明党 共産党 民社党 無所属
以下は補欠当選(任期3年)- 第9回で選出された野上元、伊部真、柴田利右エ門、水口宏三の欠員による。
与党・自由民主党は苦戦し、公認のみでは非改選を含め126人となり、半数ちょうどながら過半数を失った(追加公認で過半数を維持)。苦戦の原因は、複数区・全国区での不振であった。しかし、1人区では追加公認1人を含め、25勝1敗と絶対的な強さを見せ、2人区以上と好対照の結果となった。
特に北海道選挙区(定数4)では公認候補2名を擁立したものの、これとは別に自民党の政策集団であった青嵐会が「青嵐会公認候補」と称して高橋辰夫を擁立。自民党の公認候補は高橋にかなりの票を喰われ、共倒れした(高橋も落選)。
野党は、日本社会党は1人区で自民党に歯が立たず、前回より議席を減らした。代わって議席を伸ばしたのが公明党、日本共産党で、公明党は北海道選挙区と福岡県選挙区、共産党は北海道選挙区と大阪府選挙区で初めて議席を獲得した。
全国区では自民党公認でトップ当選した宮田輝をはじめ、2位と3位に市川房枝、青島幸男が入り、タレント候補の強さを見せた。公明、共産、タレント候補の躍進は、野党の多党化が一層進んだことを示した。
結果として、与党128、野党124という僅差となり、伯仲国会が生まれた。国民的人気を売りにしていた田中にとって、予想外に振るわなかった前回衆院選に続いての苦戦は大きな痛手で、党内外での求心力を失っていった。そして立花隆らによる田中金脈問題の追及を受け、12月9日に内閣総辞職に追い込まれることになる。後任は、椎名裁定により三木武夫内閣が発足した。
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