西淀川区(にしよどがわく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。
市内有数の工業地区として発展してきたが、近年は不況により撤退・廃業した工場の広大な跡地が増えたため梅田へのアクセスの良さからマンション建設が進み、住宅地としての整備も進んでいる。人口はここ数年緩やかな増加傾向。西側の中島には中島工業団地がある。
淀川が運ぶ土砂が堆積して土地が形成された。古代は難波八十島とも呼ばれ、多くの島に分かれていた。御幣島・姫島などの地名は、この地が島だったことの名残だとされる。古代には現区域付近一帯は住吉大社の領地だったといわれる。
中世までは漁業を主としていたが、江戸時代以降は新田開発が行われ、漁業とともに農業が行われるようになった。明治時代後期以降地域に工場が進出した。昭和初期(1930年代ごろ)から重工業地帯となった。一方で1950年代以降は公害が深刻な社会問題となっている。その後1970年代以降は大工場の撤退が相次ぎ、跡地に住宅開発が行われている。
明治時代の町村制実施により、現:西淀川区の区域には西成郡千船村・稗島村・歌島村・鷺洲村・福村・川北村が発足した。千船村・稗島村・鷺洲村はのちに町制を施行している。
1925年4月1日の大阪市第二次市域拡張により、西成郡鷺洲町・千船町・稗島町・伝法町・歌島村・福村・川北村が大阪市に編入され、西淀川区が新設発足した。区名については、当初の案では「下淀区」、次いで「姫島区」が答申されたが、最終的には西淀川区に決定した。
区役所は旧鷺洲町役場(西淀川区浦江町、現在の福島区海老江6丁目1番付近)に置かれた。また旧千船町役場(西淀川区大和田町、現:大和田5丁目)を転用して区役所出張所とし、おおむね淀川北岸一帯の地域に関する業務を担った。
1941年4月21日に当時の東淀川区三津屋町・十三南之町三丁目の一部を西淀川区へ編入し、当時の西淀川区塚本町の一部を東淀川区とする区域変更を実施した。
1943年4月1日には大阪市の22区への分増区および行政区境界見直しが全市的に実施された。これに伴い、淀川以南の区域、および淀川以北の東海道本線以東の区域を他区に分離することになり、現行の区域となった。他の行政区に移管された地域は以下の通り。
1943年の区の境界変更により、従来の区役所出張所が区役所本庁舎となった。
太平洋戦争の戦局悪化のため、1945年6月12日には区役所を大和田東国民学校(現:大和田小学校)に仮移転・疎開させ、重要書類などを大和田東校の鉄筋コンクリート校舎に移した。その3日後の大阪大空襲により、従来の区役所庁舎は全焼した。
1947年3月に現在地に区役所庁舎(初代)が竣工した。初代庁舎は西成区今宮国民学校・大正区中泉尾国民学校の元校舎などを転用して建設されている。1957年3月には2代目庁舎が完成し、さらに2005年5月には3代目庁舎(現庁舎)が完成している。
1970年代までは大気汚染により、住民は慢性気管支炎や喘息などの公害病に悩まされた。1970年11月までに公害被害者に認定された患者は1055人に達し、西淀川区(当時の人口約11万人)のうち100人に1人は公害病に認定されたことを意味した。この比率は、当時、同じく公害に悩まされていた三重県四日市市や神奈川県川崎市を大きく上回る値であった。
※1995年の国勢調査では、同年1月の阪神・淡路大震災の影響で人口が大幅に減少した。
区役所の最寄駅:御幣島駅
1943年3月31日までは、現在の此花区高見・伝法地区の全域、現在の福島区海老江・鷺洲地区の全域と大開地区の一部、現在の淀川区加島・塚本地区の全域も西淀川区であった。 西淀川区塚本町は現在の野里1丁目21番地・22番地・28番地・29番地の一部に1973年まで存在した。
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