1973年の日拓ホームフライヤーズ(1973ねんのにったくホームフライヤーズ)では、1973年の日拓ホームフライヤーズにおける動向をまとめる。
このシーズンの日拓ホームフライヤーズは、東映時代も含めて田宮謙次郎監督の4年目のシーズンであり、また田宮監督が途中辞任したため後期から土橋正幸監督が就任したシーズンである。
1969年のシーズン終盤に発覚した黒い霧事件はパ・リーグの人気急落をもたらし、また親会社の東映がボウリングなどの不採算事業からの撤退を計画するなどフライヤーズを取り巻く環境が急速に変化。東映創業者でもありフライヤーズの初代オーナーだった大川博の後を継いで社長となった岡田茂オーナー代行は1972年オフ、五島昇・東京急行電鉄社長(球団の事実上の所有者)とともにパイオニアにフライヤーズ売却を打診するものの折り合いがつかず球団売却は頓挫。年が明けて新生・日拓ホームフライヤーズが誕生したが、ユニフォームは東映時代とほとんど変わらなかった。前年オフからのドタバタがおさまりチームは4月を4勝6敗とまずまずの成績を収めるが、5月以降大きく負け越して前期を借金12で終了。主力の白仁天と犬猿の仲でチームの成績不振に加え空調分解したこともあり田宮監督は更迭され、後任にはチーム生え抜きの2軍監督の土橋正幸、ヘッド兼打撃コーチには選手兼任で張本勲が就任した。土橋監督のもと、後期に巻き返しをはかるが阪急とロッテの優勝争いに絡むことはできず、結局前期優勝の南海と同率の3位で終了。総合成績では前期の借金を取り返せず、順位を1つ落として5位となった。シーズン途中から身売り問題が勃発し、一度はロッテとの合併計画が浮上するも世間の反発で断念。シーズンオフ、日本ハムが球団を買収して新生・日本ハムファイターズが誕生し、前身の東急時代から続いてきたフライヤーズは27年の歴史に幕を下ろした。
7月は後期開幕日。
*優勝はプレーオフで決定。3位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
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