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ラッキールーラ


ラッキールーラ


ラッキールーラ(欧字名:Lucky Ruler、1974年2月22日 - 1991年5月12日)は、日本の競走馬、日本および韓国の種牡馬。

主な勝ち鞍は、1977年の東京優駿(日本ダービー)、弥生賞。重戦車と呼ばれた。

生涯

デビューまで

トーストは、桜花賞、天皇賞(秋)、有馬記念で2着。金杯(東)・中山記念・アルゼンチンジョッキークラブカップ・毎日王冠を優勝するなど、39戦17勝の成績で繁殖牝馬となり、1966年に初仔を生産した。それから1973年の配合相手は、イギリスからの輸入初年度であるステューペンダスが選ばれた。

ステューペンダスは、ボールドルーラーを父に持つ1963年生まれのアメリカ産馬で、1966年にプリークネスステークスで2着になっている。1968年からイギリスで種牡馬として供用され、1973年に日本に輸入された。

1974年2月22日、北海道伊達市の高橋農場で黒鹿毛の牡馬(後のラッキールーラ)が誕生する。早生まれで大きく育った仔は牧場で評判が高く、病気せず健康であった。早くから尾形藤吉調教師が注目しており、尾形が東京鐵鋼社長の吉原貞敏を紹介し、吉原が800万円購入した

仔に競走馬名を与えるにあたり尾形は、吉原がこれまで冠名として使用していた本業の鉄鋼業に関連する「アイアン」を「アイアンという名はどうも重すぎますよ」として敬遠した。そこで代わりに、吉原の「」から「ラッキー」を連想。そして仔の祖父、かつステューペンダスの父であるボールドルーラーから「ルーラー」を抽出して組み合わせ「ラッキールーラー」、さらにラッキーセブンを考慮して下の長音符を省き7文字の「ラッキールーラ」と命名された。1975年11月に東京競馬場の尾形藤吉厩舎に入厩した。デビュー前の調教では、ダートコースで好タイムを記録し「尾形の一番馬」と評判を集めた。

競走馬時代

3-4歳(1976-1977年)

1976年6月の札幌競馬場でデビューを予定していたが、身体が大きいことから先送りとなった。8月15日、函館競馬場の新馬戦でデビュー、伊藤正徳が騎乗し3着、続く2戦目の新馬戦も2着に敗れた。10月の中山競馬場の未勝利戦で初勝利、続く白菊賞はカネミノブに敗れて2着となったが、さざんか賞で2勝目、ひいらぎ賞はプレストウコウに敗れて2着となった。

4歳となった1977年、1月の京成杯2着、2月の東京4歳ステークス4着とどちらもヒシスピードに敗れた。3月の弥生賞では初めて拍車を装着して出走、5番人気に支持された。逃げの手に出て、カネミノブやプレストウコウを退けて優勝。弥生賞レコードでの重賞初制覇となった。皐月賞は、4番人気で出走。逃げて先頭で直線に進入したが、ハードバージに内からかわされ、それから2馬身半差をつけられた2着に敗れた。伊藤は「ゴールまであと600メートル地点では勝てると思ったが、外からくる馬にばかり気を遣っていたら(福永)洋一の馬に内を衝かれた。じわじわくる馬には強いが、一気にこられてなす術がありませんでした。(カッコ内補足加筆者)」と回顧している。続く東京優駿に向けて、トライアル競走のNHK杯に1番人気で出走し、先行したもののプレストウコウとそのほか2頭に交わされ4着に敗れた。

5月29日、東京優駿(日本ダービー)に出走。28頭立て7枠24番という外枠からの発走となり、単勝9番人気の支持であった。発走直後に先頭に立ったが、大外枠のワールドサバンナにハナを奪われ2番手で進んだ。最終コーナーにかけてワールドサバンナとの差を縮め、直線では内から位置を上げたカネミノブと並び、先頭争いとなった。やがてカネミノブを下したが、外から1番人気のハードバージが迫り、ラッキールーラに並びかけたところで決勝線を通過した。直後にハードバージの伊藤雄二調教師が勝利を確信していたが、写真判定の結果、ラッキールーラのアタマ差先着が認められた。

尾形は、14年ぶりの東京優駿制覇であり、フレーモア(1934年)トクマサ(1936年)クリフジ(1943年)クリノハナ(1952年)ハクチカラ(1956年)ハクショウ(1961年)メイズイ(1963年)に続いて8勝目。また伊藤は父伊藤正四郎がトクマサ(1936年)で制しており、親子制覇となった。その後は、夏休みを東京競馬場の厩舎で過ごした。

秋は10月、中山競馬場のオープン競走で始動。逃げ切り勝ちし、その3日後に関西に遠征した。菊花賞の前哨戦とした京都新聞杯は、単枠指定制度の対象となり1番人気で出走。逃げに出たが、プレストウコウにかわされ1馬身半差の2着。目標の菊花賞は追い切りの内容がよかったことも手伝って1番人気で出走した。ハイペースの2番手につけたこともあり、直線では全く伸びず15着に敗れた。伊藤は「僕の騎乗ミスだったのかな」と振り返る一方、尾形は「(伊藤)正徳に責任はない。結果論かもしれんが、長距離向きではなかった。2400メートルまでの馬だったんですな」としている。

12月に入って、左前脚に深管骨瘤を発症。長期の戦線離脱となり、福島県いわき市のJRA競走馬総合研究所常盤支所にある「馬の温泉」や北海道早来町の吉田牧場で快復を図った。

5-7歳(1978-1980年)

2年間の休養を経て、1979年、6歳12月の中山競馬場で復帰したが最下位。1980年、7歳でも現役を続行し、1月から5月にかけて4戦4敗。6月の札幌日経賞では、プリテイキャスト等相手に逃げ切り、32か月ぶりの勝利となった。尾形は、天皇賞(秋)から有馬記念に進み、年末に引退すると宣言した。しかし、その後は札幌記念9着、巴賞、函館記念では連続最下位となり、計画を前倒しして競走馬を引退した。11月30日に中山競馬場にて引退式が行われた。

引退後

引退後は日本中央競馬会が4500万円で買い上げ、日本軽種馬協会へ寄贈。1981年から胆振種馬場で種牡馬として供用された。馬体重が700kgを越えて、小柄な牝馬の相手が耐えられないこともあった。さらにペニスが大きく、射精に至るまでの時間が長いことから、スムーズな種付けすることができなかった。1986年には種付け5頭まで落ち込んだが、1987年にトチノルーラーがきさらぎ賞を制し、種付け頭数は39頭まで回復、種付け料も15万円から20万円に値上げした。

1990年、プレストウコウ、カツトップエース、ヤマノスキーとともに、所有者の好意で韓国に輸出され、ソウル郊外の韓国馬事会種馬牧場に繋養された。しかし1991年、事故により骨折。ソウルに運び、集中治療が施されたが、取り返しがつかない状況となり、5月12日に安楽死処分となった。残した僅か4頭の産駒の中から1996年-1997年韓国最優秀内国産馬のタンディチェイル(当代第一)を送り出した。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.comおよびJBISサーチ、『優駿』1988年2月号の情報に基づく。

主な産駒

  • トチノルーラー - 1987年きさらぎ賞、1986年新潟3歳ステークス・1990年鳥海大賞典(上山)2着
  • ダイカツジョンヌ - 1993年・1994年フェブラリーハンデキャップ→フェブラリーステークス3着、1993年帝王賞2着
  • ナエボルーラ - 1987年フラワーカップ3着、1986年北海道3歳優駿2着
  • ラッキーケイアイ - 1994年スプリンターズ賞(高崎)3着
  • ロングランシチー - 1991年新春杯・二十四万石賞(高知)3着

血統表


脚注

注釈

出典

Collection James Bond 007

参考文献

  • 『優駿』(日本中央競馬会)
    • 1988年2月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 24】黒い重戦車 ラッキールーラ」
    • 1991年2月号
      • 「ラッキールーラ、カツトップエース、プレストウコウ、ヤマノスキー、韓国に渡って種牡馬に。」
    • 1991年8月号
      • 「【今月のニュース&インタビュー】昭和52年ダービー馬 ラッキールーラ 韓国で死亡」

外部リンク

  • 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: ラッキールーラ by Wikipedia (Historical)