1955年の読売ジャイアンツ(1955ねんのよみうりジャイアンツ)では、1955年における読売ジャイアンツの動向についてまとめる。
この年の読売ジャイアンツは水原茂監督の6年目のシーズンである。
前年中日に球団創設以来の初優勝を許したものの、戦力は前年とほぼ変わらなかった。チームは4月を12勝7敗で勝ち越して開幕ダッシュすると、5月と6月に貯金2ケタを作るなど絶好調で1度も中日や阪神といったライバルチームを寄せ付けず、8月以降は貯金21を稼いで最後は2年ぶりにリーグ優勝。投手陣は30勝で最多勝の大友工がエースにのし上がり、23勝の別所毅彦も1.33で最優秀防御率を獲得。それ以外にも中尾碩志が16勝、若手の安原達佳が12勝をあげるなどチーム勝ち星の8割をこの4人が占めた。日本シリーズは鶴岡一人監督率いる南海との対戦となったが、第4戦まで1勝3敗と負け越し「今年の日本一は南海か」の声が出始めると水原監督は加倉井実や藤尾茂などの若手を起用。これが功を奏したのか第5戦以降を3連勝し、2年ぶりの日本一を達成(水原監督時代の日本一はすべて対南海戦だった)。最後は南海の本拠地・大阪スタヂアムで水原監督が胴上げされた。しかし、1956年以降は4年連続で日本シリーズに敗れ、次の日本一は川上哲治監督に交代した1961年まで待たなければならなかった。
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