スカイラインGT-R(SKYLINE GT-R 、スカイライン・ジーティーアール)は、日産自動車がかつて生産・販売していたスポーツカー。中型乗用車「スカイライン」をベースにモータースポーツへの参戦を想定し、動力性能を大幅に引き上げたモデルである。
愛称は「アール」「スカG-R」「GT-R」のほか、各世代の愛称・型式でも呼ばれる。
“GT-R”の歴史は、ツーリングカーレースで活躍した先代プリンス・スカイライン2000GT-B(S54B-II型)の後継車として、1968年(昭和43年)10月開催の第15回東京モーターショーへ「スカイラインGTレーシング仕様」を出品したことに始まる。これはスカイライン2000GT(GC10型)の車体へ、プロトタイプ・スポーツカーである日産・R380のエンジン・GR8型をベースに開発された直列6気筒DOHCエンジンを搭載したものである。この「GTレーシング仕様」がほぼそのままの形で、1969年(昭和44年)2月に初代GT-R(PGC10型)として発売された。以降、2世代5代に渡って開発・生産・発売された。
スカイラインの中でも自動車レースでの使用を主として開発されたスポーツバージョンであり、日本を代表する高性能車のひとつに数えられる。自動車レースにおけるあらゆる規則の範囲内において、最大の性能を発揮する専用エンジンを組み込んでいる点が特徴であり、出場した自動車スポーツレース全般で数多くの勝利を挙げてきた。現在でもR32型、R33型、R34型(いわゆる第2世代)の人気が特に高く、中古車が主に北米へ多数輸出、輸出したR32型を再び日本国内へ逆輸入し再登録といったことも盛んに行われており、中古車価格はPGC10型からR34型まで、ともに数百万~数千万円という非常に高値安定傾向である。
開発はプリンス自動車工業時代からS74型として着手されており、日産自動車合併後の1969年2月に発売された。おとなしいセダンボディに獰猛なエンジンという意味の「羊の皮を被った狼」のキャッチフレーズが、先代プリンス・スカイライン2000GT-Bからそのまま受け継がれた。レース用車両として、6気筒エンジンを搭載した2000GTをベースにレース用DOHC4バルブのS20型エンジンを搭載。ステアリングギヤ比をクイックに、サスペンションも固められた。スカイラインの伝統でもあった「サーフィンライン」デザインも、ワイドタイヤを履く邪魔となることから断ち切られて大きくえぐられた。また、レースに不要なヒーターやラジオはオプション扱いだった。
同年10月にはスカイラインシリーズ全体のマイナーチェンジに伴い、外装・内装に若干の変更が行われる。外装はヘッドランプハウジングが独立したタイプの3分割グリルだったものがワンピースグリルと呼ばれるものに、メッキ仕上げだったフェンダーミラーはつや消し黒に、内装ではステアリングホイールがウッドから、それまでスポーツオプションだった合成ゴム成型に変更された。
1970年(昭和45年)10月、ベースとなるスカイラインのマイナーチェンジに伴ってハードトップと称するホイールベースが70 mm短縮された2ドアクーペボディが追加され、GT-RもハードトップのKPGC10型に移行しセダンは廃止された。C10型マイナーチェンジによる変更点を除くPGC10型からKPGC10型への限定した変更点として、リアホイールアーチにFRP製の黒いオーバーフェンダーの装着、フェンダーミラーを砲弾型からタルボ型へ変更、フロントグリルの意匠変更、などである。4ドアセダンをベースに2ドアクーペを設定する場合、ハードトップスタイルを採用する例は同時期の西ドイツで多く見られるが、Bピラーがなくなることで低下するボディ剛性を確保する手法として、メルセデス・ベンツが好むホイールベース短縮を採用しており、フレーム剛性を据置きつつ若干軽量化を実現した。より低く流麗となったクーペボディは空気抵抗を低減し、短縮されたホイールベースは運動性能を高めることから、GT-Rの競争力はさらに向上した。
外観におけるGT系との相違は、拡大されたトレッドに対応するためリアホイールアーチがサーフィンラインをカットして上方へ拡大されているほか、前後ウインドシールドをはじめとした全てのガラスが青色の熱線吸収タイプではなく4気筒モデルのスタンダードと同じ無色透明タイプになり、リアデフォッガーやモール類、装飾類、ホイールカバーが装備されない点などが挙げられる。これらに加えラジオがオプション装備であるため、選ばなければアンテナもない。また、KPGC10前期型にはオプション装備のリアウイングを備えた車もある。防錆塗装はオプションであった。
総生産台数はPGC10型が832台、KPGC10型が1,197台。新車販売価格は、セダンが150万円、クーペが154万円だった。
フロントに搭載されるS20型 2.0L 直列6気筒DOHCエンジンは、前任のスカイライン2000GT(S54型)に搭載されていたG7型エンジンがツーリングカーレースにおいて競争力を失いつつあったため、プリンス・R380で使用されていたGR8型エンジンをベースに新たに開発されたものである。
排気系には3気筒ずつそれぞれ1本に纏められたステンレス製等長エキゾーストマニホールドを採用し、消音器の外殻を共用する以外は大気開放されるテールパイプまで2本が完全に独立している。
トランスミッションは日産自動車内製のFS5C71A/B型5速フロアシフトMTである。全段ポルシェ式サーボシンクロメッシュの常時噛合いマニュアルトランスミッションで、競技用に用意されている3種のギアレシオ中、1速が最もローギアードで2速以上をクロスレシオとしたものが標準装備として採用されており、他の2種類はスポーツオプションとされた。PGC10型からKPGC10型前期までが、クラッチハウジング、ギアケーシング、エクステンションに3分割されたA型、KPGC10型後期はクラッチ・ギアケーシング、エクステンションに二分割されたB型である。ディファレンシャルギアには多板クラッチ式LSDを装備している。
サスペンションは2000GTと同一の前ストラット、後セミトレーリングアーム式サスペンションであるが、スプリング、ダンパーおよびフロントのみに装着されているスタビライザーがそれぞれ強化されている。ブレーキも2000GTと同一の前ディスク、後リーディング・トレーリング式ドラムであるが、ブレーキコントロールを容易にするため標準ではマスターバックは装備されていない。
ステアリング機構は2000GTと同一のリサーキュレーティングボール式であるが、ギア比は高め(速め)に変更されている。
1970年(昭和45年)10月から、S20型エンジンにブローバイガス還元装置が取り付けられた。同時に無鉛レギュラーガソリン仕様が設定されている。圧縮比を0.5下げ、点火時期の進角を穏やかにしたため、ハイオク仕様より5 PS低い155 PSとなっている。
内装はドライバーが運転する上で必要な装備が充実しているのに対し、快適装備等の不要なものは極力省かれている。運転席および助手席はリクライニング機構を持たない合皮張りのバケットシートであり、2ドアのKPGC10型では、前端下のヒンジを支点にして座席全体を前に投げ出すようにして後席の乗降通路を確保する。運転席側には3点式シートベルトとヘッドレスト、サンバイザーが標準で備わるが、助手席側のそれらはオプション装備である。また、ヒーター、ラジオ、時計はもとより、ドアポケット、助手席および後席の2点式シートベルト、およびアシストグリップもオプション装備である。イグニッションキーシリンダーは、アクセサリー (ACC) ポジションのみオフから反時計回り側の、本来ステアリングロックがあるべき位置へ隔離され、オフから時計回りで、オン、スタートと並んでおり、競技使用時の利便が図られている。ステアリングロックは装備されない。
GT-Rの特徴であるエキゾーストマニホールドにより、コンプレッサーを取り付ける空間が確保できず、純正クーラーはオプションでも設定されていない。
競技用のスポーツオプションが非常に充実しているのも特徴で、アルミ鍛造高圧縮ピストンや大径気化器、オイルクーラー、バッフルプレート付きアルミオイルパンなどのエンジン関連部品から、サスペンション、ブレーキの強化部品、幅広スチールホイールなどが一通り設定されていた。中にはワイド型ルームミラーやレースレギュレーションで義務化されていた合わせガラスのウィンドシールドなど、公道走行時においても極めて有用な部品もあった。
4代目スカイライン(C110型、ケンメリ)のハードトップ2000GTをベースとして、1973年1月に「2000GT-R」が発売された。
GT系と比較して、専用ラジエータグリル、前後オーバーフェンダー、リアスポイラーを装備するほか、先代では標準でなかったラジオが標準装備とされている。エンジンは先代のS20型エンジンを引き続き搭載するが、燃料タンクが100 Lから55 Lとほぼ半減している。足回りに関しては、リアにスタビライザーが装備され、マスターバック付き4輪ディスクブレーキが付与されている。車体は全長で130 mm、全幅で30 mm、ホイールベースで40 mm拡大されており、GT系と違いオーバーフェンダーが付与されている。これらの装備を足されたことでトータル45 kgの重量増となった。なお、現在のR35型GT-Rに至るまで踏襲されている丸型4灯のテールランプは、この代から採用された。
しかし、S20型エンジンが昭和48年排出ガス規制に適合できなかったため、発売からわずか3か月後の1973年4月末をもって生産・販売を終了した。総生産台数は197台で、うち市販されたのは195台であった。新車販売価格は162万円。
レースカーもコンセプトカーが発表されたのみで、実戦に投入されることはなかった。KPGC110型の生産終了後、GT-Rの名称は1989年のBNR32型で復活するまでの16年間、途絶えることとなる。
1989年5月22日、8代目スカイライン(R32型)を発表。GT-Rを含む4WD車は8月発売とアナウンスされ、同年8月21日に発売された。先代KPGC110型の生産終了より16年ぶりとなるGT-Rの復活である。型式はBNR32。
当時日産で行われていた901運動の集大成として開発されたR32型GT-Rは、専用に設計されたRB26DETT型ターボエンジンを搭載し、ATTESA E-TS、Super HICASといった当時の最新デバイスが多数組み込まれた。日産・フェアレディZ(Z32型)、日産・インフィニティQ45とともに、日本車初の300 PSトリオとして発売される予定であったが、当時の諸事情により実施された自動車馬力規制により、いずれも日本向けは280 PSとされた。なお、フェアレディZとQ45の海外輸出仕様は300 PSであった。
日産社内では7代目スカイライン(R31型)の時点で2ドアクーペに「GT-R」を復活させる計画があったが、エンジンが4ドアセダンと同じRB20DET型であったことや、そのRB20DETが当時ジャーナリストから酷評を受けていたことなどから、開発主管の伊藤修令の判断でその計画は撤回。その後R32型では、プラザ合意後の日産の業績悪化の影響などから「今ここで「GT-Rを復活させる」と言っても通らないだろう」として「GT-X」の仮名称で開発が進められた。
海外へは、オーストラリア向けのみ100台ほどが豪州日産のクレイトン工場でノックダウン生産された。出力は日本と同等だが、スピードメーターは260 kmスケール仕様、アンテナはルーフ中央前側への設置、ハイマウントストップランプの追加等、細かい変更や追加が行われた上で販売された。現在海外で「ゴジラ」と呼ばれているGT-Rの愛称は、オーストラリアでのツーリングカー選手権への参加で、他メーカー勢を周回遅れで制した衝撃がきっかけで名付けられた。
搭載されるRB26DETT型エンジンの排気量は、2,568 ccという当時としては中途半端な数値であるが、これは当時のグループAレギュレーションに対応させたことが理由である。
GT系標準モデルとの外見上の違いは、専用16インチアルミ鍛造ホイール、前後フェンダーの拡幅化、アルミ製フロントフェンダーおよびアルミボンネット採用、フロントグリルの追加、専用フロントバンパー、専用リアウィングが挙げられる。
開発に携わった永嶋勉の証言では、当初の試作車はスカイラインとフロアパンを共有しており車種の性格上秘匿性が高いとの理由から、R31型スカイラインではなくあえてC32型ローレルをベースにワイドフェンダー化された個体が用いられていた。
1990年にはグループA参戦マシンのホモロゲーション用モデルとして500台限定でGT-R NISMOが発売され、同年よりR31型スカイラインGTS-Rに代わり参戦した全日本ツーリングカー選手権においてデビューウィンを果たす。参戦初年度でありながら、年間を通してカルソニックスカイラインを代表とするGT-Rの強さを印象付け、世界中で最強を誇っていたフォード・シエラRS500を全日本選手権から駆逐し、日本国内外の自動車レースを席巻した。その後、全日本ツーリングカー選手権がFIAのクラス2規格(排気量2.0 Lまでの4ドアセダン車両をベースにしたJTCC)で行われることが決定したため、1993年以降は全日本GT選手権に戦いの場を移すこととなる。ほかにグループAより改造範囲の狭いグループNを基にしたN1規定に対応するため、主にブレーキ系の性能を向上させたVスペック・VスペックIIが発売されている。
車体色のバリエーションはイメージカラーとなるガングレーメタリック (KH2) の他に、クリスタルホワイト、ジェットシルバーメタリック、レッドパールメタリック、グレイッシュブルーパール、ダークブルーパールなど、計8色が販売された。なお当初はダークグリーンメタリック (DH0) の販売も予定されており、発売前の販促カタログにも掲載され試作車も制作されたが、このカラーのGT-Rが販売されることはなかった。なおこの車体色は中期以降のGTSグレードにて採用されている。
BNR32型最大の特徴は、上述の通り当時の最新装備が多数採用されたことである。それまでのGT-Rは自然吸気エンジンかつ後輪駆動であったが、このBNR32型では専用に開発されたRB26DETT型ツインターボエンジンが搭載され、足回りも「ATTESA E-TS」、「Super HICAS」を組み合わせ、四輪駆動となった。その中でもRB26DETT型エンジンは、S20型同様モータースポーツ参戦を前提に開発されていたものであったため、市販車の平均的な水準をはるかに上回るエンジン強度を誇り、出力も280 PS/36 kgf·mを達成するなど非常に強力なエンジンとなっている。
しかし欠点として、RB26型エンジンは強度を重視したためエンジンブロックが鋳鉄製であり、これにより車重が増加した。そしてフロントヘビーな配分と、高度なATTESA E-TSなどのデバイスが災いし、標準装備のブレーキではハードな走行に耐え切れず、N1レース参戦初期には強いアンダーステアに悩まされ、ブレーキフェードによるリタイアもあった。その後の対策として、Vスペックではより大型のブレンボ製ブレーキキャリパーが採用されている。
1995年1月6日発売。型式はBCNR33。
1993年8月にR33型スカイラインが発表された直後の第30回東京モーターショーでプロトタイプが発表された(市販モデルでは主にフロント周りが改修される)後、標準車の販売開始から遅れて1年5か月後に発表された。このR33型GT-Rは、通常はモーターショーなどで新車発表するところを、改造車の祭典である第13回東京オートサロンで発表するという形式がとられた。これは当時の市販車としては初めてのことである。
この型式より、以前にも増して本格的にニュルブルクリンクでのテストドライブが重視された。このことよりBCNR33のプロトタイプモデルが7分59秒のタイムを記録したことで、BNR32型に対してのタイム差から「マイナス21秒ロマン」と銘打ったキャッチコピーを掲げ、GT-Rとしては初の単体でのテレビCMを展開している。またBNR32型と違い、発売時よりVスペックおよびVスペックN1が設定されている。また、1997年には、日産関連企業のオーテックジャパンより、特別仕様ながらPGC10型以来の4ドアセダンGT-Rとなる「スカイラインGT-Rオーテックバージョン 40th ANNIVERSARY」が発売された。
モータースポーツでは、BNR32に引き続いて全日本GT選手権に参戦しているほか、ル・マン24時間レースにも参戦していた。
またこの代からイギリスへの正規輸出が100台限定で行われ、開発主管を務めた渡邉衡三によれば北米への輸出も検討されていたが、RBエンジンは左ハンドルへの対応が難しく、排気構造の問題からエンジンを開発し直さなければならないとの理由でアメリカ向けのR33は見送られた。
先代BNR32に引き続きRB26DETTを搭載しているが、旧型より増加した車両重量に対応させるための高出力化が必要となった。そのために従来8ビットであったECUの16ビット化、過給圧の上昇、バルブタイミングや吸排気系、圧縮比、フリクションロスの見直しなどの改良により、出力は280 PS/37.5 kgf·mとなる。また、BNR32ではVスペック系統のみ設定されていたブレンボ製ブレーキキャリパーを全車標準装備とし、Vスペック系統にはアクティブLSDを採用。このアクティブLSDとシンクロして動作するATTESA E-TS PROが搭載されている。車体の特徴として、R32型から全長が130 mm、ホイールベースで105 mm拡大され、全体的にワイドボディ化された。加えてボディも補強され、剛性が高まっている。また新たに角度調整機構付リアスポイラーを採用した。
内装の基本的なレイアウトは、センターコンソールの3連メーターなどはBNR32型と同様であるものの、タコメーターにGT-Rのロゴが付いたこと、ハイビームサインが下部から上部へ移設されたことが特徴である。なお前期型のステアリングは、K11型マーチなど日産のエアバッグ装着車共通のステアリングセンターパッド(握りの部分は専用)が採用されていたが、不評を買ったため、中期型よりスポーティな形状のセンターパッドに変更されている。
その他、BCNR33型になり、バッテリーがトランクルーム奥に設置されるようになった。前期では青基調の内装だったが、後期型では内装内張り・シートが赤色基調に変更されている。
1999年(平成11年)1月8日販売開始。第2世代最後にしてスカイラインGT-R名義として最後の型である。キャッチコピーは「人に翼を」。
先代同様、第17回東京オートサロンで新車発表。この際、ニスモからはコンプリートカーの状態で展示が行われていただけでなく、いくつかチューニングメーカー、ショップにも事前に納車され、若干のチューニングが施された車も展示された。生産は2001年(平成13年)まで日産自動車村山工場、それ以降は日産自動車栃木工場で行われていた。
このBNR34型では、先代BCNR33型で不評であった大柄なボディサイズの縮小を命題としている。ホイールベースで55 mm、全長で75 mmサイズダウンし、車軸位置の調整で前後重量配分を約55:45まで改善させるとともに、車体剛性の算出にはMRS(マルチロードシミュレーター)と呼ぶ動剛性解析システムを導入し、前型比で動的ねじれ剛性を56 %、動的曲げ剛性を100 %向上した。空力では、車体全後端の下面を覆う大型ディフューザーを装備した量産車初のアドバンスドエアロシステムを採用、スタイルは全体を直線基調とし、ヘッドランプを吊り目タイプに、丸形4灯テールランプはそれまでの均一サイズから、内側ランプを小さくし、中心に方向指示器を配置、制動灯は外側の赤部分のみが点灯する。また、リアナンバープレートスペース左横に後退灯、右横にリアフォグランプ(赤色)が装備されている。
安全面ではサイドエアバッグをオプション設定し、セキュリティ対策としてイモビライザーも採用された。なお、BCNR33型に引き続きイギリスへの正規輸出が行われている。
グレード体系では従来の走行面を重視したVスペック系のほか、2001年(平成13年)には乗り心地と上質感を重視したMスペックが設定されている。
しかし、平成12年排出ガス規制への適合が困難となったため、2002年(平成14年)8月をもって生産を終了した。2007年(平成19年)に後継として発表されたR35型GT-Rが「スカイライン」の名称を引き継がなかったため、スカイラインGT-Rとしては2020年(令和2年)現在、このBNR34型が最後となっている。
モータースポーツでもR33に引き続いて全日本GT選手権に参戦していたほか、ニュルブルクリンク24時間レースやスーパー耐久に「ファルケンGT-R」が参戦していた。
ちなみに、次世代のFRスポーツカーのためのテスト車両として、このBNR34型GT-Rがベース車として採用されたことがある。その際にはVQ35DEエンジンを搭載し、FMパッケージに合わせるためにベース車のホイールベースを35mm延長しつつ、全長を200mm短縮した。その特異なフォルムは、開発関係者から「チョロQ GT-R」と呼ばれて親しまれた。
第二世代最後のGT-Rとあり、この代でも先進的な技術が採用されている。
Vスペックの前方下部に樹脂製、後方下部に量産車初のオートクレーブを用いて焼成されたカーボンディフューザーや、可変2段リアウイングスポイラーのアドバンスドエアロシステムを採用。このディフューザーは車体下部前後を覆っており、走行風を取り込んで圧縮・整流させボディ下面を通り、リヤで拡散させることでダウンフォースを発生させる仕組みとなっている(標準車と比べバンパー下部が大きい)。さらにフロントバンパーの幅をタイヤハウジングより大きくしているが、これは空気をタイヤハウジングへ溜めさせ、負圧でブレーキを冷却させるためである。
タイヤ、ホイールは18インチ化された(サイズは245/40ZR18、18×9JのBBS製鍛造アルミホイール)ものの、1セットあたり1 kg軽量化、ブレーキは先代同様引き続きブレンボ製を標準装備しているが、本体色の変更(黒から金)の他に取り付けボルトを太いもの(12 mmから14 mm)に変更し、支持剛性を向上させている。トランスミッションはドイツゲトラグ社と共同開発した6速ミッションで、リバースギアにもシンクロ機構が装備されている。サスペンションもテンションロッドが一体型のアルミ鍛造のものに変更され、耐久性向上と軽量化を行っている。 LSDは、R33型同様Vスペック系統にアクティブLSDを採用し、アクティブLSD準拠のATTESA E-TS PROを搭載している。
エンジンは第2世代最後となるRB26DETT型を搭載。カタログスペックの最大出力280 PSはそのままだが、ギャレット社製C100-GT25型ツインボールベアリングのセラミックタービンの採用と最大過給圧のアップで、最大トルク40.0 kgf·mを達成し、低回転域トルクの増加で常用速度域における運転性(ドライバビリティー)が向上している。またエンジンのヘッドカバーは赤メタリックで塗装され「SKYLINE GT-R NISSAN」の文字が印刷されたプレートものが使われていた(BNR32、BCNR33までは黒で「NISSAN TWINCAM 24VALVE」)。またNürにおいては金色のカバーが採用されている。
車内においては、従来センターコンソール上部に置かれていた3連メーターに代わり、マルチファンクションディスプレイ (MFD) と呼ばれる車両の状態を確認する5.8インチのモニターが搭載され、水温、過給圧などを表示することが出来るようになった(Vスペックとノーマルでは多少表示項目が異なる。また、このMFDはVICS、コンパスリンクを搭載したカーナビが使用できた)。レブランプも搭載され設定値になると赤く光るようになっている。スピードメーターは当時の日産車では例外的に左にタコメーター、右にスピードメーターの配置となっており、Vスペック系統ではタコメーターの3,000 rpm以下の目盛りが圧縮された2段スケール仕様となっている。なお、3本スポークのステアリングホイールはS15型シルビアと共通である。
2000年(平成12年)10月30日のマイナーチェンジでは、リアのブレーキローターを大型化(300 mmからN1仕様同等の322 mmへ)したほか、各種フットペダルをRの文字が入った樹脂製からアルミ製のものへ変更、シフトノブもGT-Rロゴが入ったアルミ製ものに変更されている(細かい所では、ターンシグナルランプがオレンジからクリアレンズになった点、センターコンソールのイリジウム調化など)。同時にVスペックはVスペック IIとなり、量産車初となるカーボンボンネット(東レ製の「トレカ」を使用。なおカーボン地ではなく塗装済)を採用、4kgの軽量化を図ると共にNACAダクトの追加でタービン付近の温度低減が図られている。
スカイラインは、初代の時代からモータースポーツに参戦しているが、先述の通りGT-Rは特にモータースポーツ活動に主眼を置いており、初代前期PGC10型/後期KPGC10型GT-Rは、日本国内のレースで後に100勝を達成したマツダのロータリー勢としのぎを削りながら、クラス優勝を含む50勝を越す勝ち星を獲得している。
その後、R30型スカイライン2000RSやR31型スカイラインGTS-Rの後任としてグループAの頂点を目指すべくGT-R(BNR32型)が復活。BNR32型はデビューからレース活動終了時まで勝ち続け、グループA 29連勝の記録を作った。
全日本GT選手権(JGTC)では、1993年の開幕から2003年シーズンまで、R32からR34までの3世代のモデルが参戦し、すべてのモデルでドライバー若しくはチームのタイトルを獲得している。なおJGTC参戦用の車両は、レギュレーションや車両重量の都合もあり、基本的に市販車の4WDではなくFRを採用している(ただし一部プライベーターが4WDを用いたこともある)。
2代目KPGC110型GT-Rは、すでにS20型エンジンが競技力を失い始めているのに加え、大きく重くなったベースシャーシーではマツダ・ロータリー勢に対抗するのは不可能と考えられたため、モータースポーツ活動は行っていない。ただし、C110型としては4気筒セダンの1800GLにラリー用スポーツオプションが用意され、メーカーがプライベーターをサポートしていた。
C10型の強さを語る上の代名詞として「49連勝」というフレーズが昨今において雑誌、広告、DVDなどのメディアにおいて広く使用され認知されている。ただし、この連勝数については諸説があり、例えばプリンスの丘公園におけるC10型の功績を称える碑には50連勝と書かれていることに対して、モータースポーツ専門誌の『Racing On』444号では、うち18がクラス優勝、また1971年7月25日に行われた富士1000kmレースにおいて総合6位(クラス2位)となっているため、連勝記録は46で止まっていると指摘している。なお、日産のモータースポーツ部門であるNISMOはHPにおいて「49勝し更に50勝目も挙げた」という表記を取っている。
1990年全日本ツーリングカー選手権 (JTC) 第1戦西日本サーキットにてGT-R(グループA仕様)はレースデビュー。レースでは、星野一義/鈴木利男組のカルソニックスカイラインがポール・トゥ・ウィンを飾るだけでなく、予選ではコースレコードを2秒近く短縮、決勝ではレースの4分の1を消化した時点ですでに全てのマシンを周回遅れとするなど、(2位でゴールした僚友・リーボック スカイラインGT-R以外の3番手以降は2周以上の周回遅れ)圧倒的な力の差を見せつけた。その後もシリーズ全戦でポールポジション獲得・優勝。翌年度からは徐々に参戦車数が増え、最終シーズン1993年には7台のGT-Rが参戦、グループA(クラス1)は事実上のワンメイク状態とまで化した。結局、1990年の初戦からJTCというカテゴリーが終了する1993年まで無敗を誇り、最終的に29連勝という偉業を成し遂げる。なおJTCと並行してN1耐久シリーズ(現・スーパー耐久)にもGT-Rで参戦した。グループA終了後はJTCCと同時に始まった全日本GT選手権(JGTC)に転用される車両もあった。参戦初年度の90年モデルのグループAカルソニックスカイラインは、エンジン換装等一部仕様変更の上JGTCにプライベーターとして出走しており、個人所有という形で現存している。
また日本国内だけでなく、国外のレースにも積極的に参戦している。特にオーストラリアツーリングカーチャンピオンシップでは、ジム・リチャーズとマーク・スカイフのコンビが1990年・1991年・1992年とタイトルを分け合う形で3連覇を果たしており、バサースト1000kmでもこのコンビで連覇を果たしている。あまりにも圧倒的な成績だった事から、1993年のレギュレーションよりクラス2(スーパーツーリング)規定の導入でターボとAWD車が禁止となり、最上位のクラスはオーストラリア車(事実上フォード・オーストラリアとホールデンの2社)の5.0LのV型8気筒エンジン車によるレギュレーションに変更された。
1993年には元F1ドライバーのルイス・ペレス=サラがスペインツーリングカー選手権のタイトルを獲得する。またワークスだけでなく、プライベートチームもヨーロッパや北米のレースに数多く参戦していた。
ベルギーで開催される世界3大耐久レースの一つ、スパ・フランコルシャン24時間レースには1990年 - 1992年に出場。1990年はグループNクラスの表彰台を独占した。そして1991年には前年に続きキース・オドール/木下隆之/ディアク・ショイスマン組が総合6位に入ってグループNクラス優勝、さらにグループAクラスで日産ワークスから送り込まれたZEXELスカイラインが2位以下を20周以上も引き離して総合優勝する快挙を成し遂げている。1992年にも引き続きZEXELスカイラインが参戦。前年の圧倒的な成績から、90kgのウェイトハンデを課せられながらも、昨年DTM参戦の都合上不参加だったBMW・M3勢を相手に奮戦し、当初はトップを走るものの、エンジン不調からやがて失速。さらにピットイン時にガソリンが引火するアクシデントに遭いリタイヤとなった。
1990年11月にはグループAマシンによるマカオグランプリ・ギアレースに長谷見昌弘のカストロールスカイラインが参戦。圧倒的な速さで予選トップを獲得、決勝でもその力を見せつけ、1度もトップを譲らずに優勝した。
他にもプライベートチームよりヨーロッパや北米のレースにも数多く参戦し、ほとんど優勝を飾っている。これらの結果を受けて、ル・マン24時間レースを主催するACOからは4WDシステムの完成度の高さから4WD自体の禁止という事態となった。
まさにGT-Rの復活を裏付けるこれらの結果やエピソードからも、いまだにBNR32は歴代GT-Rの中でもファンが多いことで知られる。
なお余談として、サーキット以外では、1990年に一度だけ世界ラリー選手権(WRC)に出場したことがある(ドライバー西山寛、コドライバー永山政寛でツール・ド・コルスにGr.Nクラスで出場した。)。国内外で活躍したBNR32であるが、元々ラリー用に設計されている車種ではないので、これに関しては流石に結果を挙げることはできなかった。
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