大石寺(たいせきじ)は、日蓮正宗総本山の寺院である。宗祖は日蓮。正応3年10月12日(1290年11月15日)、第二祖(開祖)日興によって開創された。寺号の大石寺は地名の大石ヶ原(おおいしがはら)に由来する。開基檀那は南条時光。
山号は「多宝富士大日蓮華山」(たほうふじだいにちれんげさん)で、「大日蓮華山」とも言う。
身延山を下山した日蓮の弟子である日興が最初に開いた寺院であり、日蓮の信者であった南条時光の支援によって建立された。
日蓮が定めた六老僧の一人である日興の法脈を継承しているので興門流とも呼ばれ、勝劣派、宗祖本仏論、不受不施を奉ずる富士門流に属す。
後に大石寺を辞して重須に移った日興の本陣寺である北山本門寺、北山から分派した西山本門寺、 南条家の屋敷を寺院とした下条妙蓮寺、大石寺の真の後継者であった日郷が建てた小泉久遠寺とともに、日興門流の所謂「富士五山」の一つであり、さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」の一つとも称される。
明治期には富士門流の統一教団日蓮宗興門派(のち本門宗)の結成に参加し、興門八本山より輪番制で就任する同宗の管長には、第4代として大石寺55世の日布、第15代として大石寺56世の日応などが就任した。
以上の経緯は、当時の明治憲法による門下統一の指針に従っての致し方なくされた暫定措置でもあった。
しかし、大石寺傘下の末寺に於いては他山の影響力は殆どなく、大石寺の貫主を法主として信奉していたので、明治憲法の改正に伴って、ようやく大石寺を日蓮正宗の総本山として、独立したのである。
戦後は上述の下条妙蓮寺をはじめ、香川の讃岐本門寺、宮崎の日向定善寺などが本山格寺院として日蓮正宗に帰一した。
所在地は静岡県富士宮市上条2057番(北緯35度16分41.98秒 東経138度35分19.99秒)。墓苑の一部は同市北山に属する。駐車場、売店を除く境内地は墓苑を含めて南北約1550m、東西約1150mである。
明治の作家・大町桂月は、「大石寺を見ずして寺を語ることなかれ」と評している。
日蓮正宗では、大石寺に参詣することを「総本山に登る」という意味から「登山」という。
1950年代初期に、創価学会の第二代会長・戸田城聖によって、創価学会員の大石寺への月例登山会が実施されるようになった。その後、法華講(古くからの信徒組織)でも、法華講連合会の発足後は、法華講員の月例登山会などを行うようになった。
それ以降、1991年に日蓮正宗宗門が創価学会に破門を通告するまでの間は、学会員の登山者数の方が、法華講員の登山者数よりも圧倒的に多かった。
現在(学会員が日蓮正宗の信徒資格を喪失した1997年以降)は、大石寺に登山・参詣できるのは、法華講員のみに限られる。日蓮正宗の信徒でない一般の人は、境内の散策・見学は自由ではあるが、教義と防犯上の理由のため、奉安堂内部への立ち入りは禁止されている。
その他の堂宇に於いては外部からの見学や参拝は自由になっているが、堂宇内に立ち入っての参拝はできない。
しかし特例として宿坊である石之坊に於いては午前9時から午後5時まで、法要が行われている時以外は自由に堂内に立ち入ることができる。
日蓮正宗信徒以外の一般の人が諸堂宇内部に立ち入ることが禁止されている理由としては、破門した創価学会員や顕正会員等がいたずら目的に紛れ込んで、堂宇や境内に対して迷惑行為を働かせない為の防犯目的でもある。
また、信徒であっても総本山到着時に内拝券の交付を受けていない場合は奉安堂内部への立ち入りはできない。
さらに、毎年4月6日・7日は霊宝虫払い、11月20日・21日は宗祖御大会の二大法要が奉修されるため、あらかじめ大石寺から許可を得た信徒以外は大石寺境内への参詣はできない。
大石寺境内は基本的に賽銭箱は一切置いておらず、信者でない者からの寄付は一切受け付けておらず、不受不施の精神は今も行われている。
大石寺内部の諸堂宇には歴代法主が書いた板曼荼羅が安置されており、基本的に仏像類は一切安置されていない。
日蓮の六人の弟子の一人である日興は身延の地頭・波木井実長と意見の相違で身延山久遠寺を離山する。後に、上野の地頭であった南条朝臣時光の招請を受けて正応3年(1290年)、富士山麓の大石ヶ原に移り住んだのが大石寺のはじまりである。これに供奉した主要の弟子が塔中(脇寺)を建立し、現在の大石寺の原型ともいえる姿ができた。
その後、江戸時代前半の第17世日精の御影堂再建にはじまり、第25世日宥時代の三門建立、第27世日養時代の客殿再建、第31世日因時代の五重塔建立(寛延2年〈1749年〉)によって、江戸時代中期には主要な伽藍が整った。このころ活躍した狩野派の絵師・狩野舟川(かのうしゅうせん、生没年不詳)により描かれた『大石寺境内図』(縦3.2m×横1.9m、大石寺蔵)には、当時の大石寺山内の堂宇が精巧に描かれており、今日見られるような景観となっている。
大石寺は、「本門戒壇の根本霊場」と位置づけられており、本門戒壇が建立されたときは正式寺号である大本門寺を公称するとの言い伝えもある。また、「本門戒壇の大御本尊」が安置されていることから、この世における唯一の常寂光土とも位置づけられている。
江戸時代、仏教の諸宗派の教学研究の拠点は各本山から檀林に移った。大石寺は、勝劣派である日興門流の他の本山や日隆門流の各本山とともに細草檀林を創設した。19世紀にはいり、細草檀林の化主を大石寺が連続して輩出するようになり、明治初頭の閉林までの歴代96人中42人が大石寺の出身となった。
また、大石寺は江戸城では独礼席を許され、また大石寺第25世日宥は後水尾天皇の皇孫であり第6代将軍徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)に迎えられているほか、将軍家や大名家、江戸時代著しく力の衰えていた皇室・公家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動は江戸幕府の厳しい統制を受け続けた。
明治時代の動きは次のとおり。
境内(敷地内)には、五重塔(重要文化財)、御影堂(県指定文化財)、三門(県指定文化財)などの堂宇がある。1998年に純和風の客殿、2002年に宗旨建立750年を記念して、正本堂跡地に奉安堂(伝宗祖日蓮真筆「本門戒壇之大御本尊」を安置)が建立された。そのほかに1958年建立の大講堂や1988年建立の六壷、1994年建立の広布坊などがある。
境内地東方には11ヘクタール、16,000基となる日蓮正宗の墓苑があり、大石寺歴代住職でもある総本山法主の墓地、僧侶墓地に続いて一般信徒の墓地もある。一般信徒の墓地には日蓮正宗の熱心な信者でもあった創価学会初代会長の牧口家の墓や第二代会長戸田家の墓(なお、戸田城聖・創価学会第二代会長本人の墓は、五重塔のそばに建っている)などがあるほか、俳優赤木圭一郎の墓もある。大石寺の総門・三門から御影堂に至る参道には中央塔中(脇寺)が立ち並んでいる。これら中央塔中は大石寺開山直後の建立であり、いずれも700年を超える古刹である。また、諸堂宇は耐震強度の問題から、十八箇坊の新築工事を行い、完成と同時に順次落慶法要が奉修された。
大石寺境内には桜の木が数多く植えられており、中央塔中の枝垂れ桜は景勝地として知られているほか、境内を南北に流れる御塔川(潤井川)や常灯ヶ峰の桜は静岡県内の名所として有名である。開花の時期に合わせて多くの観光客やカメラマンが訪れるが、霊宝虫払大法会が行われる毎年4月6日と7日は、曜日に関わらず一般者の立ち入りが禁止されるので注意が必要である。
総門と三門を結ぶ石畳の両側には、総門より三門に向かい左手に、2階建ての常灯坊、柱に遮られることのない1000畳を超える大広間を持つ広布坊、総二坊があり、右手には常来坊と、総二坊と石畳を挟んでシンメトリーのように総一坊が聳え立っている。この総一坊・総二坊ともに230畳を超える広間が、1階に1室、2階と3階にそれぞれ4室(4室のうち2室に本尊が安置)があり、信徒の宿坊や集会所として使用される。総一坊東側玄関前には団参用のバスターミナルもあり、三門前には国道469号が横断している。また三門より中央塔中を上りきって右手に折れると、大石寺開山700年記念事業で整備された日本庭園「法祥園」が明鏡池を中心としてひろがり、その右手には東塔中がある。
これらの重宝は「御霊宝」と称され、毎年4月7日に奉修されている御霊宝虫払大法会で虫干しされ、参詣檀徒に披露されている。本尊については120体ほど収蔵されているが、虫払大法会で虫干しされる本尊は9世・日有以前の60体ほどで、残りの本尊は日を改めて関係者のみによって虫干しされる。また、盂蘭盆会の際、客殿内の特設祭壇には現法主書写(最新)の大坊重宝常住御本尊1体が奉掲される。
開山以来、大石寺住職は「日蓮の法を内証に付嘱される総本山法主」と位置づけられ、大石寺の末寺すべてを束ねる。現在でいう包括宗教法人である「宗教法人日蓮正宗」の代表役員、管長である。
このほかに坊舎などあわせて50以上の堂宇からなる。
大石寺境内の坊舎は、数百から数千人を収容できる大型の坊舎5つと、二十数ヶ坊からなる塔中坊に大別され、いずれも登山信徒の休憩・宿泊坊になっている。また、大型の坊舎は各種行事のメイン会場・サブ会場にも利用されている。
総門を入ると広大な「広布の広場」があり、その西側に、広布坊と総二坊が建ち並び、広布坊の南側に常灯坊がある。広布の広場の東側には常来坊と総一坊があり、常来坊の東側には登山事務所(平成3年(1991年)7月に総一坊1階に開設)が設置されており、登山事務の一切を行っている。
三門と中門の間の石畳の参道の両側に建ち並ぶ12ヶ坊を中央塔中と呼ぶ(蓮蔵坊を含めることもある)。中門の東側にある法祥園と潤井川に挟まれて南北に並ぶ5ヶ坊が東塔中である(石之坊、雪山坊、蓮葉庵、富士見庵を含めることもある)。最も北にある妙遠坊は御影堂の真東に位置する。中央塔中の西裏の3ヶ坊が西塔中であり、客殿の真南に位置する。
塔中の各坊にも、全国の末寺と同じように、法華講の支部が設置されているが、このうち、理境坊には法華講理境坊支部(古い時代からの法華講中)と理境坊所属妙観講支部が、また、南之坊には法華講南之坊支部(古い時代からの法華講中)と南之坊所属蘇生講支部がある。一方、檀家がいない坊や数所帯のみの坊では支部が結成されていない。
日興、日目の弟子によって正応3年(1290年)から延元2年(1337年)の間に創建された各坊である。参道の敷石は昭和36年(1961年)に拡張され現在に至っている。その両脇には富士山の湧き水が流れ、春には参道を覆うように枝垂れ桜が咲き乱れる。
なお、大石寺創建の正応3年(1290年)に創建された塔中坊は、蓮蔵坊、理境坊、久成坊、上蓮坊(後の百貫坊)、寂日坊、少輔坊(後の南之坊)の6ヶ坊であったが、蓮蔵坊は宝永2年(1705年)、第24世日永が再興して学頭寮とした。現在の建物は多宝蔵の北側(中門と法祥園の間)にあり、登山信徒の宿坊としては利用されていない。
西塔中(にしたっちゅう)と称す。かつては妙遠坊もあったが、現在は東塔中に移り、その跡地に遠寿坊が移転新築された。
東塔中(ひがしたっちゅう)と称す。石之坊の本堂を「常唱堂」と呼び、その境内には日興が富士上野の地に移ってから大石寺大坊が完成するまでの間、説法のために座ったと伝承される大石「説法石」がある。
この他に、大石寺総門より約2km離れた場所に下之坊(しものぼう)がある。日興が身延を離山されてまず寄宿されたのが下之坊であるとされるが、その下之坊は現在の下之坊より北に位置していたと考えられる。総本山19世日舜が大石寺を退かれるにあたり、現在の地に旧名を襲って再興したと考えられる。曽ては大石寺の一つの坊であったが、下之坊は大石寺の境内地の外にあるため、現在は静岡北布教区(大石寺を除く富士宮市)の管轄となる。下之坊の境内には本堂のほかに三師塔、墓所、旧本堂などがあり、また、広範囲にわたる藤棚は誠に見事であり、富士宮の観光名所でもある。
身延を離れた日興が暫く逗留したのもこの地であり、荷物を解いたときの蔓(つる)がそのまま根付いたとされる「かなと蔓」が生えている。毎年12月15日には法主の導師により、下条妙蓮寺ほか近隣の寺院の住職や大石寺の役僧を迎えて下之坊におけるお会式が奉修される。
五重塔の後方、駿河湾を一望できる木立に囲まれた丘の上にある墓地は、昭和44年(1969年)6月に御影堂裏手から移転し開苑された。総面積は、109,652平方メートル(33,000坪)であり、三師塔、歴代法主墓地、典礼院などがある。
その他、各地に出張所が存在する。
また、2006年6月には、宗務院発行の書籍類などを出版・発売する新たな出版社として設立された大日蓮出版(代表取締役社長・宮野審道(宗務院副教学部長、東京都墨田区・妙縁寺住職))の本社も大石寺内に設置され、同年9月に、大石寺境内に隣接する場所で起工式が行われて社屋が建設され、同年12月18日に落成式が行われた。2007年1月から、落成した社屋での業務が開始されている。
これらの行事は法主の導師のもと奉修される。
〔〕は法要会場。太字は特別法要
1月・7月中毎朝 唱題行〔客殿、登山会中は大講堂を使用することも〕
これらの法要は法主の導師のもと奉修される。
〔〕は法要会場と開式時間(変更が生じる場合あり)。太字は宗門主催の特別法要
上記以外で、歴代法主の遠忌法要等の宗門法要も執り行われる。
太字は記念行事
出典:
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