川上 義博(かわかみ よしひろ、1950年10月26日 - )は、日本の政治家。内閣総理大臣補佐官(野田第3次改造内閣)、参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、鳥取県議会議員(2期)等を歴任した。
鳥取県東伯郡琴浦町の農家に生まれる。鳥取県立由良育英高等学校(現鳥取県立鳥取中央育英高等学校)、青山学院大学経営学部経営学科卒業。大学卒業後、相澤英之衆議院議員事務所に入所し、相澤の秘書を務める。1990年、相澤が第2次海部内閣で経済企画庁長官に任命された際は、大臣秘書官も務めた。
1995年、鳥取県議会議員選挙に東伯郡選挙区から出馬し、初当選した。県議時代は自由民主党に所属していた。2003年の第43回衆議院議員総選挙に際しては、自民党で鳥取2区での公認を目指していたが、公認争いでは相澤英之に敗北。そのため自民党を離党して鳥取2区から無所属で出馬し、次点の民主党の山内功に1,500票の僅差をつけて破り、当選した(当選同期に加藤勝信・西村康稔・武田良太・古川禎久・萩生田光一・城内実などがいる)。一方、自民党公認の相澤の得票数は山内をも下回り、党の比例区73歳定年制により重複立候補もできなかったため、比例復活もならず落選し、そのまま政界を引退した。保守系無所属の新人議員5人で院内会派「グループ改革」を結成し代表に就任したが、2004年12月に自民党に復党し、亀井派に入会。
2005年7月、郵政民営化法案の採決で反対票を投じたため、9月の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、鳥取2区から無所属で出馬。自民党新人の赤沢亮正に約6千票差で敗れ、落選した。選挙後、党紀委員会から離党勧告を受け、再び自民党を離党。2006年、民主党に入党。郵政造反組で民主党に鞍替えしたのは川上が初めてである(後に松宮勲や小林興起らも民主党に入党)。2007年、第21回参議院議員通常選挙に民主党公認で鳥取県選挙区から出馬し、自民党の常田享詳を破り当選した。選挙戦では公共事業に抑制的な党本部の方針に逆らい、地方への公共事業の必要性を説いていた。2008年3月、日本銀行総裁の国会同意人事において、武藤敏郎総裁案の採決で、反対の党方針に反して棄権した。
2010年の第22回参議院議員通常選挙では、自民党出身者ながら「鳥取を悪くしたのは自民党」と、古巣の自民党を批判する選挙運動を展開し、民主党が擁立した医師の坂野真理(坂野重信元自治大臣・国家公安委員会委員長の孫娘)を支援したが、坂野は自民党公認の浜田和幸に惨敗し、川上は鳥取県連代表を辞任した。2012年の民主党代表選挙では「女性宰相を誕生させる会」を発足させ、田中眞紀子の代表選出馬を目指していたが、田中は代表選への出馬を拒否し、野田佳彦首相の再選を支持したため、頓挫した。同年10月、第3次野田改造内閣で内閣総理大臣補佐官(政治主導による政策運営及び国会対策担当)に任命された。
2013年の第23回参議院議員通常選挙では、選挙前に民主党を離党した議員(植松恵美子、川崎稔、平野達男、室井邦彦らがいる)を「『民主党では戦えない』と自己保身に走っただけ」と批判し、「民主党の復活・再生をこの手でなし遂げたい」と気勢を上げたが、民主党への逆風から選挙戦では「政党より個人」を掲げた。そのため、選挙戦で冷遇された民主党や支持母体の連合の反発を受け、無党派層の支持も取り込めなかったため、自民党新人の舞立昇治に敗北した。同年12月、民主党を離党した。
2015年2月21日、米子市内で開いた新年会において、自民党への復党を目指す意向を表明した。また、第24回参議院議員通常選挙における自身の比例区での擁立を復党の条件に挙げたが、公認は得られず、立候補できなかった。2016年2月4日、自民党時代に所属していた亀井派の流れを汲む二階派に入会。川上の復党を目指す動きに対し、自民党鳥取県連会長の石破茂が二階俊博幹事長に対し、復党に反対する考えを伝えた。
人権擁護法案に関し、同法案の成立に反対する議員で結成された議員連盟である「真の人権擁護を考える懇談会」に参加していた。
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