ケビン・ジェームズ・シュワンツ(Kevin James Schwantz, 1964年6月19日 - )は、アメリカ、テキサス州ヒューストン出身の元オートバイ・ロードレースライダー。1993年ロードレース世界選手権500ccチャンピオン。1988年から1995年までの8シーズンでGP通算25勝を記録した。ニックネームはフライング・テキサン。
ヨシムラスズキの契約ライダーとしてAMAスーパーバイク選手権で活躍。この当時からウェイン・レイニーとの激しいライバル関係が始まった。1988年より、スズキのエースとしてロードレース世界選手権500ccクラスにフル参戦。第1戦日本GPでは、前年チャンピオンのワイン・ガードナーと激しいトップ争いを展開し、劇的な初優勝を遂げる。このシーズンは雨のドイツGPでも優勝し、シーズン2勝を挙げランキング8位を得る。また、この年にはマカオGPの2輪レースに参戦。落ち葉を避けるためにウィリー走行するなど特徴的な走りで優勝した。
シュワンツは当初、速さこそ見せるが転倒やマシントラブルによるリタイヤも多く、1989年シーズンはタイトルを獲得したエディ・ローソンを上回る最多の6勝をマークするも、同数のリタイアを喫し、ランキングは4位に留まった。ヤマハのウェイン・レイニーとは1989年日本GP、1991年ドイツGP、1993年日本GPなど多くのレースで接戦を演じた。
特にシュワンツを語る上で記憶に残っている1991年のドイツGP(ホッケンハイム)での「レイトブレーキ」の場面でレイニーをインから差して抜き去るシーンがファンの間でも語り草になっている。実際に数周前からこのコーナーへの進入スピードがレイニーより少し高いと気付いたシュワンツは確実にインを差すまでブレーキを我慢していたが、あの周では思った以上にスピードが出てしまい本人もパニック状態だったらしい。しかし、XR77のブレーキがギリギリの所で機能を発揮し、レイニーを抜き去る事が出来、その後は1度もレイニーに先行を許すことなくこのレースで優勝している。
1993年、シュワンツは手堅いレース運びを身につけポイント争いをリードしたが、イギリスGPのもらい事故で負った怪我のため、終盤戦レイニーに逆転を許す。しかし、第12戦イタリアGP決勝中、そのレイニーが転倒により選手生命を絶たれてしまう重傷を負い、引退。シュワンツは順調にポイントを重ね、ポイントでレイニーを再逆転、念願のタイトルを獲得する。だがレイニーをサーキット上で打ち負かし、勝利することを目標としてきたシュワンツは「彼の怪我が治るならチャンピオンなんかいらない。」と発言し、初のタイトルを獲得した喜びよりもライバルを失った落胆の気持ちを表した。
翌1994年はチャンピオンの証であるゼッケン1(その中心部には彼の象徴ともいえる「34」が小さく記されていた)を掲げて連覇に挑むが、左手首の怪我という身体のダメージと、最大のライバル、レイニーを失った心のダメージに苦しみ、日本GPとイギリスGPでの2勝にとどまった。同年イギリスGPでは、破竹の勢いでポイントを積み上げるホンダのマイケル・ドゥーハンに対し、負傷した左腕をかばいながらも果敢にチャレンジを続け、得意のブレーキングでオーバーテイクに成功。得意とするドニントン・パークで優勝し、これがシュワンツにとっての最後の優勝となった。
1995年は第3戦日本GPを最後に欠場した後、第6戦イタリアGPにて引退を表明(日本GPからの帰途の飛行機内で、レイニーとの話し合いの末、引退を決意したという)。このとき負傷していた左手首を眺めて目を潤ませながらも、どこか重圧から解放されたような清清しい姿を見せた。年間チャンピオン獲得数は勝利数の割には少なく1回であるが、そのスリリングな走りで圧倒的な歓声を浴び、88年から94年まで人気No.1レーサーであり続けた。
2013年、鈴鹿8時間耐久ロードレースにチームカガヤマから参戦。決勝レースではかつてのライバルであるレイニーのレプリカヘルメットを被って出走した。担当したのは1スティントのみで、全盛期のスピードこそなかったもののベストラップはチームメイトの2人から2秒程しか落ちておらず、伝説のライダーとしての実力をいかんなく発揮。結果は3位表彰台を獲得した。
翌2014年は同レースにヨシムラ創立60周年を記念して作られたレジェンドチームより青木宣篤、辻本聡と共に参戦したが、雨の中スタートとなった決勝レースでは、スターティングライダーの青木が5周目に、同じヨシムラチームである津田拓也に130Rで仕掛けたところ曲がりきれず転倒。マシンが大破したため再スタートできずリタイアとなり、シュワンツは走ることなく終わった。
細身の長身を活かしたライディングフォームが特徴。上体を起こし、長い手足で巧みにマシンを操る豪快なスタイルはロデオにも例えられた。デビュー当初は童顔ということもありピノキオ坊やとも呼ばれていた。
シュワンツのライディングの特徴には、深いバンク角とレイトブレーキがある。シュワンツには独走優勝というレースは少なく、終始接近戦を展開し、ゴール付近でブレーキングを遅らせて首位を奪取し僅差で勝利を手にするレースをよく見せた。シュワンツの象徴的なレースとして、しばしばウェイン・レイニーを最終ラップにスタジアムセクションの入り口のブレーキングで豪快に追い抜いた1991年ドイツGPが挙げられる。首位独走中にクラッシュしたこともあり、トップライダーとしては異例なほど転倒が多かったが、これは当時のRGV-ΓがライバルのNSRやYZRに対してエンジンパワーでかなり劣っていたため、それを圧倒的なコーナリングスピードでカバーしようとしていたが故でもある。しかし、テストライダーだった樋渡治によるとシュワンツの仕様をテストした際にブレーキが全く効かず、日信工業製カーボンセラミックローターを使った際に効き過ぎると証言している。また、バランス感覚に長けており竜洋テストコースで縁石の上をママチャリで何事も無く走っていたが、誰一人としてそれを出来なかったほどバランス感覚が良かったことも挙げている。
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