富士吉田市(ふじよしだし)は、山梨県東南部の郡内地方にある市。郡内地方の中心都市である。国際会議観光都市に指定されている。
富士上吉田町・下吉田町・明見町の3町が合併する際、新市の名称をどうするかについて議論がされなされた。結果、「三町合同議会協議会」にて「吉田」という古い名称に「富士」を冠することで「富士吉田」という名称とすることとなり、現在に至る。
富士山の北側、富士五湖の中東部に位置する。東部を桂川が南から北に流れ、中部の裾野・盆地を宮川などの支流がやはり南から北に流れる。普段の流量は少ないが、大雨が降ると土砂を含んで一気に流れ下り、過去にはしばしば洪水を起こしたほか、富士山の雪解け時期に水分を含んだ大量の雪が雪代(ゆきしろ)として麓の町を襲ったこともあった。
市街地は富士山の裾野に南北に長く伸びる。標高が低い北側が下吉田、標高が高い南側が上吉田である。古い吉田の町の中心は下吉田にあったが、富士講の隆盛と共に富士山への登山口に近い上吉田に移動、のち鉄道が敷かれると再び下吉田方面に町の重心が移動した。近年は上吉田の国道139号沿いに商店が増えたため、重心がさらに南に移動している。これはモータリゼーションとからんで下吉田の商店街の衰退に拍車をかけ、シャッター商店街化したところも少なくない。最近では「まちがミュージアム!」と題して下吉田の商店街の空き店舗を活用した芸術作品等の展示会を行う取り組みもみられる。
市街の南西端には、富士河口湖町にまたがってレジャー施設「富士急ハイランド」がある。市の南側は富士裾野と呼ばれ、この付近には陸上自衛隊の訓練施設である北富士演習場がある。
農業に不向きな土地柄であることから、古くは雑穀栽培のほか富士裾野傾斜地に流れる流水を利用した水掛麦と呼ばれる独特の麦作を行い、ほうとうをはじめ粉食料理が日常食であった。第二次世界大戦戦には米も増産され食生活は転換している。ハレの日の食事として振舞われるうどんは現在でも市内の結婚披露宴等で振る舞われるほか、観光食としても位置付けられており、「吉田のうどん」と呼ばれている。市内には吉田のうどんの店が60軒以上存在する。
市街地が標高700mから900mに位置する高原都市のため、気候は非常に寒冷であり、冬には最低気温がマイナス15℃前後になることもあるなど北海道並みである。住宅なども寒冷地仕様で建てられている。夏季は冷涼で過ごしやすい。
富士吉田市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。
市域を含む富士北麓は富士火山活動の影響を受ける地域であり、火山灰や溶岩流などの堆積物に厚く覆われ、考古遺跡は未解明の部分が多い。縄文時代の遺跡は市域では大明見の古屋敷遺跡、新倉の池之元遺跡をはじめ火山活動の静穏期であった富士黒土層に多い。
寒冷な気候に加え農耕に不向きな火山性土壌であることから、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡は少ない。古代には再び火山活動が活発になるが、この時期には定住していた集落遺跡が出現する。
古代の律令制下では甲斐国都留郡に属する。
中世には鎌倉新仏教の影響も受けて富士信仰が興隆し、身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)を拠点に活動した日蓮や、時宗の二世他阿真教が市域を遊化し、上吉田には時宗寺院の西念寺が創建された。古代官道の甲斐路は中世には「鎌倉街道」と呼称され、宗教者が往来した。
戦国時代には富士北麓の年代記である『勝山記』に吉田の様子が記されている。甲斐守護・戦国大名の武田氏や郡内領の国衆である小山田氏が支配を及ぼし、甲斐・駿河間の国境であるため武田氏・小山田氏と駿河国の今川氏の係争地にもなった。
戦国期に集落は上吉田と下吉田に分離する。吉田は東西を川に画され掘などの防御施設を持つ自治的集落で、吉田山城が築かれた。上吉田には富士参詣の門前集落として御師(おし)が集住し、参道の両側には計画的な短冊方地割の御師町が形成された。
天正10年(1582年)3月には武田氏・小山田氏が滅亡し(織田信長らによる甲州征伐)、同年6月の本能寺の変による信長の横死を契機とする天正壬午の乱を経て、甲斐は徳川家康が確保する。郡内地方には徳川氏の家臣である鳥居氏が配置され、谷村(都留市谷村)が支配拠点となった。豊臣政権下での家康の関東転封後は豊臣系大名である加藤氏や浅野氏などが領し、市域でも豊臣系大名時代の発給文書が残されている。
徳川家が天下を掌握した江戸時代初期の寛永10年(1633年)には秋元氏が谷村藩主となり、3代70年あまりにわたって支配する。秋元氏時代にも谷村が支配拠点となり、都留郡において治水などの普請事業や郡内織の奨励などを行っており、市域でも秋元氏時代の史料が見られる。
宝永元年(1704年)には秋元氏が転封され、郡内領は谷村代官所支配下となる。享保9年(1724年)には甲府藩も廃藩となり甲斐一国は幕府直轄領化され、郡内は幕末に至るまで谷村代官支配となる。
近世には現在の古吉田にあった上吉田が西方に移転し、新たな町割が行われて上吉田と下吉田は一体化する。江戸時代に流行した富士信仰のほか鎌倉往還や富士道の途上にあたる物流の拠点として、街道沿いの計画都市が形成される。
市域には水利に乏しい溶岩台地が広がっていたが、秋元氏時代には河口湖(富士河口湖町)の湖水を市域に導水して新田開発することを目的とした、新倉掘抜の掘削が着工し、曲折を経て元治2年(1865年)に完成する。これは全長3.8キロメートルの日本最長の手掘りトンネルとされる隧道式用水路で、富士吉田市(および河口湖町)の指定史跡に指定されている。近世には水掛麦など農業生産力を向上させる工夫が行われる一方で、住民は副業として大工職を行い、郡内織は農閑期の主要産業として発展した。
また、富士北麓は薬草の産地としても知られており、市域にも薬園が設置されて山野利用されている。文化面では、村々で若者仲間など共同体組織を基盤に道祖神祭礼などの年中行事が行われ、御師家は江戸や京都から文人が往来する文化的拠点となった。
近世後期には全国的に商品流通経済の展開とともに農村荒廃や飢饉の発生、身分制度の動揺が起こる。農業生産力が低く織物産業に依存する郡内地方においてもしばしば飢饉が発生し、天保の大飢饉においては市域でも多くの餓死者や没落する百姓を出し、無宿の増加や博徒の横行を招く。
谷村代官所では取締や村役人との間に郡中惣代を置くなど対応策を講じるが、天保7年(1836年)には都留郡に発し、甲斐一国の大規模な打ちこわしとなった天保騒動となって暴発する。市域の村では参加者が出ておらず、鎮圧後には谷村代官として江川英龍(太郎左衛門)が旧弊改革を行い、市域でも英龍の改革を好意的に受け止めている。
幕末には御師のなかで浪士組や新徴組に参加して幕府側に加わる有志がいる一方で、明治元年(1868年)には上吉田の御師団有志29名が討幕運動に加わり、官軍として公認され蒼龍隊を結成する。戊辰戦争では東征大総督有栖川宮熾仁親王の護衛に参加し、同年5月の上野戦争でも戦っている。
近代には村の合併により耕地が整理され農業が発達するが、一方で水不足や水利権の争いも発生した。また、地租改正により富士裾野の入会地が官有地に編入されると地元の林産物採取が制限され、官有地下戻し運動が発生する。明治期には江戸時代以来の郡内織が発展し、洋傘地や服裏地の生産を行った。1875年(明治8年)には毎月1・5日が市日に定められ、富士道沿いに市が開かれ、東京や横浜、大阪方面とも取引を行った。
また、明治期には神仏分離により富士信仰も神道に改編され、上吉田の御師町では神仏分離の影響も受けた。明治20年代には交通機関が整備され、1889年(明治22年)には東海道本線(御殿場線)の御殿場駅が開設され、さらに1902年(明治35年)には中央線の大月駅(山梨県大月市大月)が開設し、大月駅から富士北麓に至る馬車鉄道が開通した。
日中戦争から太平洋戦争に至る戦時下には織物・観光業が統制され、大戦末期には武蔵航空株式会社が工場疎開し、1945年(昭和20年)7月30日には吉田空襲による被害を受ける。
戦後は1951年(昭和26年)3月20日に3町合併により市制に移行し、富士吉田市が誕生する。初代市長は堀内昇(下吉田町長)。市制移行すると富士吉田市は郡内東方の中核都市と位置付けらされ、官公庁や企業の出先機関が進出する。
戦後には織物業が一時的に復活するが、やがて高度経済成長期に織物の慢性不況により衰退する。一方で1964年(昭和39年)の富士山有料道路(富士スバルライン)の開通や1967年(昭和42年)の新御坂トンネル、1969年(昭和44年)の中央自動車道富士吉田線の開通により県内国中地方や首都圏他地域と接続され、観光都市に変貌する一方で、工場や大学の誘致も行われた。
一方で1913年(昭和13年)に富士北麓の旧入会地に設置された陸軍演習場は戦後に在日アメリカ軍演習所として拡大され、1973年(昭和48年)にアメリカから国に返還されると防衛庁所管の陸上自衛隊北富士演習場となり、山の権益を巡る北富士演習場問題が戦後山梨県政の課題となった。
富士山山頂部に、静岡県駿東郡小山町および富士宮市との間に境界(県境)未確定箇所がある。小山町と御殿場市の境界も未確定のため、同市と隣接する可能性もある。
富士五湖消防本部 富士吉田市松山五丁目10番13号
(富士吉田市松山五丁目10番13号)
一時衰退した地場産業の織物業も近年はファクトリーブランドの立上げなどにより復調しつつある。
富士信仰の聖地として江戸時代から栄え、近代も観光業が盛んである。
子育て支援の一環として、市立小中学校の給食を2019年10月から無料化した。
中心となる駅:富士山駅
富士山は市のシンボルであり、富士山関連の観光が地域経済に大きな比重を占めていることから、市役所に「富士山課」を置いて旅行客誘致や登山者の安全確保を図っている。
※ 五十音順、太字は故人
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