秦氏(はたうじ・はたし)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な帰化氏族である。
秦氏一族は稲荷神社などを創祀したことでも知られており、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草なども広めた。
天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。
平安遷都に際しては、葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとされる。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となった。なお、中世になり社家を継いだ羽倉家については、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒したことが疑われている。
『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を秦氏の祖とする。平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるが、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている。「弓月」の朝鮮語の音訓と訓読み(クンダル)が「百済」の和訓である「くだら」とほぼ同音であることから百済の系統とする説などがある。
葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ると、葛城氏の本拠地である葛城に住んだ。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国、伊予国など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)では湿地帯の開拓などを行った。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦とされており、山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もある。
河内国讃良郡にも「太秦」の地名が存在する(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土している(太秦古墳群)。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果がある。
雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた。欽明天皇の時代には紀伊郡深草里の秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾(おおくらのふびと)に任ぜられた。推古天皇30年には当時の中心的人物であった秦河勝が広隆寺を建立。皇極天皇の時代には上宮王家が所有する深草屯倉を秦氏が管理経営していたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した。
秦大津父は夢の中で狼を助け、それにより伴造となったが、この夢は、間接的に、狼=神が欽明天皇の即位を望んでいた(欽明の天皇即位の正統性を強調している)こと、欽明天皇の即位に秦氏の影があったことを表してると考えられる。
「深草秦氏」と「葛野秦氏」は、ほぼ同時期の6世紀に葛城から移住しており、まず肥沃な深草を拠点とした秦大津父が秦氏の族長となり、葛野の開発によって葛野秦氏が台頭し、族長の座が秦河勝の手に移ったと考えられる。そして、秦氏の族長は、『日本書紀』に「秦大津父が欽明天皇に『秦伴造』に任命された」という記事があるように、王権によって決められており、秦河勝や太秦公の姓を賜った秦島麻呂も同じであった。
秦氏は上宮王家と親密であったが、それはあくまで職務上のことであり、私的に臣従していたわけではなく、非政治的な一族であった。そのため、上宮王家が滅んだ後も秦氏が没落することはなく、蘇我氏と結びついて天武天皇に直接批判された東漢氏とは対照的である。
天智天皇は秦氏による山背国(山城国)への開拓(遷都)を進めていたが未開のままとなる。天応元年の桓武天皇即位により再び開拓がなされ、延暦3年(784年)に長岡京を造営する。延暦13年(794年)には和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、平安京への遷都となった。
『新撰姓氏録』によれば、応神14年(283年)に百済から日本に帰化した氏族であり、秦の始皇帝の末裔とも記述されている弓月君(融通王)が中心的人物とされる。
景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱された。
(主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。
秦氏には秦人、秦人部、秦部という部民が存在したが、その分類方法は以下の通りであったとされる。
そして、彼らを在地で管理したのが勝姓や秦氏であった。
構図としては、まずミツキを作る秦人、農作をする秦人部や秦部がおり、在地の勝姓が彼らを統率していたとされる。そして、勝姓は在地の秦氏によって管理され、在地の秦氏は都までミツキを送り、中央の豪族であった秦氏がクラに納めていたと考えられる。
正倉院文書に記述されている秦氏
前賢故実に記述されている秦氏
末裔・枝氏は60ほどあるとされる。
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