羽田内閣(はたないかく)は、副総理兼外務大臣、衆議院議員及び新生党党首の羽田孜が第80代内閣総理大臣に任命され、1994年(平成6年)4月28日から1994年(平成6年)6月30日まで続いた日本の内閣。
細川内閣総辞職を受けて、同じ非自民・非共産の枠組みで政権を継承したが、日本社会党の連立離脱により少数与党での発足となり、在任64日で退陣やむなきに至った。在任期間は日本国憲法下では2番目、明治憲法下を含めても日本の憲政史上4番目に短い内閣に終わった。
1994年(平成6年)4月28日任命。在職日数1日。
1994年(平成6年)4月28日任命。在職日数64日。
1994年(平成6年)4月28日任命。
1994年(平成6年)5月10日任命。
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
1994年(平成6年)4月25日、細川内閣の退陣に伴い、自由民主党・日本共産党を除く与党7党1会派(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合)と、自民党を離党した議員により結成された3党(自由党、改革の会、新党みらい)が、新生党党首の羽田孜を国会で首班指名した。
新生党代表幹事の小沢一郎、公明党書記長の市川雄一、民社党書記長の米沢隆を中心とする「ワン・ワン・ライス」が主導する政権運営に反発する新党さきがけと、結成して間もなく、また「第3極」路線を打ち出していた新党みらいは閣外協力を表明した。
首班指名直後、社会党の影響力低下を目指して新生、日本新、民社、自由、改革の会の5党が統一して衆院会派「改新」の結成を発表。ところがこれには社会党が強く反発し、翌26日に連立政権からの離脱を表明。この結果羽田内閣は少数与党内閣として発足することになった。
この混乱から組閣には手間取り、28日になってまず午前8時55分に羽田が参内して首相の親任式に臨み、組閣が完了したのはその日の午後で、改めて皇居で閣僚の認証式を行なったのは午後6時15分からだった。このためこの9時間余の間は首相がすべての各省大臣の臨時代理と大臣庁等の委員長・長官の事務取扱を行なった(一人内閣)。
内閣官房長官の熊谷弘は「いずれにしても暫定的な内閣だと覚悟していた。どうやって連立を維持すれば次の段階にいけるかと。(連立与党内は)正直言ってばらばらになりかけていた。新生党内もそうだったんじゃないかな。僕は党レベルの動きには一歩遅れた。情報が無いわけじゃないんだが、次々と進行するから少しずつずれてね」と述べている。
外相には自民党を離党したばかりで自由党の柿沢弘治が抜擢された。
法相の永野茂門が就任直後、「南京大虐殺はでっち上げ」と発言したことが問題となり、就任11日目で辞任に追い込まれた(事実上の更迭)。
新年度予算の成立、規制改革による物価抑制を訴え、公共料金の年内値上げ凍結を打ち出した。
細川内閣が迷走の末に政治資金疑惑の混乱により瓦解、そして羽田内閣発足に際しての一悶着、就任直後の外遊、帰国早々には永野法相の更迭など、騒動が続いた第129回通常国会は、そのあおりで5月になっても平成六年度予算の審議にまったく入ることができず、すでに年度明け4月1日に50日間で11兆0514億円という大型の平成六年度暫定予算をギリギリで可決し、これが失効する5月20日には期限を会期末の6月29日まで40日間延長して10兆8930億円を追加した平成六年度暫定補正予算を可決して何とか急場をしのいでいた。そのため羽田内閣の当面の課題は平成六年度予算案の会期内成立に絞られた。
その平成六年度予算案が参議院で可決され成立したのは6月23日のことだった。すると予期されていた通り、自民党はその日のうちに羽田内閣が少数与党内閣で民意を反映していないこと、またその二重権力構造が民主主義に背くことなどを理由に挙げて、羽田内閣不信任決議案を提出した。本会議は25日正午に開会されることが決まっていたので、そこに不信任決議案が上程され自民党と社会党の賛成多数で可決されることが必至となった。羽田は一時は解散も考えたというが、解散はさらなる政治空白を生むことになり、そもそもこの時衆議院の小選挙区制への移行は決定していたものの新しい選挙区区割り法はまだ成立しておらず、このまま解散をすれば従来の中選挙区制での総選挙となり、それでは過半数を取れる見込みなど到底なかったので、結局解散は断念し、本会議開会の直前に衆議院議長に対して内閣総辞職を通知した。羽田内閣は文字通りの予算管理内閣に終わった。
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