![川上俊彦 川上俊彦](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Kawakami_Toshitsune.jpg)
川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元年12月29日) - 1935年(昭和10年)9月12日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した外交官、実業家である。外交官時代はロシア関連の役職を歴任し、日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め、ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺事件に遭遇した。退官後は日魯漁業社長などを務めた。
村上藩士・川上泉太郎の長男として越後国村上(現在の新潟県村上市)で生まれる。幼名は銀太郎。
新潟師範学校を中退し東京外国語学校ロシア語学科に入学。1884年に卒業後、外務省に入省。1900年、ウラジオストックの貿易事務官となり、日露戦争開戦時には残留邦人の救出に尽力した。1904年(明治37年)9月、外交顧問として遼東守備軍司令部付となり、次いで満洲軍総司令部付となる。1905年(明治38年)1月5日、水師営で行われた第3軍司令官乃木希典と旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリの会見では通訳を務めた。1906年(明治39年)に再びウラジオストクの貿易事務官を務めた後、1907年(明治40年)、ハルビン総領事となる。1909年(明治42年)10月26日にハルビン駅で発生した伊藤博文暗殺事件では、随員だった川上も巻き込まれ、流れ弾が命中し負傷した。
1913年(大正2年)12月から南満州鉄道理事を務める。1917年(大正6年)に外務省臨時調査部嘱託としてロシア出張を命じられる。1920年(大正9年)11月、初代駐ポーランド公使となり同国と通商航海条約を締結。1923年(大正12年)に帰国後、東京市長後藤新平が招へいしたソ連駐華全権公使アドリフ・ヨッフェと日ソ国交樹立に向けた非公式予備交渉を行う。次いで1925年(大正14年)の日ソ基本条約締結後、北樺太利権交渉団の顧問となった。
1926年(大正15年)8月16日、北樺太鉱業会長に就任。ついで1929年(昭和4年)から日魯漁業社長を務める。1935年、鎌倉の別邸で死去。墓地は多磨霊園にある。
個人の書簡や報告書等が国へ寄贈され、外務省外交史料館に所蔵されている。
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