松永 東(まつなが とう、1887年(明治20年)10月15日 - 1968年(昭和43年)1月22日)は、日本の実業家、弁護士、弁理士、政治家。第45代衆議院議長。第76代文部大臣。さいたま市名誉市民。
長崎県南高来郡北串山村(のち小浜町、現雲仙市)の農家に生まれる。松永道広の長男。鎮西学院を卒業。1905年、上京した。弁護士事務所の書生をしたり、新聞配達をした。
早稲田実業学校出身。早稲田大学商科に学び中退した(1934年に推薦校友)。また日本大学に学び、法律の勉強をした。1911年、家督を相続した。弁護士試験に合格後弁護士、弁理士を開業した。傍ら武州鉄工所社長、武州瓦斯取締役を兼ねた。
1922年、東京市会議員に当選、同副議長、同議長をつとめた。1932年、第18回衆議院議員総選挙に旧埼玉1区から立憲民政党公認で立候補し初当選。以後当選9回。翼政会政調内務、農林兼務委員などをつとめた。
戦後、公職追放となった。追放解除後の1952年、第25回衆議院議員総選挙にて衆議院埼玉1区から衆議院議員選挙に出馬し当選、復帰を果たす。鳩山一郎・三木武吉らと行動を共にして分党派自由党に加わって吉田茂ら自由党主流派に対抗、分自党の多くが自由党に復帰しても三木・河野一郎らとと共に復党せず日本自由党に加わった。
その後日本民主党結成に関わり、民主党による鳩山政権が成立した直後の1954年12月11日に第45代衆議院議長に就任。しかし翌1955年1月24日に衆議院解散(天の声解散)となったことで僅か1ヶ月少しで議長を退く。
1957年、第1次岸改造内閣で文部大臣に就任。翌58年、「民族意識や愛国心の高揚のために道義に関する独立した教科を設けたい」と道徳教育を科目化した。1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。養子の光が後を継いで衆議院議員となった。1968年1月22日、80歳で死亡。
1924年5月、総選挙に際し、郷里長崎県第4区から立候補して「中原に鹿を逐う」が、途中病気のためこれを断念し、知己のために途を譲ったので郷党から惜しまれた。背たけは低く(5尺そこそこ)で、小さかった。機略に富み、事が起こると、隼のような勢いを示して処理した。
早実の後輩でもある王貞治が、国体の国籍規定(2015年現在は撤廃されている)により静岡国体(1957年)の高校野球に出場できなかった時、早実野球部の顧問が松永に王を出場させてくれと頼むも、松永は「私としては、心情的に王くんを出場させてやりたい。しかし、文部大臣で法律を守らなければいけない立場にいる以上、泣いてでも(国籍規定で)王くんを出場させる事は出来ない。」と断ったエピソードが、近藤唯之の著書で取り上げられている。
趣味はテニス、囲碁。宗教は真言宗。住所は東京都文京区江戸川町、埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)岸町。
松永家のルーツについて、『火の国健児の生涯松永東』によれば「松永の祖先は、島原の乱以降に佐賀・唐津の精農として島原半島の小浜町山畑に移り住み、代々百姓を生業としてきた」という。
松永東の養子の松永光によれば「松永姓は主として唐津付近に多い。唐津藩の模範農民として島原半島に移っていったというふうに伝えられている。私どもの先祖は恐らく島原の乱以後、島原半島に住み着いた百姓でありました。松永家がある島原半島の西側は崖になっており、農耕地が少なく、非常に貧しい地域だった。松永家はそれほど豊かな家ではなかった」という。
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