大洲城(おおずじょう)は、四国の伊予国喜多郡大洲(現・愛媛県大洲市大洲)にあった日本の城。別名としては地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城(大洲の旧称)などがある。
大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現・八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはやや鄙びた立地ながらも交通の要衝と言える場所にあった。伊予宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。
江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。また、明治維新後から現在に至る地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって完成往時を忠実に木造復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。大洲市によると二の丸御殿跡の発掘調査の計画はあるが予算の関係で建物の木造復元計画はない。
この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年/元弘元年(1331年)のことであると伝わる。
豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎えた。伊予宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。天正初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。
その後は戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備された。江戸時代初期の慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が転封され、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後は加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め、明治維新を迎えた。
維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存された。しかし天守は老朽化と構造上の欠陥のために明治21年(1888年)に解体された。現在の天守は伝統工法を用い、平成16年(2004年)に復元されたものである。
天守は本丸の南東隅に建てられ、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し渡り櫓で連結した複合連結式層塔型4重4階である。中央付近に心柱が通され、それに伴い2階の床には吹き抜けが造られていた。外観は、下見板張りで、比翼千鳥破風、千鳥破風、向唐破風で屋根を飾り、窓には連子窓が多用されたが、2階には華頭窓のみが並べられていた。
現在の天守は、大洲市市制施行50周年記念事業として平成16年(2004年)に竣工したもので、第二次世界大戦後初の当時の工法・木造で復元されたものである。明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形(木組み模型)など内部構造を知ることができる資料が充実していたため、往時の姿を正確に木造復元することができた。このように、多くの資料が残ることは稀である。
また天守の高さは石垣の上から19.15mあり、本来なら建築基準法で木造では認められない規模であったため、当時の建設省や愛媛県は建設計画をなかなか認めなかったが、大洲市により2年近い折衝を経て、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、往年の複合連結式による天守群の木造復元に至った。天守の木造復元資金には、民間からの浄財が多く寄せられ、その寄付者の名簿は天守内にレリーフで残されている。
天守の木造復元によって国土技術研究センターから第七回国土技術開発賞を受賞した。
木造復元天守は文化財指定を受けていないため、バリューマネジメント社(大阪市)が大洲市や伊予銀行などの協力を得て、城への宿泊を受け付ける(年間30日まで)。
以下はいずれも国の重要文化財に指定されている。
5歳以下の幼児、高齢者手帳もしくは身体障害者手帳の所持者とその付添いは無料。団体割引あり。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou