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ジョニー・ウィアー


ジョニー・ウィアー


ジョン・ガーヴィン・"ジョニー"・ウィアー=ヴォロノフ(John Garvin "Johnny" Weir-Voronov 1984年7月2日 - )は、アメリカ合衆国の元フィギュアスケート選手(男子シングル)。2006年トリノオリンピック5位、2010年バンクーバーオリンピック6位入賞。2008年世界選手権銅メダリスト。全米選手権三連覇(2004年-2006年)。

人物

ペンシルベニア州コーツビルに生まれる。スコットランド、アイルランド、ドイツ、ノルウェーにルーツを持つ。家族構成は本人と父、母、弟。経済的な理由でスケートを続けるために大学進学を諦めた。弟の大学の学費はジョニー自身が出しており非常に家族仲が良い。ちなみにジョニーのミドル・ネームGarvinは、「好きではないから」という理由で長らく伏せられていた。また婚姻にともない姓をウィアー=ヴォロノフ(Weir-Voronov)と配偶者の姓との複合姓に改めた。

中性的な容姿と芸術性の高い演技で女性人気が非常に高く、世界中にファンクラブが存在する。2007年には2006-2007シーズンを追ったドキュメンタリーDVDが日本で限定発売された。そのドキュメンタリーは後に2009年に北米、欧州の映画祭などでも上映され、2010年からはそのドキュメンタリーの続編『BE GOOD JOHNNY WEIR』がケーブルTV・サンダンス・チャンネルにて放送されている。

小学生の時からロシアが好きだった。2007年ロシアのショーで、ロシア人以外で唯一“ロシアを愛する賞”を表彰された。ロシア人フィギュアスケータータチアナ・トトミアニナ から誕生日プレゼントでもらった「СССР(ソビエト連邦)」と書いてあるジャージがお気に入り。エフゲニー・プルシェンコを尊敬している。プルシェンコからは「クワド(四回転ジャンプ)が跳べたら世界一」と評された。

同じアメリカのアイスダンスの選手であるメリッサ・グレゴリー&デニス・ペチュホフと仲がよく、アイスショーではトリオナンバーを披露している(ペチュホフは2007-2008シーズンのフリースケーティングの振り付けも担当している)。また女子シングルのサーシャ・コーエン、イリーナ・スルツカヤとは良き友人同士である。

自称ファッションフリーク。ファッションショーでのモデルの経験もある。2007-2008シーズンの衣装は自分でデザインしたもの。またメリッサ・グレゴリーとデニス・ペチュホフの衣装、羽生結弦の衣装もデザインしている。

2011年1月11日に自伝『Welcome to My World』を出版。その中で、自身が同性愛者であるとカミングアウトしている。同じ日に1stシングル『Dirty Love』で歌手デビューした。同年末、アトランタ在住のロシア系ユダヤ人の男性弁護士と同性結婚。その後離婚。2012年2月にはカトリックからユダヤ教に改宗した。

技術・演技

ウィアーの最大の魅力はその表現の美しさにある。スピンは、そのほとんどが最高評価のレベル4を獲得している。ジャンプは3回転アクセルを得意としている。負荷をかけた筋力トレーニングは体重が増えるため行っておらず、専らピラティスを行っている。

フィギュアスケート界では非常に珍しい、時計回りのジャンプをする選手である。大半の選手は反時計回りに回転しており、時計回りに回転する選手は稀である。

経歴

1994年リレハンメルオリンピックでオクサナ・バイウルが演じた「白鳥」に感銘を受け、12歳からスケートを始めた。コーチは当初からプリシラ・ヒル。それ以前は乗馬をしており、ペンシルベニア州のチャンピオンになった事もある。スケートを始めてわずか1年間で3回転トウループと3回転サルコウを習得し、その3年後の2001年世界ジュニア選手権で早くも優勝。翌2001-2002シーズンはグランプリシリーズに出場した。

2002-2003シーズンはロシア杯に出場を予定していたが、病気のため棄権。全米選手権はSPで2位に立っていたが、FSの演技中にブレードをリンク側面のボードに引っかけて転倒。レフリーの許可を得て演技をやり直したが再び転倒し、その際に負傷したため棄権することとなった。このことは関係者からは激しい非難を浴びた。地方予選からのスタートとなった翌2003-2004シーズン、全米選手権で初優勝。世界選手権でも5位に食い込む活躍を見せた。続く2004-2005シーズンには国際大会に復帰、グランプリシリーズで2連勝を果たし、再度全米選手権を制した。

2005-2006シーズン、全米選手権で優勝して3連覇を果たし、出場資格を得たトリノオリンピックでは、SPで「白鳥」の曲に乗って完璧な演技を見せ、当時のパーソナルベストの80.00点を得点しエフゲニー・プルシェンコに次ぐ2位につけたが、総合では5位入賞となった。続く世界選手権のFSでは後半の転倒で以前から痛めていた背中を更に痛めてしまったが、立ち上がって最後まで滑りきり観客から温かい拍手を受けた。

2006-2007シーズン、春から夏にかけてチャンピオンズ・オン・アイスのツアーに長期参加していた為、プログラム作成をする時間がとれずツアー仲間で友人のマリナ・アニシナに振り付けを依頼し、従来の繊細で優雅な路線ではなく力強さを表現したプログラムを完成させた。しかし、オリンピック後の疲労が心身ともに溜まっていた為か精彩を欠く不振のシーズンとなる。その経験は、長く師事していたコーチから離れることや自分のスケートスタイルの再確認など、後のシーズンに影響を与えた。

2007-2008シーズン、グランプリシリーズの初戦となった中国杯で優勝、次戦のロシア杯でも安定した演技で優勝を果たした。2連勝で迎えたグランプリファイナルでは古傷の再発と足首の怪我により4位に留まった。全米選手権ではSP1位、FSでは4回転ジャンプも構成に入れての完成度の高い演技で2位、優勝したエヴァン・ライサチェックに次いで2位という結果になった。世界選手権では3位となり、初めて世界選手権のメダルを手にした。なお全米選手権では総得点でウィアーとライサチェックが並ぶという珍事となり、FSの得点の高い方が上位というルールが適用された。

2008-2009シーズンはスケートアメリカで2位。NHK杯でも、風邪でコンディションを崩しながら2位となった。グランプリファイナルでは3位。全米選手権は5位に終わり、世界選手権の出場を逃した。

2009-2010シーズンはデヴィッド・ウィルソンに振り付けを依頼。グランプリシリーズ初戦のロステレコム杯ではジャンプの不調が続き4位に終わったが、その後のNHK杯では安定した演技で2位につけた。グランプリファイナルでは更に安定度を高め、SP・FSともにノーミスの演技でパーソナルベストを更新。3位となり、2年連続で銅メダルを獲得した。全米選手権でも3位となり、バンクーバーオリンピック代表に選出された。バンクーバーオリンピックは総合6位に終わった。FSではノーミスの演技を披露し、会場中からスタンディングオベーションを受けた。だが点数が思ったほど伸びなかったため、会場からブーイングが起こった。しかし、ジョニー自身は優しい表情で観客席に向かって「抑えて抑えて」とブーイングを静める仕草をした。エルヴィス・ストイコとサーシャ・コーエンは「ウィアーは(5位の)チャンより上であるべきだった」と語っている。世界選手権は欠場した。2010年7月時点で、2010-2011シーズンの競技には参加しない旨を公表した。主な理由として「自分のスケーティングのイメージを再構築するための休養期間が必要」としている。

2012年1月、競技復帰を表明。フィンランディア杯で試合に復帰し4位。ロステレコム杯ではSPの後に、膝の負傷により棄権した。また、出場を予定していたエリック・ボンパール杯も出場を取りやめた。

2013-2014シーズンも競技会への参加を予定していたものの、代表選考会である全米選手権の予選会へのエントリーをしなかったために、ソチオリンピックへの出場はできない。

2013年10月23日、競技生活からの引退を発表した。

2018年末、フィギュアスケートを題材としたNetflix製作のドラマ『栄光へのスピン』に出演すると発表された。ドラマは2020年に配信され、ゲイブ役を演じた。

2023年にプロスケーターとしての活動からの引退を表明している。

主な戦績

2001-2002シーズン以降

2000-2001シーズンまで

  • J = ジュニアクラス

詳細

プログラム使用曲

脚注

外部リンク

  • 国際スケート連盟によるジョニー・ウィアーのバイオグラフィー(英語)
  • 全米フィギュアスケート協会によるジョニー・ウィアーのプロフィール
  • 公式サイト(英語)
  • ジョニー・ウィアー (@JohnnyGWeir) - X(旧Twitter)
  • ジョニー・ウィアー - Olympedia(英語)
  • ジョニー・ウィアー (@johnnygweir) - Instagram

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: ジョニー・ウィアー by Wikipedia (Historical)



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