1939年、京都にて政岡憲三のもとでアニメ映画の制作に携わる。戦前の一時期、京都日日新聞に漫画を連載していたこともあった。
1941年、召集を受け南方に従軍し、1946年復員。
1948年、蜂の巣プロに助監督として参加する傍ら、脚本家としても活動を始める。松竹映画『明日は日本晴れ』(1948年)で脚本家としてデビュー。1956年の『空飛ぶ円盤恐怖の襲撃』では監督も務めた。
脚本家として東宝の娯楽映画を多数執筆。『モスラ』『キングコング対ゴジラ』などの特撮もの、『暗黒街の対決』『独立愚連隊西へ』『国際秘密警察 火薬の樽』などのアクションもので、軽快なテンポと洒落た台詞回しを活かした作品を世に出した。社長シリーズや岡本喜八監督作品でも知られる。
東宝専属であったが、「長編マンガを書きたい」と会社側に熱望し、東映動画で2本の脚本を執筆している。本来は契約違反にあたるが、東宝文芸部で大っぴらに宣言したことで止めようがなかったという。
ゴジラ映画の脚本執筆は『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』までであるが、その後もプロットを提供し、「東宝チャンピオンまつり」を支えた。
作詞家としても著名であり、第7回日本レコード大賞(昭和40年)を受賞した美空ひばりの「柔」、ミリオンセラーを記録した都はるみの「涙の連絡船」など、今なお歌い継がれているものも多い。コロムビア以外の会社では「良池まもる」のペンネームを使用することもあった。日本電波映画では脚本は『アゴン』のみだが、『ジャングルプリンス』の原作や『坊主拳法』や『姿三四郎』などの日本電波映画作品の主題歌の作詞も手がけており、前述の「柔」も同名ドラマの主題歌である。関沢新一は日本電波映画の社長 松本保常の自宅に居候した時期があった。
「ウルトラシリーズ」などで知られる脚本家、金城哲夫や上原正三の師匠でもある。
蒸気機関車のファンとしても知られ、晩年は鉄道写真家としても活躍。鉄道模型の愛好家でもあり、線路が自宅の中を一周するHOゲージの大型レイアウトを製作、龍角散のCMでは本人とともに撮影されている。キネマ旬報社がSLブーム時に創刊した雑誌『蒸気機関車』の初代編集長も務めている。
1992年11月19日午前10時に自宅で心筋梗塞のため死去。72歳没。墓所は京都市東山区隆彦院。
テンポのよい掛け合いのような台詞回しが特徴で、「もともと関西出身ということもあり、漫才が根底になっている」と自ら述べている。文芸部時代に脚本家と携わることが多かった東宝プロデューサーの田中文雄は、関沢について明るい人物であり、脚本もパーツ単位で組み替えられるカラッとした作りであったと証言している。書籍では、同時期に東宝特撮で活躍した馬淵薫(木村武)が「ネガ」であるのに対し、関沢は「ポジ」であると評している。
複数のストーリーを別々に進行させながら次第に融合していくという組み立て方も得意としており、そのため複数の怪獣が登場する怪獣映画にマッチしていたとされる。
関沢は、脚本において大きさなどの具体的な数値を計算することはないといい、映画として絵になるかどうかを重要視している。SF設定も科学的な考証などは行っていない。また、映画は飛躍と省略であるといい、つじつまを合わせることよりもドラマを進行させシチュエーションを盛り上げることの重要性を語っている。映画脚本家としては、尺や予算も計算できるようになることが必要であると述べている。
特技監督の中野昭慶は、関沢の脚本は社会問題を取り入れてもっともらしく作るのがうまかったと評している。一方で、格闘シーンはト書きで「大格闘よろしく」と書いてあるのみだったと証言している。撮影の有川貞昌は、脚本で細かく書かれると特撮ではやりにくいため、すべて任せてもらえるのがありがたかったと述べている。関沢自身は、肝心な部分ではアクションも一応書いていたと述べている。
東宝の助監督であった梶田興治は、関沢を「天才」と評しており、ゴジラシリーズなどでは小説家らによるシリアスな原作に関沢がエンターテイメント要素を加えたことで人気になったと述べている。関沢は自身が鉄道模型の電線を口に咥えて感電した経験から、ゴジラが鉄塔に火を吹く時に感電しないのかと考えるなど、発想もユニークであったという。また、関沢自身が作詞について「簡単だ」と述べていたことも証言している。
『モスラ対ゴジラ』などに出演した宝田明も、関沢の脚本は作品が華やかになるセンス・オブ・ワンダーの宝庫と評しており、『怪獣大戦争』のように怪獣や宇宙人の物語を人間ドラマにうまく絡める技術を評価している。また、内容に疑問を感じるような脚本では感情移入することができずつっかえてしまうことがあるが、関沢の脚本ではそのようなことはなかったという。
『モスラ』のインファント島をはじめ、関沢の作品では南海の孤島を舞台とするものが多い。これについて関沢は、それ以前の『空の大怪獣 ラドン』や『大怪獣バラン』など山中から怪獣が出現する作品が暗い雰囲気であったのに対し、ファンタジックで華やかな南の島は自身のネアカな性格に合っていたと述べており、自身が太平洋戦争中に訪れた南方や自身が愛好するムー大陸などの雰囲気などを反映している。一方で、舞台設定は思いつきで浮かぶことが多いといい、具体的な位置などを示さず「南海の孤島」という漠然としたイメージに留めることで、お伽話における「昔々」や「あるところ」などのようなストーリーを展開させるための雰囲気作りを目的としていたことも語っている。
鉄道ファンであったことから、自作にも鉄道を登場させることが多い。同じく鉄道ファンであった円谷英二は、関沢に何の鉄道を登場させるか事前に聞いてミニチュアなどを用意していたという。円谷は晩年に撮影用の車両を関沢へ譲ることを約束していたが、果たすことなく死去した。
多作であることでも知られ、全盛期には1年間に5本以上の映画を手掛けており、担当作品が連続して公開されたり、2本立ての作品両方を手掛けるなどしていた。関沢は、忙しい方がかえっていろいろなアイディアが出ていたと述べている。
平成ゴジラシリーズの監督や脚本を務めた大森一樹は、『ゴジラvsビオランテ』の制作時に関沢の脚本を読み込んだといい、物語の展開の仕方や怪獣映画でありながら他ジャンルの映画の要素も取り込んでいることなどを評価している。『vsビオランテ』当時の大森は、関沢作品の内容を「絵空事」として否定的に捉えていたが、実際に自身で制作して怪獣と現実は噛み合わないと実感し、関沢が偉大であったと思い直したといい、『ゴジラvsモスラ』などではその手法を取り入れている。
映画は日本映画よりもフランス映画やイタリア映画を好んでいた。アニメ作品では、『未来少年コナン』を高く評価していた。
渋谷で旅館を経営しており、その一室を自身の仕事部屋にしていた。
金城哲夫は、円谷英二からの紹介で関沢に弟子入りし、一時は関沢の自宅近所に住んでいたこともあった。金城が沖縄へ帰郷した後も交流はあり、金城は仕事に行き詰まると酔って関沢に電話をかけていたという。関沢は、金城から沖縄を訪れるよう求められ、来訪を約束していたが、金城の存命中に果たされることはなかった。
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