上越市(じょうえつし)は、新潟県南西部、上越地方に位置する市。施行時特例市に指定されており、新潟県内では新潟市、長岡市に次いで第3位の人口を擁する。
政令指定都市でないものの、平成の大合併に伴い区が設置された。都市雇用圏人口についても、当市を中心とする上越都市圏は県内第3位。日本三大夜桜のひとつと称される高田城址公園の桜や、高田城の城下町の総延長16kmもの雁木通りの町並みなどで知られる。
律令時代には越後国の国府が置かれ、戦国時代には長尾景虎(上杉謙信)に代表される長尾氏(上杉氏)が春日山城を居城とした。江戸時代には高田藩の藩庁高田城が置かれ、城下町として盛えた。詳細は歴史の節で後述。
頸城平野で古くから相互補完の関係を築いてきた内陸の城下町である高田と沿岸の港町である直江津であるが、1954年(昭和29年)11月18日、春日村の分村問題に際して、「近き将来において高田市と直江津市を合併して上越中心都市を建設すること」を記した申合書を交換。その後、市街地拡大による連坦が進んだことなどから1970年(昭和45年)12月23日に高田、直江津両市合併協議会が合併期日と新市名が決定し、1971年(昭和46年)1月18日の両市議会での合併可決、同年3月20日の新潟県議会による両市合併の可決を経て、同年4月29日付で両市が対等合併(新設合併)し、発足した(詳細は#編入以前の上越を参照)。合併前時点での両市の人口は、高田市が約7.5万人、直江津市が約4.5万人。
その後、2005年(平成17年)1月1日付で周辺13町村を編入合併し、面積が約4倍に増大。佐渡市(佐渡島の全域)をも超えて県内では村上市に次ぐ第2位の広さとなった。
市町村の合併の特例等に関する法律(合併特例法)に基づく地域自治区制度を初めて導入した市で、現在は地方自治法に基づく28の地域自治区を設置している(詳細は地域の節で後述)。
新潟県内では古くから、越後国(新潟県の本土側)を上方(現在の京都市など)に近い南側から順に「上越地方、中越地方、下越地方」と3つに分けた地方名が慣用されており、前述の1954年の申合書にも記されているように上越地方の中心都市としての役割を担うことから、1971年(昭和46年)の新設合併の際に「上越市」を市名とした。
合併時に港や鉄道での交通の要衝だった「直江津」と県の出先機関や高等教育機関などの地域の中心地だった「高田」の合併だったために、市名の決定においてはどちらも譲れないものがあったとされており、折衷案として「上越地方の中心地」と言う意味での上越市で妥協をお互いに行った。これにより旧市名は鉄道駅や学校名などに残るものとなった。
また平成の大合併時において、過去の合併時の経験から地元の名前への愛着を尊重し、住民感情の分断に繋がらないように地域自治区として旧町村名を残している。
「上越」は群馬(上野国)・新潟(越後国)の両県を表す際にも用いられており、混同を生じさせる場合もある。
上越市と周辺13町村が合併する際に行政側が新市名を上越市に決めた理由とする市内530団体へのアンケート(4割が回答)では意見不足とする考えを持つ市民団体の「住民自治と合併問題を考える会」が北陸新幹線の着工を契機として、「上越市」の市名の改称を求めようと呼びかける動きがあった。
「住民自治と合併問題を考える会」が2007年に実施した住民アンケート(回答者数70人複数回答)によると、新市名に「頸城」関連が36件寄せられた。「市名を考える市民の会」が発刊した小冊子「上越市でいいんですか?市民が誇れる市名を!」の出版記念講演会において、地名研究家の楠原佑介は「決めるのは市民のみなさん」とした上で「頸城野市は十分、検討に値する案」と述べた。
しかし、そうした意見を持つ住民は「上越市」と言う名前に落ち着くまでの紛糾した経緯を知っている世代ほど地域分断を避けるために、ごく一部にとどまり、その後に行われたご当地ナンバー「上越ナンバー」を決定する際のアンケートでも反対意見を持つ住民はごく僅かという結果であった。
市内の大部分の地域は豪雪地帯対策特別措置法に基づき特別豪雪地帯に指定されている。 なお市域の一部は佐渡弥彦米山国定公園に指定されている。
東の新潟市まで129km、西の富山市まで131km、南の長野市まで63kmの場所に位置する。
北には日本海に面しており、夏には内陸の長野県方面からの海水浴客が多く訪れる。
市内のアメダスの観測点は、高田地区中心部の大手町に所在する高田特別地域気象観測所内をはじめ、大潟観測所(大潟区潟町)、安塚観測所(安塚区和田)、川谷観測所(吉川区川谷字宮田)、筒方観測所(板倉区筒方)の計5箇所に設置されている。
市内で最初に気象観測が開始されたのは1921年(大正10年)12月に県が開設した高田測候所で、以後86年間にわたって有人観測が行われ、敷地内には桜の開花発表を行うための標本木も植栽されていた。気象庁ではその後合理化等に伴って2007年(平成19年)9月30日を以って有人による業務を終了し、無人観測に切り替えられている。
冬は季節風が日本海側から吹き,山地にぶつかって雪を降らせることから降水量が多くなる。なお、2022年7月12日、上越市安塚で1時間降水量65.5ミリの観測史上最大雨量(当時)を観測したが、同年8月4日には、これを上回る1時間降水量85.0ミリを観測している。
市内の一部を除くほぼ全域が特別豪雪地帯に指定されている。年毎の差が大きいものの、多雪年の最深積雪は全国でもトップクラスに多く、2mを超えることもある。高田測候所(当時の名称)では1945年(昭和20年)2月26日に、377cmの最深積雪を記録したほか、100cm以上の日降雪量記録が複数あるなど、日本有数の豪雪記録を持つ。高田での積雪量は1986年(昭和61年)2月6日に324cmを記録して以降、最深でも1mに満たないシーズンも多くなっていたが、2012年(平成24年)2月10日には26年ぶりに2mを越え、222cmを観測した。2021年(令和3年)1月11日には249cmを観測し、平成期以降では2度目の積雪2m超えとなった。 市内全域では積雪量に大きな差があり、高田などの内陸部や安塚などの山間部は多く、直江津や大潟などの沿岸部は比較的少ない。 ケッペンの気候区分では地中海性気候に分類されていたが1936年に同気候の定義が変更され温暖湿潤気候となった。
2005年(平成17年)1月以前の旧市域は、大きく分けて旧高田市にあたる内陸の高田地区と、旧直江津市にあたる沿岸の直江津地区の南北2地区となっていた。
高田地区は江戸時代には高田城が築城され、明治以降も国や県の出先が設けられるなど、政治と行政の中心としての歴史が長かった。一方の直江津地区は古くは北前船、明治以降は鉄道と道路など陸海交通の要衝として発展するとともに、港湾に面する立地と、原油や天然ガスなどの地下資源を活かして工業立地が進むなどし、旧市域は両地区を中心とした相互補完の関係の下で発展を遂げてきた。
1971年(昭和46年)4月29日付で両市の新設合併により上越市が発足した。
合併に際し、歴史や特性の異なる2つの地区を融和する必要性から、双方の中心部のほぼ中間点に位置する旧高田市北部の春日地区に市役所、ホール、体育館等の公共施設を整備し、新たな都市核の形成を目指す方針が取られた。このうち市役所については、合併後はまず旧高田市庁舎(1914年8月竣工、1977年6月撤去)を本庁舎、旧直江津市庁舎を分庁舎として5年間運用した後、新しい本庁舎(現在の木田庁舎)を春日地区に建設し、1976年(昭和51年)3月に竣工、同年4月10日に開庁した。
以後、春日地区は市の行政機能の集積地となり、併せて都市基盤整備が著しく進み、複数の都市核を有する「複核型都市」となった。
上越市では高田・直江津双方の中心部を「中心市街地」としており、公文書等では「中心市街地(高田地区)」などと、いずれかの地区を明記している。また市内の道路に設置された案内標識も、どちらの市街地であるかを明記するため「上越市街(高田)」「上越市街(直江津)」という標示が用いられている。
だが近年の上越市は全域で人口減少傾向が著しくなっている。
高田・直江津の両中心市街地も人口減少傾向の例外ではなく、高田地区では中心部の核店舗とも言える存在でもあった総合スーパー「長崎屋高田店」が2002年(平成14年)2月に、百貨店「大和上越店」が2010年(平成22年)4月25日にそれぞれ閉店するなど、空洞化も顕著となっている。
上越市では両中心部の空洞化を抑制するため「中心市街地再整備計画」などの施策を進めており、両者の跡地にはそれぞれ、「あすとぴあ高田」、「イレブンプラザ」がオープンした。
2018年6月には直江津地区にある上越市立水族博物館が「うみがたり」の愛称を得てリニューアルオープンし、狙いとした県内外への上越市の宣伝や交流人口の拡大に大きく貢献した。
2020年7月には、直江津ショッピングセンターエルマールの2階に世界最大級の無印良品が開業した。良品計画は上越市およびショッピングセンターを経営する頸城自動車と包括連携協定を締結し、地域活性化や公共交通の利便性向上、産業振興などに関する幅広い分野で協力していく方針とされる。
その一方で、春日地区では前掲のように市役所木田庁舎や春日山駅、北陸自動車道の上越インターチェンジなどを中心に市街地化が進み、且つ市域南北を縦貫する国道18号の上新バイパス、上越大通り、山麓線などの幹線道路沿線にあたる地区でも、道路交通の利便性を活かして大型ショッピングセンターやロードサイド型店舗が数多く出店し、住宅地開発も進捗している。
2005年の編入市域合併以降、市内28自治区で人口が増加しているのは春日区・新道区・有田区・金谷区・三郷区の5区のみである。
2015年(平成27年)には北陸新幹線の延伸により、高田地区からさらに5 kmほど南の大和二丁目に位置する脇野田駅が上越妙高駅へと改築・改称され、新幹線駅として開業した。同駅からは東京都や長野県、富山県、石川県への移動が便利となった。
駅周辺は新幹線延伸前には住宅地や農地が中心であったが、延伸後にホテルやセレモニーホール、コンビニエンスストア、日帰り入浴施設、レンタカー業者などが次々と出店し、市街化が進んだ。2020年4月には複合商業施設「エンジョイプラザ」が開業した。
上越市には計28の地域自治区が設けられている。これは2005年(平成17年)1月1日付で周辺13町村を編入合併した際、当時の合併特例法で定められた同制度を導入したもので、全国初の導入例となった。
地域自治区制度とは地域住民の声を行政に反映させるための制度で、住民の意見を集約する地域協議会が各区域ごとに設置されているほか、住民から選ばれた委員(ボランティア)が、市の施設運営や予算などについて協議し、市長に意見を伝えることができる。上越市の地域協議会の委員の選任は、全国で唯一、専任投票と呼ばれる選挙方式で選出されている。まず公募によって立候補者を募り、応募者が定員を超えた場合公職選挙法に準じた選挙を行い、その結果を尊重して市長が選任する。応募者が定数に満たない場合は、不足分を市長が選考し選任するとされている。
行政側は地域活動のとりまとめなどを通じて住民を支援する。また、地域自治区内の施設の設置・廃止・管理のあり方について変更を行う場合、市長はあらかじめ地域協議会の意見を聴取しなければならない仕組みとなっている。なお政令指定都市の行政区とは異なり、行政権限は有さない。
前掲のとおり、まず2005年1月1日付で編入合併した13町村に新設され、13区の旧町村庁舎には「総合事務所」が設けられ、所長が配置された。また、この編入市域13区の地名・町名には自治区名が冠されるとともに「大字」の表記が廃止された。
さらに、編入合併前の旧市域についても地域自治区設置の検討が進められ、2009年(平成21年)3月の市議会で「上越市における地域自治区の設置に関する条例」の一部改正の承認を経て、同年10月1日付で昭和の大合併以前の市町村区域に基づく15区が新設された。この旧市域15区の地名・町名の表記には自治区名を冠さないほか、住居表示や町名変更が施行されていない地域の一部では「大字」の表記が存続されている。また総合事務所に代わる事務機能として、南部(高田地区南部の4区)、中部(高田地区北部の5区)、北部(直江津地区の6区)の3地区ごとに、各自治区の協議会に関する事務等を行う「まちづくりセンター」が設置されている。
なお地域自治区制度は2008年(平成20年)4月から合併特例法に代わり、地方自治法に基づいて運用されている。
新潟県内の市町村で3番目の人口規模を有し、前述の13町村の編入合併時には人口約21万人を擁していた。
だが近年は少子高齢化と社会減による人口減少が著しく、合併以降は年間1000人前後の減少が継続しており、推計人口は2013年(平成25年)4月1日時点で20万人を割り込んでいる。
加えて安塚区、浦川原区、大島区、牧区、吉川区、板倉区、清里区、三和区、名立区の9自治区が編入合併前から過疎地域に指定されるなど過疎化が進んでおり、過疎地域促進特別措置法特例措置の条件を満たしていることから、過疎地域(いわゆる「みなし過疎」)に指定されている。上越市ではこの9自治区について、地域の自立促進や市域発展の均衡化などを目的とした「過疎地域自立促進計画」を策定し運用を行っている。
上越市は、日本経済新聞社が2001年に行った全国住民サービス番付の行政革新度の総合で、全国1位になった。
上越地域消防局(藤野新田)
上越地域消防事務組合
榊原康政をはじめとする榊原家にゆかりの深い豊田、姫路、館林、上越の4市による文化交流を目的として、当時の豊田市長の発案によって1985年に発足した懇談会で「榊原サミット」とも呼ばれる。康政は「徳川四天王」や「徳川十六神将」に数えられた一人で、治水や新田開発、街道整備など領地整備の手腕が高く評価されている。懇話会は、歴史と文化を生かしたまちづくりを通して、各市間の友好の輪を広げることを目的としたもので、毎年4市が持ち回りで決定したテーマを基に懇談会を行っている。また4市間では、姫路で懇談会が開催された1996年(平成8年)5月29日付で災害時相互応援協定を併せて締結している。
「集客プロモーションパートナー都市協定」とは、協定を締結した都市間が観光広報活動の活性化や市民交流の促進を通じ、交流人口の拡大と地域活性化を図ることを目的としたもので、上越市は協定を締結している上記5市のうち長野、甲府、静岡の3市との間で「4市協定」を締結している。
まず上越と長野は、海と山をテーマにした都市間交流を目的として2005年10月に協定を締結した。その後「川中島の戦い」を共通のテーマとして、上杉謙信の城下町の上越、武田信玄の城下町の甲府、両氏の戦いの場となった長野の3市連携が実現し、2007年9月に長野市八幡原史跡公園で開催中の「川中島古戦場まつり」に於いて「古戦場の誓い」と銘打ち、3市協定の締結式が開催された。さらに2010年7月、徳川家康の城下町で、上越が姉妹都市として、甲府が連携交流都市としてそれぞれ協定を締結している静岡を協定都市に加え、戦国の世の戦いにまつわる縁と、上信越自動車道と現在建設中の中部横断自動車道によって南北間が結ばれている地理条件を縁とした、4市による観光連携事業が進められている。また4市間では観光連携協定に加え、2012年7月20日付で災害時相互応援協定を併せて締結している。
上越市ではこの4市協定とは別に、佐渡市と、上信越自動車道の起終点という共通点を有する藤岡市の2市とも観光連携事業を実施している。
前掲の北陸新幹線延伸開業に合わせ、上越妙高駅周辺の各種施策の検討を目的として、上越市と妙高市が中心となって2012年4月28日に発足させた「新幹線まちづくり推進上越広域連携会議」に柏崎、十日町、佐渡の3市が参画し、2013年4月に5市間の連携プロジェクト「ようこそ。越五の国へ。」を開始した。5市間では観光誘客など多岐にわたる連携事業が実施されている。2016年6月3日に当初の目的が果たされたとして解散。
上越市は、前掲した姉妹・友好都市および連携・協定都市を含む下記の市区町村と、災害時相互応援協定を締結している。
関川水系などの水力発電による豊富な電力や後述の油田を背景として近代以降に化学工業が発展し、現代でも直江津港周辺を中心に大規模工場が立地する。また、高田では機械工業が発展した。
上越市周辺では明治時代初期から原油の採掘が盛んに行われていた。横浜市から高田へ移住した油商の瀧沢安之助が1875年(明治8年)に石油掘削業を興し、翌1876年(明治9年)に採掘に成功、1877年(明治10年)7月から本格的な機械掘を開始した。
その後は石油開発が進み、1901年(明治34年)11月にはアメリカのスタンダード・オイルの日本法人「インターナショナル石油」の直江津製油所(現在の信越化学工業直江津工場付近)が操業を開始した。だが埋蔵量が乏しく、その僅か5年半後の1907年(明治40年)6月、インターナショナル石油は新潟県内の全資産を日本石油(現在のENEOS)に売却して撤退、日本石油も1923年(大正13年)1月をもって直江津製油所の操業を停止した。
1951年(昭和26年)、頸城区西部の明治地区を皮切りに周辺各地で油田・ガス田が相次いで発見され、1963年(昭和38年)には帝国石油(現在のINPEX)が大潟区渋柿浜で頸城製油所の操業を開始した。しかし国産原油の生産量減少や施設の老朽化などにより、油田は2001年(平成13年)に、製油所は2012年(平成24年)にそれぞれ操業を停止した。なお製油所跡地には2013年(平成25年)、同社の太陽光発電所「INPEXメガソーラー上越」(最大出力 2Mw)が整備された。
2000年代前半、直江津港北東沖で海底表面にメタンハイドレートが露出している海域が発見された。海底面上にあるメタンハイドレートが発見されたのは東アジア周辺海域では初めての事であった。その後2004年(平成16年)7月に実施された共同調査では、日本海側で初めてメタンハイドレートの天然結晶サンプルが採取された。
この他、新潟県域のテレビ・ラジオ局のうち、新潟放送・テレビ新潟放送網・NST新潟総合テレビは支社を、NHK新潟放送局・新潟テレビ21は支局をそれぞれ置いている。
市内の加入電話の市外局番は下記の通り。2002年7月20日、上越市の市内局番は逼迫対策のため三桁化された。県内には市外局番「025」を使用している地域が複数あるが、現在は市内局番500~540番台及び590番台が上越市域に割り当てられている。
2006年1月現在、上越MAと安塚MAの相互通話は未だMAの統合はされておらず隣接扱いのため、市外局番025が必要である。
なお、これらとは別に、糸魚川市に550・560・600番台が割り当てられているが、上越市との相互通話は市外局番025が必要である(上越、新井MAから隣接扱い)。
総合大学はないが、上越教育大学と新潟県立看護大学の2単科大学がある。
職業能力開発校(職業能力開発促進法)
2015年(平成27年)3月14日には北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間が延伸開業し、市南部の和田地区に上越妙高駅が設けられた。新幹線開業に合わせて駅周辺整備や土地区画整理が実施され、それらの一環として信越本線の脇野田駅は2014年(平成26年)10月19日、えちごトキめき鉄道への移管と同時に新幹線駅西側へ移設され、新幹線開業に際して上越妙高駅に改称した。
このほか直江津駅は、上越地方の在来線の拠点駅として機能している。なおJTB時刻表では、高田地区中心部の高田駅を「市の中心駅」として表記している。
市域内の路線バスは、直江津地区に本社を置く頸城自動車と同社の地域子会社による頸城自動車グループ(マルケーグループ)各社が運行している。2009年3月の地域公共交通総合連携計画策定以降は幹線・支線を持つ階層型の路線網への再編が進められており、乗り継ぎ拠点の整備が進んでいるほか、支線の多くは市が主導する「市営バス」(コミュニティバスまたはデマンド交通)として運行されている(詳細はゾーンバス#上越市を参照)。
市では「上越市内公共交通総合時刻表」が毎年発行されており、各社の路線図や時刻表が網羅されている。また、市民向けに時刻表をオーダーメードで提供する「マイ時刻表」作成サービスが2020年度から市によって無料で行われている。
上越市は新潟県南部の交通の要衝のひとつで、北陸各地や東北地方などの日本海側から、甲信地方などの内陸部や、関東地方や東海地方などの太平洋側とを結ぶ経路の結節点となっている。
市域の海岸部のうち、直江津地区から頸城区にわたる地域が直江津港の港域となっている。重要港湾、特定港に指定されているほか、日本海側拠点港のうち液化天然ガス部門の拠点港として新潟港と共に指定されている。
概要節にも述べたように、上越市からは新潟県の県庁所在地の新潟市までよりも長野県の県庁所在地の長野市までのほうが距離が近く、新潟県庁までは125km離れているのに対して長野県庁までは64kmと、半分程度の距離である。
ただし新潟市までの経路は越後平野を通る区間が長いのに対して長野市までの経路は山間部をより長く含むため、自動車での所要時間は新潟県庁まで1時間40分程度に対して長野県庁まで1時間18分程度と20分強ほどの差にとどまる。
2015年(平成27年)3月15日には北陸新幹線が延伸して東京駅から長野駅を経由して上越市内の上越妙高駅にて発着し、富山駅や金沢駅へと運行するようになったため、上越市から長野県や富山県、東京都への移動時間が短縮された。(上越地方#交通記事も参照)
例えば上越市から新潟市の中心駅である新潟駅へ公共交通機関で移動するには特別急行列車で100分から120分程度、新幹線を併用しても最短で70分から90分程度、高速バスで110分から155分程度を要するのに対し、長野市までは新幹線でわずか24分程度、富山市までは40分程度で到着する。
さらに上越妙高駅から東京駅まで新幹線で120分前後で移動できるようになり、新潟市までの移動時間と同程度にまで短縮された。
#施設も参照。
上越地域独特のものとしてサメ食の文化が根付いている。
一般的に想像されるサメとは異なり、主に食されるものとしてはネズミザメ(モウカザメ)であり、臭みが少ない。
海岸部だけでなく上越地域の地形の特性から山間部でも食される。
中郷区の片貝縄文遺跡からはサメの歯が発見され、釜蓋遺跡からはサメの一部とも判断できる画が発見されており、上越地域では縄文時代からサメ肉が食されていたのではないかと推測されている。
越後におけるサメ漁やサメの利用法については、江戸時代中期の宝暦6年(1756年)に寺泊の漢方医・丸山元純が記した『越後名寄(えちごなよせ)』が最古の文献とされる。『越後名寄』には頸城郡山之下(鳥ヶ首岬以西の旧・西頸城郡の海岸)で鱣(ふか、ネズミザメのこと)がよく獲れると記されている。この地域の地形は西頸城丘陵が海岸線に迫り、海岸が急激に深くなっていることもあり、大型のサメが生息する外洋まで短時間で達することができるため、地理的条件としてもサメ漁に適していたとみられている。
『越後名寄』には、鮫魚(さめ、アブラツノザメのこと)のサメ肉について「臭いはあるものの肉そのものは美味しい」と記述されており、山椒や味噌などを付けた焼き物、からしや酢みそで味付けしたなます、煮物、すしなどの調理法が紹介されている。また、日本の会談における化け猫が行灯の油を舐めるのは、行灯には高価な菜種油ではなく安価なサメなどの魚から取れた油を使っていたためではないかと考えられている。
江戸幕府は、フカヒレ、干しアワビ、乾燥ナマコの煎海鼠を長崎の出島を通じて清へ輸出することを奨励し、天保4年(1833年)には、増産のため漁に励むことや水揚げした3品はすべて幕府請負人に売り渡すことなどを厳命した。これによって大型のサメの水揚げが増えると共にフカヒレや肝臓を除いた他のサメの部位が豊富に市場に出回るようになった。旧高田藩士の庄田直道が明治22年(1889年)に記した『越後頸城郡誌稿 物産一巻』には「文化・文政の頃まで、この地域でフカザメを食べる者はめったにいなかった」と記述されている。このことから、上越のサメ食文化が普及したは、サメの水揚げが増えた天保年間以降であると考えられる。
サメ肉は水揚げ後に体内の尿素が分解されてアンモニアが生成されるため、独特の臭みがあるが、このアンモニアによって雑菌の繁殖が抑えられため、特に冬場には生魚のままでもある程度の日持ちがする。冷蔵技術が未発達の時代に、山間部で暮らす人々にとって、サメ肉は塩漬けや干物ではない生魚を味わえる貴重品という扱いであった。上越地域でサメが年取り魚やハレの日の正月料理に欠かせなくなったのは、このような理由も考えられる。
近年はサメ食文化を上越市の観光資源にしようという動きがある。伝統料理に留まらず、サメ肉のフライを挟んだサメバーガー、サメのタレかつ丼、サメのナゲット、サメのパニーニ、鮫のワインづけ、鮫の清酒づけなどの料理が開発されて、販売されており、週末には東京、大阪、北陸などから上越市を訪れて購入する客が現れている。
日露戦争に勝利した日本の軍事研究を目的に来日したテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐が、1911年に、陸軍第13師団が置かれた高田に赴任し、金谷山で日本で初めてとなるスキー講習を行ったことから、上越市は「日本スキーの発祥地」としても知られる。
姉妹都市の一つリリエンフェルト市(オーストリア)は、「アルペンスキーの父」ことマティアス・ツダルスキーが、オーストリア・ハンガリー陸軍将校レルヒにスキーを指導した地である。
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