第15回衆議院議員総選挙(だい15かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1924年(大正13年)5月10日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。
虎ノ門事件の責任を取り山本権兵衛内閣が総辞職し、後継首相として枢密院議長清浦奎吾に大命降下があった。清浦内閣は、1924年1月7日に成立するが、外務・陸海軍大臣を除く、全閣僚が貴族院議員であり、かつそのうちの半数がかつて清浦が代表だった研究会所属という顔ぶれだった。このため清浦内閣は「貴族院内閣」「特権内閣」などと呼ばれ、政党や言論界、そして国民世論から乖離しているとして、清浦内閣打倒を目指した第二次護憲運動の高揚を見ることとなる。
政党では、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党が提携していわゆる護憲三派(ごけんさんぱ)を結成する。三浦梧楼の斡旋により、1月18日三浦邸にて、加藤高明憲政会総裁、高橋是清政友会総裁、犬養毅革新倶楽部盟主は三党首会談を開催、政党内閣の確立、貴族院、官僚等、清浦内閣の支持勢力たる特権勢力の専横防止、三党の一致結束および清浦内閣退陣を申し合わせた。だが、立憲政友会の実力者床次竹二郎らが政権獲得を優先して脱党し、1月29日政友本党を結成して清浦内閣与党となった。一方、貴族院では清浦の威を借りる最大会派・研究会の強権的な議会運営に他の会派からの反研究会の動きが高まった。彼らは直接的には憲政擁護運動とは関わらなかったが、護憲三派に好意的な態度を見せた。
1月31日清浦内閣は、議会外における護憲三派の行動などを理由に衆議院を解散する。本来清浦内閣は5月10日の衆議院の任期満了までの選挙管理内閣として見られていたにもかかわらず、清浦が政権続投への意欲を見せ始めた事の表れだった。この解散は「懲罰解散」と呼ばれ国民各層の憤激を買った。なおこの総選挙は大正13年2月8日公布の詔書によるが、関東大震災の被災の影響で選挙人名簿作成に時間を要したため投票日がずれ込み、本来の任期満了予定日だった5月10日までの100日間を要したため、事実上の任期満了選挙となった。
選挙結果は、護憲三派が281名を当選させ絶対多数を獲得。清浦内閣与党の立場にあった政友本党は選挙前の149議席から33減らして116議席に留まった。清浦内閣は退陣し、組閣の大命は護憲三派の中の最大会派・憲政会の加藤高明に下った。
憲政会 政友本党 立憲政友会 革新倶楽部 実業同志会 中立
※空欄の選挙区は複数定数選挙区の2位以下の当選を示す。
憲政会 立憲民政党 立憲政友会 政友本党 実業同志会 中立
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