沢田 研二(さわだ けんじ、1948年〈昭和23年〉6月25日 - )は、日本の歌手、俳優、ソングライター。ザ・タイガース及び、PYGのボーカル。本名:澤田 研二(読み同じ)。身長171cm。血液型A型。
両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)生まれで京都府京都市育ち。ニックネームは『ジュリー』。妻は女優の田中裕子。義弟は俳優の田中隆三。前妻は歌手の伊藤エミ。
1960年代後半のグループ・サウンズ全盛期から最前線で活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,241万枚を記録。1982年から1991年までの9年間は歴代1位の座を保つ。アルバムも合わせた総売上は約1572万枚。ザ・タイガース、PYG時代も含めたシングルの総売上は1,668万枚に上る。
1948年6月25日、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現:鳥取市津ノ井)で出生。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。父親は若い頃、役者を目指し長谷川一夫の内弟子だったことがあり、美男は親譲りであった。父はその後、映画のスチールカメラマンになって衣笠貞之助宅に夫婦で同居したことがある。沢田が生まれた頃は、父は舞鶴市内の火薬研究所の取引先に勤務しており、二番目の子だったため「研二」と命名された。兄妹がいる次男である。3歳まで鳥取で育ち、父が京都左京区浄土寺東田町に家を建てたため、以降は京都の同地で育った。京都市立第三錦林小学校、同・岡崎中学校卒業後、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学、後に同校を中退。中学時代は"ケンカのサワケン"と洛東の学校に名を響かせるワルだった。
なお、同じ高校の同学年に女優の大信田礼子がいた。少年時代はプロ野球選手に憧れ、選手では川上哲治、藤尾茂が好きだった。中学では野球部のキャプテンを務め、ポジションは一塁手。京都市大会で4位になり、京都府大会に進出したが、ここで負けたことで野球選手の夢は諦めたという。高校では空手部に所属した。
京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳でローディー兼ボーカリストになった。そのステージを見たサリーとプレイボーイズのサリー(岸部修三=現・岸部一徳)からリード・ボーカルとして誘われ、翌年の元日にサリーとプレイボーイズに正式加入、グループ名は「ファニーズ」と改めた。
ファニーズは、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した際に、上条英男、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのるが東京・代々木上原の内田裕也の愛人宅を訪ね、瞳の熱意の甲斐あってメンバー全員が渡辺プロと契約。上京後、ザ・ヒットパレードのプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる。この時、内田に『沢ノ井謙』と言う芸名を勧められたが、本名でやりたいと拒否している。
1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気が爆発し、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループ・サウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。とりわけ端整な容姿を持ち、貴公子的存在として10代の少女や20代の女性を中心に熱狂的な人気を獲得した。
1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート。なお、ソロとしてのスタジアムコンサートは田園コロシアム(ザ・タイガース、PYGとしても開催)、大阪スタヂアム、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、京セラドーム大阪で開催している。
1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌の一つ『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。
1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」でグループは解散した。
ザ・タイガースの解散後、1971年2月1日、新たなバンド・PYGに参加する。英米で結成されたクリームやブラインド・フェイスのようなスーパー・グループで、ザ・スパイダースから井上堯之と大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一、大口広司、ザ・タイガースから沢田と岸部修三という6人のメンバーによって結成された。このバンドは沢田と萩原によるツインボーカルで、井上、大野、岸部ら作詞や作曲、演奏ができる技巧派が揃い、本格的なニューロックを目指した。
しかし、日本ではまだ反体制のジャンルとされていたロックを、当時最大手の芸能事務所だった渡辺プロダクションの所属ミュージシャンが演奏することに対し、「商業主義」「芸能界が創り出したもの」として、コンサートではPYGにトマトや空き缶を投げつける聴衆もいた。
1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でソロデビューしたが、オリコン週間チャートでの最高位は23位、累計売上は10万枚だった。GSの先輩であったザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦プロデュースの下、長く音楽ランキングトップ10にチャートインし続けた沢田のソロ活動のスタートであった。
1972年3月11日発売の「許されない愛」がオリコン最高位4位を記録し、ソロとして初のオリコントップ10入りを果たした。一方、PYGのもう1人のボーカルである萩原健一の俳優活動が本格化してPYGは実質的に形骸化、他のメンバーは沢田のバックバンド 井上堯之バンドとして活動していくことになった。またテレビドラマ「太陽にほえろ!」第20話に犯人役でゲスト出演し、マカロニ刑事の萩原健一に撃たれ死ぬ役を演じた。(番組の企画段階では殿下役としてキャスティングされていた。)
1973年4月21日発売の「危険なふたり」が大ヒットし、ソロ初のオリコン1位を獲得、第4回日本歌謡大賞を受賞(歌謡大賞歴代最高視聴率の47.4%を記録)し、ソロとしての人気を確固たるものとした。この作品以降、斬新なファッションが確立されることになった。翌1974年には「追憶」が2曲目のオリコン1位を獲得した。同年7月21日、日比谷野外音楽堂でのコンサートを皮切りに「Julie Rock'nTour」と題し日本で初めての全国ツアーを行った(16都市34公演)。以降も2019年まで毎年、全国ツアーを決行した。(2020年は疫病の蔓延により全公演が中止。2021年から再開している。)
1975年1月にはシングル「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」でイギリス、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)でフランスに進出。フランスでは週間ラジオチャートでトップ4に入るヒットとなった。さらに20万枚のヒットとなり、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞する。以降、1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。また、1974年にハワイ、1977年・1978年にグアム、1979年にシンガポール、1980年・1982年に香港でそれぞれコンサートを開催している。
1975年6月4日、7年間の交際を経てザ・ピーナッツの伊藤エミ(当時34歳)と結婚。同年7月20日、比叡山延暦寺で結婚式を行った。同日に開催した比叡山フリーコンサートにおいて夫婦揃ってステージに上がり、ファンに対して結婚報告を行った。二人の間には後に長男が生まれている。
1975年8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は5週連続オリコン1位、シングルセールスが90万枚を超え、ソロにおける最大のヒット曲となった。同曲は、沢田との仕事を熱望していた久世光彦が渡辺プロダクションに企画書を持ち込んだ3億円事件をテーマに製作されたTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」の挿入歌として使用され大ヒットとなった。主演の沢田が歌う劇中歌でもあった。なお、共演した岸部修三はこのドラマの放映開始から間もなく井上堯之バンドを脱退、後に岸部一徳と改名し俳優の道を進んだ。
1975年12月、東京駅新幹線ホームにて出迎えの女性ファンの行動をなじった同駅職員に頭突きを加え、書類送検される。
1976年5月、新幹線の車内で乗客とトラブルを起こし、暴行事件を起こす。こちらは被害者が示談より、沢田に対する書類送検は行われたものの起訴猶予以下が相当とされ、不起訴処分となった。この影響で1ヶ月間謹慎した。
同年9月に久世光彦(小谷夏名義)作詞、沢田作曲の「コバルトの季節の中で」を発売。同12月、武道館で初のコンサート。この年、NHK紅白歌合戦、賞レースは暴行事件の影響で全て辞退した。
1977年5月に発売された「勝手にしやがれ」は、オリコン週間チャート1位を獲得。5週にわたって1位を獲得した。この曲で、第19回日本レコード大賞を受賞。受賞シーンでは、萩原健一や岸部一徳などのザ・タイガース・PYG時代からの仲間が駆けつけた(レコード大賞で歴代最高視聴率の50.8%も記録)。その他第8回日本歌謡大賞(視聴率46.3%)など、同年の主要な賞レースを独占した。
1974年の「Julie Rock'nTour」でインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山フリーコンサートでブルーのラメ入りのアイシャドーをするなど化粧はステージでは行っていたが、お茶の間に流れる一般のテレビ番組では控えていた。しかし、これまでの意識を変え、1977年の「さよならをいう気もない」では金色のキャミソールを着て歌唱した。以降、ヴィジュアルを重視したスタイルをエスカレートさせていく。
1978年に発売された「サムライ」では、刺青風の模様が施されたシースルーの上にナチスのロゴが入った軍服を羽織り、同年1月30日放送の夜のヒットスタジオではスタジオに畳を敷き詰め歌唱した。「LOVE (抱きしめたい)」ではスタジオに雨を降らせ、血で染まった包帯を手に巻くなど、前述のようにヴィジュアルはどんどん奇抜な方向に進んでいった。
同年発売の「ダーリング」では、日本有線大賞を受賞し沢田自身5曲目のオリコン1位を獲得した。「LOVE (抱きしめたい)」は第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。同年の第29回NHK紅白歌合戦では、ロック・ポップス歌手として初めての大トリをつとめる。この1978年を例にとると、年間のテレビ出演700本以上、ラジオ300本、取材300本、地方公演100日に上った。この年のシングルの売上は、「サムライ」52万枚、「LOVE(抱きしめたい)」48万枚、「ダーリング」44万枚であり、様々な大ヒット作を世に送った。
1979年に発売された「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口にふくんで霧のように吹く演出が大きな話題となり、同曲でTBS系列の歌番組「ザ・ベストテン」で前年のダーリングにつぎ1位を獲得したが、西城秀樹の28枚目のシングル「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」大ヒット中だったため同曲での1位獲得は1週のみとなり、ザ・ベストテンでの1位獲得は同曲で最後となった。「OH! ギャル」では当時日本ではまだ珍しかったマニキュアを施し、マレーネ・ディートリヒをオマージュしたメイクをした。
1980年1月1日に発売された「TOKIO」では、電飾が施されたスーツを身に纏い、スタジオ全体が隠れてしまうほどの巨大なパラシュートを背負って歌唱する奇抜なパフォーマンスが大きな話題を呼んだ。
同年の「恋のバッド・チューニング」では青や金色のカラーコンタクトを装着するパフォーマンスをみせた。井上堯之バンドのリーダー井上堯之は、グラマラスなコスチュームに走る沢田についていけず、井上堯之バンドは80年1月24日に解散した。同年4月に胃潰瘍で1ヶ月間入院した。のちにオーディションを経て新しいバックバンドであるオールウェイズ、翌年にはEXOTICSを結成。
「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」では、沢田自身作曲のシングルとしては最高の36万枚のセールスを記録。「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」は、ザ・ベストテンで最高位3位、オリコンで最高位6位を記録した。同曲でオリコントップテン以内ランクイン、ザ・ベストテンへの出演は最後となった。
ソロ活動と並行して1981年1月、ザ・タイガースが瞳みのるを除くメンバーで10年ぶりに再結成。GS時代に縁のあった日劇が取り壊されることとなり、最後の日劇ウエスタンカーニバルに出演するためだったが、これを契機に同年秋、「ザ・タイガース同窓会」と銘打った企画で11年ぶりにシングル「十年ロマンス」を発売、翌年に発売された2枚目となるシングル「色つきの女でいてくれよ」は約42万枚を売り上げる大ヒットを記録した。また、武道館を含む全国ツアーも行った。
第34回NHK紅白歌合戦では、アダム&ジ・アンツ風ジャングル・ビートの「晴れのちBLUE BOY」で金杯を獲得。軍服にサーチライトを装着したコスチュームで登場した。
俳優としては1979年に公開された映画『太陽を盗んだ男』で原子爆弾を作る理科教師を演じ、第4回報知映画賞でグランプリにあたる作品賞と主演男優賞を受賞、キネマ旬報読者選定邦画ベストテン第1位に選ばれた。日本アカデミー賞では主演男優賞にノミネートされた。1981年に天草四郎役で主演した映画『魔界転生』は、観客動員数200万人、配給収入10億5千万円を記録した。
1985年1月からの半年間の休養を経て、デビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立。旧知の音楽プロデューサーである大輪茂男らとともに株式会社ココロ(CO-CóLO Corporation)を設立し、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。
同年6月に自叙伝『我が名は、ジュリー』(玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。8月発売の移籍第1弾の作品は、沢田自身が作詞・作曲したシングル「灰とダイヤモンド」。新たなバックバンドとしてチト河内を中心にCO-CóLOを結成。アルバムでは「架空のオペラ」をリリース。
1985年に日米合作映画「Mishima: A Life In Four Chapters」(日本未公開)で劇中劇「鏡子の家」に出演、カンヌ映画祭に緒形拳らと共に出席。同作品は芸術貢献賞を受賞。
1986年に発表したアルバム『CO-CóLO 1 〜夜のみだらな鳥達〜』をはじめとしたCO-CóLOの3部作は、沢田の作詞した作品を技巧派のバンドメンバーがダークなメロディラインで曲を作った。音楽関係者の評価は変わらず高かったが、当時のミュージックシーンには受け入れられなかった。
1987年1月、伊藤に慰謝料18億1,800万円を支払い離婚。1986年8月から別居しており、1982年の映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で共演した田中裕子と不倫関係にあった。田中とは1989年11月に出雲大社で再婚することとなる。1987年3月に京都公演中のステージから転落し、左肘骨折・肋骨打撲で1ヶ月間入院。
1988年、3年間活動を共にしCO-CóLOは解散。
1989年、EXOTICSのメンバーだった吉田建をプロデューサーに迎え、村上'ポンタ'秀一を加えて新バンドJAZZ MASTERを結成し、アルバム『彼は眠れない』を発表。同年、10年間にわたって継続する音楽劇『ACTシリーズ』がスタート。横浜アリーナで行われたタイガースメモリアルクラブバンドのコンサートに参加した。同年末の「第40回NHK紅白歌合戦」ではシングル「DOWN」の他、ザ・タイガースとしても出場し、「花の首飾り」と「君だけに愛を」のヒットメドレーを披露した。同番組の出場者としては初めて同一回で2度出場した。1991年、デビュー25周年を記念してCD化されていなかった旧譜が東芝EMIより発売。25周年にちなみ、NHK-BS2では5日間計25時間の特集番組「美しき時代の偶像」が放送された。
1994年、「HELLO」で5年ぶりに紅白歌合戦に出場。1995年、「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」とセルフ・プロデュースを宣言し、23年ぶりのセルフ・プロデュースアルバム「sur←」を発表した。以降、現在に至るまで一貫して沢田自身がアルバムのプロデュースを手掛けている。
1997年には岸部一徳、森本太郎とともにユニット"TEA FOR THREE"を結成し、「君を真実に愛せなくては他の何も続けられない」を発表。
1980〜90年代にかけて俳優としてはNHKの連続テレビ小説『はね駒』や大河ドラマ『山河燃ゆ』『琉球の風』、映画『カポネ大いに泣く』『夢二』ほか、フジテレビ『プロ野球ニュース』の準レギュラーとして出演した。
2001年、それまで控えていたテレビの音楽番組への出演を再開し、フジテレビ「新常識クイズ!目からウロコ」の司会も担当するなど積極的なメディア露出を行ったが、翌年からは再びテレビ露出をセーブ。
2002年、自主レコードレーベルとなるJULIE LABELを設立。このレーベルからリリースされた沢田のオリジナル・アルバムには、目玉焼きやホットケーキといった独特のパッケージ・デザインが施されている。
2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤『ROYAL STRAIGHT FLUSH』がオリコン週間アルバムチャートで最高49位を記録した。
2008年、還暦を記念して、初の二大ドームコンサート「人間60年・ジュリー祭り」を開催し、東京ドーム、京セラドーム大阪両日で5万4,000人を集めた。このうち、数曲において1000人のコーラス隊を従え、約6時間半でフルコーラス80曲を歌いきるという圧巻のステージを敢行。このコンサートは、第21回ミュージック・ペンクラブ音楽賞のコンサート・パフォーマンス賞を受賞した。
2010年、プロデューサーとして沢田の全盛期を支えた加瀬邦彦率いるザ・ワイルド・ワンズと組んで『ジュリー with ザ・ワイルドワンズ』を結成。シングル『渚でシャララ』、アルバム『JULIE with THE WILD ONES』を発表し、全国ツアーを行った。第23回ミュージック・ペンクラブ音楽賞コンサート・パフォーマンス賞「JULIE with THE WILD ONES LIVE “僕達ほとんどいいんじゃあない”」 受賞。
2011年、長年交流を絶っていた元ザ・タイガースの瞳みのるが40年ぶりに芸能界に復帰。岸部一徳、森本太郎らタイガースのメンバーと共に、全国33都市38公演に及ぶ沢田の全国ツアー「沢田研二 LIVE 2011~2012」にゲストとして帯同した。ツアー最終日の2012年1月24日、会場となった日本武道館には岸部四郎も参加し、1971年1月24日で解散した時のメンバーが再集結したメモリアルコンサートとなった。第24回ミュージック・ペンクラブ音楽賞コンサート・パフォーマンス賞「沢田研二Live2011-2012ゲスト:瞳みのる・森本太郎・岸部一徳」受賞。
2012年3月11日、前年の同日に起こった東日本大震災被災地への祈りを込めたミニアルバム「3月8日の雲」を発表した。以降、毎年3月11日に「祈り」をテーマにした新曲を発表している。
2013年12月3日、44年ぶりとなるオリジナルメンバーによるザ・タイガースのコンサートを日本武道館において行った。12月27日のツアーファイナルは、東京ドームに45,000人を動員。この時も岸部四郎が登場し、初めて6人によるザ・タイガース全員の集結が実現した。
2017年7月16日、自身の芸能生活50周年を記念した全国ツアー「沢田研二 50周年記念LIVE 2017-2018」をNHKホール公演を皮切りにスタート。50周年にちなんで往年のヒット曲から最新の楽曲まで50曲をワンコーラスずつ歌った。
2018年7月から2019年2月にかけて、アリーナクラス10公演を含む全67公演に及ぶ大規模な古希記念ライブツアー「沢田研二 70YEARS LIVE 『OLD GUYS ROCK』」を開催した。なお、当該ツアー中、10月17日に予定されていたさいたまスーパーアリーナでの公演にて、観客動員が当初9000人の予定が7000人であったことが契約違反だとして、開演直前になって急遽中止になるトラブルが発生した。このトラブルは各メディアで大々的に取り上げられ騒動に発展、翌18日には、自宅近くの公園で取材に応じ釈明した。なお、今ツアーから、バック演奏は柴山和彦のギター1本で演奏するという体制となっていた(2021年まで)。
2020年、全27公演の全国ツアーが予定されていたが、新型コロナウイルス感染症感染拡大防止の為、全公演が中止となった。同年5月、映画『キネマの神様』(2021年公開)で、新型コロナウイルス感染症による肺炎で急逝した志村けんの代役として主演する事が明かされた。沢田の映画出演は『幸福のスイッチ』以来15年ぶり。同年12月、新型コロナウイルス感染症の収束が見えない現状を踏まえ、ファンクラブ「澤會」を解散すると公式サイトで発表した。
2021年、ソロ活動50周年を記念したライブ「沢田研二 2021 ソロ活動50周年LIVE『BALLADE』」を前半3公演、後半12公演の計15公演の全国ツアーを敢行した。ほとんどバラード調の楽曲で構成し、マスクの着用、検温、歓声歓談の禁止など、新型コロナウイルス感染症の感染対策を万全に施した厳戒態勢で開催された。同年11月、永年京都市の文化の向上に多大な功労をしたとして、「京都市文化功労者」として表彰された。2022年には、第40回京都府文化賞功労賞を受賞。
2022年に公開された映画『土を喰らう十二ヵ月』では主人公を演じ、第77回毎日映画コンクールで男優主演賞を受賞、第96回キネマ旬報ベスト・テンでも主演男優賞を受賞、2022年度全国映連賞で男優賞を受賞した。
2020年頃から新型コロナウイルス感染症の影響で、個人事務所である株式会社ココロ(CO-CóLO Corporation)を閉鎖していたが、2023年5月に妻の田中裕子の個人事務所であるアニマ出版株式会社(ANIMA)に吸収合併され、株式会社ココロは解散した。
2023年6月25日、沢田の75歳の誕生日にさいたまスーパーアリーナにて『沢田研二 LIVE 2022-2023「まだまだ一生懸命」ツアーファイナル バースデーライブ!』が開催された。さいたまスーパーアリーナでの公演は2018年10月に公演が急遽中止となり騒動となった以来初であり、リベンジ的な意味合いを持って開催され約1万9,000人を動員、チケットは完売した。また、この公演ではザ・タイガースから、瞳みのる、森本タロー、岸部一徳の3人がゲスト参加した。なお、本公演はWOWOWで生中継された。本公演に先立ち、6月13日にはBS-TBSで2時間特番「沢田研二 華麗なる世界 永久保存必至!ヒット曲大全集」が放送された。
ソロデビュー以来、毎年必ず新作アルバムを発表し、他に例を見ない連続記録といわれた。 2014年3月26日には『JULIE』〜『NON POLICY』、2015年9月16日にはEMI所属時代に発売されたアルバムのうち『架空のオペラ』〜『HELLO』がユニバーサルミュージックからSHM-CDとして再発売された(『sur←』〜『新しい想い出 2001』は個人レーベルJULIE LABELから再発売されている)。
2008年まで毎年行ってきたアルバム制作を縮小し、2009年からは4〜6曲程度収録したミニアルバムを発表するようになった。2012年からは、前年の東日本大震災をきっかけに「祈り」をテーマにした楽曲を制作しており、作詞は全て沢田が手がけている。
ソロデビュー以降、恒例の東京・大阪を中心とした正月コンサートと、全国ツアーを行っている。以下、映像化されたものを記す。
1989年から1998年まで続いた音楽劇「ACT」シリーズ(演出・加藤直)では、ほぼ1人芝居で哲学的な内容を演じている。9枚組のCD全集が発売されている。
ザ・ピーナッツ「東京の女」、内田裕也「きめてやる今夜」、高樹澪、シブがき隊、リタ・クーリッジ、西城秀樹、田中裕子など、多くの歌手や俳優に詞・訳詞・曲を提供している。中でも、1982年にアン・ルイスに提供した「ラ・セゾン」(作詞は三浦百恵)は、オリコン週間チャート最高3位、累計売上35.4万枚を記録し、アン・ルイス最大のヒットシングルとなった。
ソロ・デビュー翌年の1972年(昭和47年)に紅白歌合戦に初出場して以来、17回紅白出場を果たしている。初出場以前の第21回では、出場したザ・ピーナッツに提供した「東京の女」の作曲者として曲名とともにテロップで紹介された。1976年(昭和51年)は不祥事により出場しなかった。また、1978年(昭和53年)には、紅組の山口百恵と共にポップス歌手としては初めて、紅白のトリ(大トリ)を務めた。これは沢田にとって唯一のトリである。また1989年(平成元年)にはザ・タイガース名義でも出場し、1回に別名義で2度出場した。1983年(昭和58年)は、出場歌手から紅白1組ずつ表彰される制度(金杯・銀杯)があり、沢田は金杯を授与された。
1989年から1998年まで続いた音楽劇「ACT」シリーズ(演出・加藤直)では、ほぼ1人芝居で哲学的な内容を演じている。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou