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佐々木広綱


佐々木広綱


佐々木 広綱(ささき ひろつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。近江源氏佐々木定綱の嫡男。

諱(実名)は旧字体で「廣綱」とも書き、その「広」(「廣」)の字は大江広元から偏諱を受けたものとされる。

在京の御家人として鎌倉幕府に仕えるが、次第に後鳥羽上皇との関係を深め西面武士となる。承久の乱で官軍に属して戦い、敗れ梟首された。

生涯

父定綱は源頼朝に伊豆の流人の頃から仕え、近江、長門、石見、隠岐四ヶ国の守護を務めており、広綱はその嫡男として早くに左兵衛尉に任じられた。

建久2年(1191年)、佐々木庄の年貢を巡る延暦寺との争いにより一門は流罪とされ、5月8日、広綱は隠岐国に流される。

建久4年(1193年)3月12日、後白河法皇の一周忌により罪を許される。

正治2年(1200年)、梶原景時が排斥されると、2月20日、左衛門尉を務める広綱は、京五条坊門面の景時邸に在る郎従を追捕する。3月、京で殺人事件が起こり騒ぎになると、4月7日、鎌倉に飛脚で子細を伝える。翌正治3年(1201年)には弟の信綱とともに柏原弥三郎を討伐する。

建仁3年(1203年)10月8日、源実朝の元服の儀に御家人百余名と共に参列し、鎧剣馬を奉ずる役を千葉常秀と共に務める。19日、使節として上洛し京畿の御家人に将軍への忠誠を誓わせる。

建仁4年(1204年)1月21日、延暦寺の僧の事で朝廷に召される。4月13日、正五位下に叙される。

元久2年(1205年)閏7月26日、牧氏事件で京に在る平賀朝雅を討つ。この功で後鳥羽天皇より寄せかけの紋を賜り、家紋を四目結とした。

建暦2年(1212年)3月20日、在京奉行の功により一村の地頭職を拝領する。

建暦3年(1213年)5月3日、和田合戦に敗れ西海へ落ち延びる和田義盛一族を討ち取るべき旨、北条義時より書状を送られる。京では北条義時父子と大江広元の死が風聞しており、15日、戦場を見た飛脚を伴って参院し状況を報ずる。更に鎌倉への下向を考えるが、3日の書状が届いた事により、京に留まり院の守りを続けた。

建保4年(1216年)4月28日、一条河原において東寺の盗賊ら五十余人を検非違使より渡される。盗賊らは鎌倉に送り、後に陸奥国に流された。

建保6年(1218年)9月21日、延暦寺の僧らが京で強訴し、勅定により宮門でそれを防ぐ。10月19日、仲恭天皇の降誕と源実朝の右大臣任官を飛脚で鎌倉に知らせる。

承久3年(1221年)5月15日、承久の乱が始まる。広綱は西面武士として官軍に属し、京極高辻の館に住む伊賀光季らを滅ぼし、その館を賜る。館は後に京極氏の家名となる。同日、北条義時追討の宣旨が発せられた。

5月22日、鎌倉方は北条泰時を大将とした軍を発し、弟の佐々木信綱はそれに属した。

6月3日卯の刻、関東方を迎え討つべく京を発する。4日、尾張国尾張川に至り、大手の将軍として藤原秀康、小野盛綱、三浦胤義らと共に一万余騎を率い摩免戸を守る。5日、鎌倉方と戦うが、官軍は他と合わせて二万余で敵の半数にも満たず、敗れ帰洛する。12日、軍を率い宇治を守る。14日、宇治川の戦いで敗れ逃れる。7月2日、捕らえられていた広綱は梟首された。

嫡男継綱は6月14日に戦死し、次男為綱と三男親綱の行方は判らない。四男の勢多伽丸は7月11日に捕らえられ、11歳(※承久記によると14歳)とまだ幼い事から助命されるが、弟の信綱に身柄を奪われ斬首された。佐々木氏は後に信綱が継ぐ事となる。

年表

  • 年月日は出典が用いる暦であり、西暦は元日をそれに変更している。

系譜

  • 父:佐々木定綱
  • 母:宇都宮朝綱の娘?
  • 妻:大江広元の娘
  • 生母不明
    • 男子:佐々木継綱
    • 男子:佐々木為綱
    • 男子:佐々木親綱
    • 男子:勢多伽丸

脚注

関連項目

  • 史料
    • 明月記
    • 吾妻鏡
    • 承久記
    • 西讃府史
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Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 佐々木広綱 by Wikipedia (Historical)