ペドロ・ローシャ (Pedro Rocha) こと、ペドロ・ビルヒリオ・ロチャ・フランチェッティ(スペイン語: Pedro Virgílio Rocha Franchetti, 1942年12月3日 - 2013年12月2日)は、ウルグアイ・サルト出身のサッカー選手、サッカー指導者。
彼の出身国であるウルグアイでの表記は、スペイン語で「ペドロ・ロ(ー)チャ」だが、彼自身は長らくブラジルで活躍したため、日本では、ポルトガル語読みでこのように表記されることが多い。
クラブレベルでは、主にウルグアイのCAペニャロールとブラジルのサンパウロFCでプレーした。ペニャロールでは、プリメーラ・ディビシオンで8度、コパ・リベルタドーレスで3度、インターコンチネンタルカップで1度優勝した。1963年、1965年、1968年にはプリメーラ・ディビシオンの得点王を獲得した。
1970年にサンパウロに移籍すると、カンピオナート・パウリスタ(サンパウロ州選手権)で2度優勝し、セリエAで1度得点王に輝いた。コパ・リベルタドーレス1974では得点王を獲得した。クラブはセリエAで1971年と1973年に2位となっていたが、最終在籍年の1977年、クラブ初のセリエA優勝を飾った。1978年にはコリチーバFCに移籍し、カンピオナート・パラナエンセ(パラナ州選手権)で優勝した。
1961年から1974年までウルグアイ代表としてプレーし、52試合に出場して17得点を挙げた。FIFAワールドカップに4度出場し、1962年大会は2試合に出場(グループリーグ敗退)、1966年大会は4試合に出場して1得点(ベスト8)、1970年大会は1試合に出場(ベスト4)、1974年大会は3試合に出場した(グループリーグ敗退)。また、1967年の南米選手権では決勝リーグ最終戦にてアルゼンチンに対し決勝点を挙げ優勝に貢献した。
1988年から1989年までポルトガルのスポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルの監督、1996年にブラジルのSCインテルナシオナルの監督、1997年に日本の京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)の監督を歴任した。
2013年12月2日、遺伝性の中脳萎縮症のためブラジル・サンパウロの自宅で死去した。70歳没。
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